このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
『奥の細道』 |
立石寺 |
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑 の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢より とつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿か り置て、山上の堂にのぼる。岩に巖を重て山とし、松柏年旧土 石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐ り岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ. 閑さや岩にしみ入蝉の声 |
山寺駅 山形新幹線を山形駅で仙山線の乗り換え、山寺駅に降り立ったのは7月14日(日曜日)、芭蕉が山形に立ち寄ったのは元禄2年(1689)5月27日、現在の暦だと7月13日だったから、一日違いということになる。芭蕉来訪の時季にあわせたのだろうか、「全国俳句山寺大会」の看板が立っていた(会場は山寺芭蕉記念館)。 | ![]() |
![]() | 山寺 駅を出て立谷川に架かる宝珠橋を渡れば、「岩に巌を重て山とし、松柏年旧(としふり)、土石老て苔滑(なめらか)に」と『奥の細道』に記された山寺は目の前だ。岩の上の一番高い所にある建物は五大堂、その右手が開山堂。 |
根本中堂 登山口の石段を上れば正面が根本中堂だ。慈覚大師の立石寺創建は貞観2年(860)、延文元年(1356)の再建になるこの建物は、ブナ材建築では日本最古のものといわれる。 昔々山寺を訪れた時は雪のある時季で、境内には人影もなかったが、この日は梅雨の中休みの日曜日とあって、参拝の人でかなり賑わっていた。 | ![]() |
![]() | 芭蕉句碑 根本中堂脇に 「閑さや巌にしみ入蝉の聲」の句碑がある。門人たちが嘉永六年(1853)に建てた、と説明板に記してある。 |
芭蕉句碑と芭蕉像 秘宝舘前には昭和47年建立の芭蕉像と、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句碑ガある。その右手に平成元年建立の曽良の像などもできていた。 | ![]() |
![]() | 山門 ここで拝観料を納める。大仏殿のある奥の院までは1000段余の石段を上らなければならない。『曽良旅日記』によると、尾花沢を午前6時半ごろ出発、午後3時ごろに山寺に到着、麓の坊に宿をとり、その日のうちに「巡拝」を終えた、というから、昔の人は健脚だった。 |
せみ塚 左は「せみ塚」の標柱、右上がせみ塚。芭蕉の「閑さや……」の句を短冊にしたたものを埋め、石の塚を立てたもの、と説明板にある。せみ塚前の茶店で名物の玉こんにゃくを食べながら、セミのことを尋ねたら、二、三日前から鳴き始めたが、今日は鳴かないといっていた。以前に比べると、セミはずいぶん減ったという。 芭蕉の詠んだセミについてはニイニイ蝉、油蝉、ヒグラシなど、諸説がある(齋藤茂吉と小宮豊隆の論争が有名)。 この句の初案は「山寺や石にしみつく……」で、それを「さびしさや岩にしみ込む……」と直し、さらに推敲して『奥の細道』の句になったという。 | ![]() |
仁王門(昔の写真) 1977年3月中旬の写真。奥の院からの下りに撮ったもの。門の向こうの人影は友人S、他には山内に誰もいなかった。境内のあちこちにまだ雪が残っていた。 | ![]() |
奥の院の卒塔婆 先年友人に連れられて来た時には、雪中に卒塔婆が乱雑に倒れていて不気味だったが、今回は周辺も整理が行き届き、梅雨晴れの中を参拝の人が行き交って。、印象はまるで違ったものだった。 | ![]() |
![]() | 開山堂 立石寺を開いた慈覚大師の木像を安置する。左の岩上に立つ小さなお堂は、写経を納める納経堂で、山内で最も古い建物という。重要文化財。開山堂の右手を上がると、山寺随一の展望台の五大堂がある。 |
山内の眺め 向こうの山上にも中腹にも、いくつもお堂が見える(写真でははっきりしないが)。 | ![]() |
![]() | 胎内堂 望遠レンズでとらえた、岩に抱かれるようにしているお堂は、胎内堂と思われる。 |
山寺芭蕉記念館 山寺とは紅葉川を挟んだ反対側の高台にある。平成元年の開館。芭蕉関係の資料の常設展示の他、企画展示もある。別棟で茶室、芭蕉堂などもある。山寺駅に帰る途中かすかにセミの声を聞いた。ニイニイ蝉のようだった。 | ![]() |
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