このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『火垂るの墓』紀行——西宮/ニテコ池再訪(1995)
  満池谷の中央の道を少し進むと、そこはもう池の土手で、池からの小さな流れに沿って田んぼがある。3,40センチに伸びた稲の上を、とんぼが悠々と飛んでいた。土手を上がって堤防に立って見ると、かつて満々と水をたたえた上の二つの池の堤防が跡形もなく消えて、一望の地肌をえぐられた凹地になっている。中の池の白い制御塔がポッンと取り残され、下の池の白い制御塔も半分壊れている。堤防の土手には鉄柵が打ち込まれ、工事用の機械が作動していた。『火垂るの墓』の舞台を象徴するニテコ池の、まさかの変貌を目のあたりにして声を呑む思いだった。
 ニテコ池をぐるりと道路が一周しているのだが、西端の名次神社のあたりは不通で、その裏手などに地震の被害が大きかったようだ。坂道を下ってまた池に出るとそこは松下幸之助の文字どおりの豪邸で、無傷だったように見える。正門にも裏門にも銃眼のような防犯カメラが外部を監視している。松下は嫌いだ、と野坂が奥野健男に語ったということをふと思い出したりした。その奥野の文学紀行取材に付き合ってニテコ池に来た時も、野坂がついに明かさなかった壕の位置を、この年(95年)に野坂ははじめて明らかにした(2/23『週刊文春』)のだった。奥野にたずねられても「悲しげな目をするだけ」でついに答えなかったそれを、何故語る気になったのかは、養母の死にまつわる「嘘」を突然『赫蛮たる逆光』に表明した時と同様「謎」である。しかし「壕の前は、西宮市の上水源、ニテコの池、左に松下幸之助氏、向うに東洋ベアリング社長の、それぞれ宏壮な屋敷…」と書かれたお陰で『火垂るの墓』の舞台がにわかにリアリティを伴って浮かび上がって来たのだった。
大震災前のニテコ池
ニテコ池(1994・10・22撮影)
大震災後のニテコ池
ニテコ池(1995・7・8撮影)
大震災前のニテコ池ニテコ池 3つつながる池の一番下の堤防(1994・10・22撮影)
ニテコ池 震災後の一番下の堤防(1995・7・8撮影)大震災後のニテコ池
ニテコ池堤防ニテコ池 一番下の堤防の制御塔。前方の木立の中に松下邸がある(1995・7・8撮影)
ニテコ池堤防下の水田(1995・7・8撮影)堤防下の水田
大震災後の満池谷震災後の満池谷(1995・7・8撮影)
震災後の満池谷 倒壊家屋の跡は更地の広場になって、ひまわりが一輪咲いていた(1995・7・8撮影)更地に咲くヒマワリ
大震災後の満池谷神戸空襲後、野坂昭如(当時は張満谷昭如)が妹と身を寄せたという 親戚の家の跡 (前方中央——1995・7・8撮影)
小林古径邸

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