国生みの島

家島群島

家島群島は、兵庫県南西部、姫路市から 南西約18㎞、瀬戸内海播磨灘の中央に位置し、東西26.7㎞、南北18.5㎞にわたり、大小40余りの島々が散在しています。群島の総面積は、約20.23平方㎞、その2/3を山林が占めています。現在、人が住んでいるのは家島本島、西島、男鹿島、坊勢島の4島にすぎず、総人口約7,000人です。
家島の歴史は古く、旧石器時代からの遺物、遺跡が群島の各地で発見されており、日本列島で、人々が生計を立てるようになった時期と同じ頃、まだ瀬戸内海が草原、湿原だった頃、家島でも同様の生活が営まれていたことがうかがえます。
現在も、家島本島網手地区の海岸には、土器の破片が打ち上げられて来ます。この事から、海底には、当時陸地だった場所が、当時の人々の生活が、眠っていることをうかがうことが出来ます。
縄文時代には、小型の縄文土器を使って、製塩をやっていた形跡が見られます。
日本列島が現在のような形になってからは、入り組んだ入江が点在し、古くから、瀬戸内海航海の風待ち、潮待ち、避難港として栄えて来ました。
名前の由来は、神武天皇東征の際、嵐にあい、この島に避難された時、「まるで家に居るように穏やかだ。」と言われた事から、『家島』と呼ばれるようになったと、言われています。
四十四島とも言われる、大小の島々は、見立てによっては、平野に点在する「家」にも見えるところから、航海者には、ほっと安堵できる島影であったのでしょう。
風土記では、群島全てをあわせて、伊刀嶋と呼んでいたようです。
家島群島は、奈良時代、文化2年に国・郡の制度が定められて、針間国飯粒郡に属し、和銅6年(713年)には、揖保郡と改められました。
平安時代になると、揖東郡に編入されました。江戸時代、寛永年間には、宮浦に藩士が置かれ、姫路藩の所領として栄えました。 幕末1850年頃、天鼻に台場を築造しています。現在も、天神鼻には、その台場跡が残っています。
明治4年の廃藩置県により、家島群島を含めた播磨一円は姫路県となり、後に、飾磨県と改称されました。明治時代には、漁業と農業が非常に盛んだったそうです。
明治9年に、飾磨県は、兵庫県に合併され、明治12年、郡区町村編制法の施行により、飾東郡に編入。
明治22年、町村制の施行で家島村と称するようになりました。
明治29年に飾東郡と飾西郡が統合され、飾磨郡家島村が誕生。
昭和3年11月10日、家島群島全域が飾磨郡家島町となりました。
現在では、姫路市と合併し、姫路市家島町となり、漁業、採石業、海運業が多くを占めています。


古事記と日本書紀


古事記は、西暦681年頃、飛鳥淸原宮にて、天武天皇の命により、稗田阿礼、川島皇子を中心に各地の伝説、神話等を集め、古事記をまとめる事業が始まりました。ところが、686年天武天皇が病のため、65歳で亡くなり、この事業が中止になりました。
710年(和銅3年)3月、元明天皇は、都を平城京に移し、天武天皇の意思をついで、民部卿の太安万侶を中心に、稗田阿礼らに協力させ、古事記編集の事業を再開させました。
太安万侶らは、古事記を完成させ、710年(和銅5年)1月、元明天皇に献上されました。
古事記は、日本に残っている最古の書物として、1300年近くたった今も多くの人に読まれつづけています。
後に、日本書紀も編集されますが、日本書紀は、古事記を基に、不可解な、自分達には理解しずらい内容を変えながら、話を作り変えられています。政治的意図も古事記より、はるかに絡んで作られたと思われるので、古事記のほうが各地の本当の伝説、神話に近いと考え、古事記を中心に研究してきましたが、日本書紀やいろんな書物との違いをヒントに少しずつ解釈を変えて行きました。


