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近藤忠義の最初の著者『日本文学原論』は、1937年(昭12)に刊行されたが、執筆者の思想的立場と内容故に岳父藤村作の名前で上梓、という背景をもつ。当時は本や雑誌に「×××」の伏字、刊行そのものの禁止(発禁)や押収も珍しいことではなく、土方定一、平野義太郎、岡邦雄の著者なども、別人の名前で出版されたという(『日本文学原論』河出文庫版解説)。この本の「歴史的・社会的な文芸学」は、戦後は「歴史社会学派」として継承発展、著者近藤忠義はその中心的存在として注目された。 近藤忠義は法政大学に長く籍を置いたが、晩年、新設の和光大学に移り、同大学を退職した1976年(昭51)4月、74歳で死去した。 その「近藤忠義先生を偲ぶ会」、が07年4月28日、法政大学で催された。百数十名の参加があって盛会だった。門下生や学問的影響を受けた学者など、ゆかりの人たちによる挨拶、講演などいろいろあった。近藤忠義は私にとっても恩師で、廊下に掲示・展示された写真や謄写版刷りの印刷物など、実に懐かしかった。中には私の署名もある、「近藤教授還暦祝賀会芳名録」もあった。この1961年の時も、その10年後の古稀のお祝いの会の時も。大勢の参会者だったが、そして今回、没後30年余の偲ぶ会でこれほどの盛会は、学者研究者の世界としてはきわめて異例のことと思われる。改めて先生の人徳を偲び、旧知と往時今昔を語って、話は尽きなかった。 | |
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挨拶をする天野紀代子法政大学教授 | |
![]() | 会場となった法政大学市ヶ谷キャンパスのボアソナードタワー |
会場入り口の「近藤忠義先生を偲ぶ会」の立看板 | ![]() |
![]() | 会場前の廊下に掲示された遺族提供の写真 |
同じく展示された「近藤教授還暦祝賀会芳名録」 | ![]() |
![]() | 「近藤忠義 人と学問」 「三十周年・近藤忠義先生を偲ぶ会」のために、島本昌一氏が中心になって編集発行された小冊子。05年12月創刊、07年1月までに4号が出された。 |
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「近藤忠義 人と学問」4号掲載 「赤ちゃん会のこと」清水節治 | |
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