国生み神話


古事記の中の国生み神話によれば、「この(クラゲのように)漂える国を修め固めよ」との天神(アマツカミ)の命によりイザナギ、イザナミの二神が天の浮き橋から天沼矛を指し降ろしてかきまわし、引き上げたその矛先から滴り落ちる潮が、おのずから固まってできた島がオノゴロ島である。そして、天御柱を見立て、社を作りました。そして、天御柱をそれぞれ逆方向にまわり、ミトノマグワイをして水蛭子を生むが、(島とはなれず)葦船に入れて流し、次に淡島を生むが、島とはなれず、天神に相談し太占をして、やりなおし、淡道之穂之狭別島(淡路島)、伊予之二名島(四国)、隠岐之三子島(隠岐)、筑紫島(九州)、伊伎島(壱岐)、津島(対馬)、佐渡島(佐渡)、大倭豊秋津島(本州)の順につくり、最初の2つをのぞき、大八島国とする。
オノゴロ島は、イザナギ、イザナミによって、日本で最初に作られた島ということになっています。他の島は、生まれてくるのに対して、この島は、おのずから固まって島になっています。これは、他の島に対して、特別視しているようです。
仁徳記歌謡にもその名が歌われていますが、オノゴロ島の伝承地は各地に存在していますが、実在の島ではなく、神話上の島、空想上の島だと考えられています。


多くの国生み神話の解釈では、「天の御柱を立て、その前に社を作りました。」と書いていますが、式内名神大社家島神社宮司、高島俊紀氏の解釈は、「そこにある何かを天の御柱と見立てて、その前に社を作りました。」というもの。
これは、原文を見ればよくわかります。原文では「見立」と書いてあることから、もともとあった何かを天の御柱として見立てたのである。つまり、西島頂上石群が天の御柱であるならば、もともとそこに存在していたあの中心の巨石を天の御柱ということに下のではないだろうか? 
一部の解釈本では、そのまま「見立て」としてあるものもあります。

私は、先ほど水蛭子を島と解釈して書いていますが、ほとんどの解釈本では、「神にはなれず」と水蛭子を島扱いせず、神として解釈されています。醜い奇形の神として解釈されています。
ヒルコを「日子」として、葦船を太陽の船と解釈され、古代太陽神崇拝の名残と言う意見もあります。
古事記では、「国生み」で水蛭子は生まれますが、日本書紀では、水蛭子は「国生み」には出てこないで、「神生み」のほうに移されています。これは、やはり水蛭子を蛭のように醜い子と解釈してであると思われます。
しかし、古事記の水蛭子が誤って国生みに書かれたにしては、余りにも不自然です。やはり、水蛭子も島として考えるべきではないでしょうか?
イザナギがミトノマグワイの前に、「国土を生もうと思う」と、言っているので、やはり、水蛭子も「国生み」に出てきている限り、島と解釈するのが正しいと思われます。
私の考えは、水蛭子を「日子」という考え方に近く、蛭子は、別の読み方をすれば、「エビス」と読むことが出来ます。
蛭子は、「エビス」、つまり、恵比寿であり、後に船でやって来る神である。
これは、例えであって、やはり、島になれなかった島であり、後にオノゴロ島周辺の海人に幸を与える存在になったものと思われる。この考え方は、金山敏美氏に頂いた資料を読んで、得たものであります。
今から約40年前に、東京大学生物学助教授山川振作氏によって書かれた『記紀「国生み」神話の考察—特に古事記の水蛭子・淡島について—』では、水蛭子を恵比寿と考え、島になれなかった島、つまり広大な浅瀬で瀬戸内海最良の漁場である鹿ノ瀬、淡島を明石の瀬戸近くの岩との、まったく新しい解釈が書かれてありました。
そして、オノゴロ島は、家島ではないだろうかと、解釈をされています。オノゴロ島が家島というところは、半分夢物語的になっていますが、その可能性を否定していません。ただ、家島がオノゴロ島であるという決定的な証拠がないので、半分夢物語で終わっているようです。

神武天皇と家島


古事記の中で、神武天皇東征の際、吉備(岡山)の高島の宮に八年間滞在し、そこを出ると、亀に乗って釣をしている人に出会い、彼に道案内をしてもらう話が出てきます。
家島本島真浦港の側には、「播磨鑑」にも出てくる「どんがめっさん」という、亀の形をした巨石があります。古くから、ずっと島の人々に語り伝えられているこの石の伝説がこうである。
白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、沖で釣をしていると、吉備水道を抜け出てきた船団が播磨灘に向かってやって来て、翁が、この海に関して詳しいことを知り、翁に道先案内を頼みました。船団は、家島に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、食料の補充をして数年間が立ちました。そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。難波に着いて翁は、多くの人々から、手柄を誉められて、翁の亀は、手柄を立てて忙しい主人を置いて、先に難波ヶ崎から、家島に帰ってきました。主人の帰りを待ちつづけ、やがて石になってしまった。
明治時代は、この「どんがめっさん」は、城山(飯盛山)の中腹にあったそうですが、主人を待ちきれないのか、どんどん下に降りて来て、現在では、山のすそまで降りてきています。これ以上動かないように、下をコンクリートで固められ、玉垣で囲まれて、真浦港のそばで、水天宮として、祀られています。
この話では、この船団が神武天皇であるとは、伝えられてはいません。しかし、あまりに酷似しています。岡山に高島の宮の存在しなかった。(しかし、「どんがめっさん」に比べると小型ではありますが、亀の形の石は存在しているそうです。)昔、家島群島の西島は、高島、大高島と呼ばれていました。高島の宮であったとも考えることが出来ます。宮とは、現在の宮と考えることも出来るのではないでしょうか。亀とは、漁師の集団を表し、翁は、それを統率する長、つまり網元であったと考えられます。
東征中の神武天皇率いる船団は、吉備水道を抜け播磨灘を通り、摂津を目指していた。嵐(家島では、「ヤマゼ」と呼ばれている南風と推測される)に遭い、避難場所を探してなれない瀬戸内海をさまよっていた神武天皇の船団は、漁師達の船団に出会い、彼らに自分達の船団全てが非難できる港がある家島に案内してもらい、港に入ると、まるで外の嵐が、ウソのように静かになって、(「ヤマゼ」の時、湾内は、穏やかである)神武天皇は、「まるで家にいるようだ。これよりこの島を家島と呼ぼう。」と言われた。
神武天皇は、この島で、思いもよらないものを見つけることとなる。だから、8年をかけて、高島の宮にて、船の修理、兵士の訓練、食料の補充をしました。
神武天皇が見つけたものとは、ここに祀られている「アマツカミ」、そして、高島の山頂にあるどうしても目に入ってくる巨大な石の柱であった。これが、8年間もここに滞在する大きな理由となる。
そして、神武天皇の船団は、白髪長髪の翁率いる漁師達を先頭に、出航し、無事、難波に到着する。この神武天皇の船団を導いた漁師達の長は、この手柄によりそのままその船団に迎え入れられたため、他の漁師達は、長を置いて、家島に帰ってきたと考えられます。そして、長を偲んで、この「どんがめっさん」を作ったのではないでしょうか。
この時、はじめて、家島という名前がついたのではないでしょうか。


式内名神大社家島神社



式内大社家島神社は、家島本島の入江の東、天神鼻に位置し、「天神さん」と、島の人々から親しまれています。
またこの天神鼻の森には、家島唯一の原始林が現存していて、ウバメガシ、シイ、トベラ、モチなど温帯照葉樹林の見事な植生を見ることが出来ます。同じような原生林は赤穂沖の生島にもありますが、非常に貴重なものです。
この原始林の中には、古い社で使われていたと思われます加工されたような石、土器のようなものが散在しています。
式内大社家島神社は、2700年以上の歴史を持つと言われ、延喜式の式内という位を与えられている、日本有数の位の高い神社で、古くから、必勝祈願の神として親しまれています。
かの菅原道真公も、太宰府に左還される際、立ち寄られたといわれている由緒ある神社です。道真公が、立ち寄られて、社が立てられたように勘違いしている島民も多いですが、それ以前から、家島神社は存在していました。
現在の式内大社家島神社は、石の階段、清水公園からの舗装された道路があるので、容易に参拝することができますが、菅原道真公が立ち寄られた時代は、切り立った山の山頂にそびえていて、そう簡単に行ける場所ではなかったはずです。そして、湾の入り口であり、風当たりも強いそんな危険なところにわざわざ立ち寄られたということは、やはり、何か目的があったのではないかと思われます。
地名が天神鼻その由来は…。
現在、式内大社家島神社には、天満天神、大己貴命、少彦名命の三神が祀られていますが、もともとは、天満天神「テンマンテンジン」ではなく、天神「アマツカミ」を祀ってあったそうです。天神「アマツカミ」から、菅原道真公が立ち寄ったために、誤って、後に天神「テンジン」、天満天神になってしまったと思われます。
天「アマ」とは、海「アマ」海、もしくは、海人「アマ」という意味だという意見もあり、天神「アマツカミ」は、海神「アマツカミ」海を司る神、もしくは、海人神「アマツカミ」として海人にとって瀬戸内海上では、重要な神だったと推測できます。
天神鼻の由来は、天満天神ではなく、天神「アマツカミ」ではないかと思われます。
道真公は、そこに立ち寄ったのではなく、天神「アマツカミ」に詣っていたと、推測できます。
天神「アマツカミ」の住んでいた地を古事記の中では、高天原「タカマガハラ」といいます。それを高島原「タカシマガハラ」が転じたもの。もしくは、その反対で、高天原が、高島原、高島に転じていったとも、考えられるのではないでしょうか。私は、それが現在の天神鼻、式内大社家島神社ではないかと考えています。つまり、「国生み」の元となった話の時代には、海神「アマツカミ」と呼ばれていた人々が住んで占いなどをし、海人「アマ」を導いていた地が、現在の式内名神大社家島神社なのではないでしょうか。


西島



西島は、家島本島の西側にあり、本島から見て西の島、すなわち西島というわけです。約7.00平方㎞の島は、現在、採石業が中心で、住人のほとんどは、採石業にかかわっています。
古くは、高島、大高島と呼ばれていました。その名のとおり家島諸島の中では最も高く、目立つ島だったから、そう呼ばれていたのではないかと思われます。
西島は、現在の採石業が始まるまでは、無人島でした。しかし、そこには、古代の人々の足跡が、多く発見されています。
この島の地名は、ほとんどが当て字、カタカナで表され、意味も由来もわかっていません。島の方言にも、まったく当てはまらず、本当に、日本語であるかどうかもわかりません。ここが、家島の謎に迫るキーポイントであることは、間違いないでしょう。
この島のコウナイと呼ばれる地区の山頂には、いろいろな呼び方をされている高さ8mの巨石とそれを囲むいくつかの石があります。
西島の南の浜は、オドモの浜といい、この浜の一画には、マルトバ積石群集墳という浜辺の石を組み上げた古墳が何基か残されています。
坊勢と西島の間にある瀬は、「天の浮橋」と呼ばれています。現在は、少し掘り下げていますが、数年前までは、干潮の時には、西島と坊勢をつなぐ道となっていました。


西島頂上石群 コウナイの石


西島頂上石群は、兵庫県姫路市家島町西島地区高内(コウナイ)海抜181mに位置する、奇岩群である。中央に高さ約8m、周囲約25mの巨石を有し、いくつかの石がその巨石を石垣のように支えています。それを囲むように、50㎝から2mの石がそれを守るかの如く散布しています。巨大なストーンサークルのようにも考えられます。西島頂上石群は、姫路港周辺からでも、中央の巨石を目で確認することが出来ます。
地名である高内(コウナイ)は当て字で、古い地図では、構内となっています。意味、由来はやはり不明である。その発音「コウナイ」が重要であることは間違いないでしょう。
現在、九州天草在住の元坊勢島の医師で、この石の研究者の上野忠彦氏によると、海洋民俗であるシュメールのコウメイと言う一族の名前から、由来しているのではないかと考えられています。上野氏によると、古代オリエントとの交流もうかがうことができます。
周りの石はさまざまで、塀のように、地面から垂直に出た板状の石や、平らな台のような石や、棒状の石などもあります。それらの石は、明らかにその山から産出される石とは種類が違い、中央の巨石群とそれを囲む石群の種類も違う。中央の巨石群は、いくつもの小石を取り込みながら1つの巨石となっています。
鉱物科学研究所の調査によると、岩石中には高温石英の斑晶が認められ、半深成岩(火成岩)の一種の石英斑岩に相当するとのことです。
1959年(昭和34年)地質、考古、民俗学などの各専門家が家島群島の総合調査を行い、神戸新聞社から、「家島群島」が発行されました。
その調査では、この西島頂上石群については、ちゃんとした調査が十分にされず、遺跡とは認められず現在に至っています。
昔から、この石(主に中央の巨石のみ)は、てっぺん岩、頂上岩、頂上石、コウナイの石、天の御柱、天の沼矛、天の逆矛、西島の石神さんなどいろいろな、呼び名がついており、隕石だという人もいます。前述のとおり、石の成分からニッケルなどの隕石特有の物質が含まれていないことから、隕石と言う説は、外れます。
現在では、上野氏の貢献で、「コウナイの石」というのが、一番ポピュラーな呼び方になっています。
頂上石群は、1997年には、当時、坊勢の上野医院の医師であった上野忠彦氏による「コウナイの石」という小説が発行され注目を浴びる。
その後、上野氏達により、古代文字(ペトログラフ)などが発見され、NHKなどで放送されている。上野氏は、家島から天草に帰られた後もこの石について研究し、なくなる寸前まで、出版物に寄稿されていました。

マルトバ積墳群


マルトバ積墳群は、西島の南側、オドモの浜の一角にあります。この積墳群は、石積の墳丘墓で、箱式石棺、人骨をはじめ、縄文土器、勾玉、須恵器などの副葬品が出土しています。不思議なことに、何かの儀式のためかここで発見されたどの人骨にも、頭蓋骨だけがありませんでした。
マルトバ積墳群も「家島群島」で、調査はされましたが、湿地帯のうえ、土砂が崩れて、埋まってしまっているため一部のみの調査にとどまっていました。
後に上野氏により、多くのストーンサークルが発見されました。やはりこの「マルトバ」という意味も由来も不明であるが、上野氏によると、マルトバという意味は、梵語のマニトゥバ、聖なる玉、精霊の墓標の塔を表す言葉と関連があるかもしれないとのことである。これらの関連性についても、上野氏は、現在も研究されております。
播磨風土記の中に、こんな家島にまつわるこんな話があります。
その昔、伊刀嶋(家島)の東にある神嶋の西側にあった仏像のような形をした石神の顔についている五色の玉がある。この胸にも五色の流れる涙がある。この石神が泣く訳は、品太天皇の御世に新羅の客人(マレビト)が来朝したとき、この神が非常に立派なのを見て、世の常ならぬ珍しい宝玉と思い、その顔面を切り裂いてその一つをえぐりとった。それによって、この神は泣いている。さて、神は、大いに怒り、すぐさま暴風雨を起こしてその客船を破壊した。舟は、高島の南の浜に漂流して沈没し、全員ことごとく死亡した。そこで遺骸をその浜に埋めた。だからその浜を名づけて韓浜という。今でもそこを通行する者(舟人)は、深く用心して、戒を固く守って、「韓人」という言葉を言わず、盲目のことには触れないようにする。韓人の破船の漂流物は、韓荷嶋に漂着した。
この話に出てくる韓浜が、このオドモだと言われています。そして、マルトバ積墳群が、新羅の人達の墓ではないだろうかと言われています。ここで発見された人骨に頭がないのは、石神に対しての戒めとして首を切って埋葬したと考えられます。たぶん首のほうは、石神にささげたと思われます。
私は、この話に出てくる「神嶋の石神」を西島頂上石群と考え、研究を続けていましたが、(「オノゴロ島と家島」の中では、神嶋を西島と書いています。)2000年5月13日土曜日、上島で山火事があり、私は消防団員として、消火にあたりました。偶然とは、おもしろいものである。その時、初めて西島の石神を見ました。確かに、神嶋の西側には、水面から胸より上を出して悲しそうな顔で、西の方角を見つめている石神がそこにそびえていました。伊刀嶋(家島群島)の東にある神嶋(上島)の西側にある仏像(人)のような形をした石神、確かに、上島には、風土記通りの石神が家島の方を向いて泣いていました。自分の考えが、浅はかだったことを知らされ、悲しいが、この文章が完成してしまう前に、間違いを知ることが出来たことは、良かったと思う。
家島の郷土史研究家の故中上実氏は、現在の上島から、船を流して、どこに流れ着くか実験をして、やはりオドモに流れ着いたそうです。
オドモには、昔から、「火の玉」の話があり、それは、見てはいけない物とし、人々に恐れられています。
ここから、推測されるのは、怖い話を作る場所は、何か大切な場所であることが多い。何らかの神聖な場所であると推測できます。
残念ながら、現在は土砂に埋もれ、調査ができない状態です。

てっぺん岩


私は、ここであえて、頂上石群を「てっぺん岩」と書いています。それは、長年のこの石群に対する私の想いと理解していただきたい。
私は、1998年6月7日に家島の郷土に詳しい金山敏美氏、当時、西島頂上石群について調べているルポライター荒木有希氏達と共に、この石の調査というよりも見学に行きました。これが私にとって、現場での第1回目の調査となります。
家島本島から、船に揺られて約15分、この日は、普段見慣れている遠目で見る「てっぺん岩」は、いつものそれとは違い、何か、初めて見る物のような気がしました。
西島に着くと、ジープで、砕石場のある程度整地された道を数分走り、最後の急斜面は、でこぼこ道で、水が流れた跡が、深い溝を作り、こんな道を車で行けるのかと思うような道を一気に登りきり、ついにあの「てっぺん岩」が見えてきた。後は、少しの降りだけである。相変わらずのでこぼこ道で、頭を打ちながら、ジープは、その地に到着した。
そして、私は、ジープから降り、ゆっくりと、「それ」を見上げた。
そこには、あまりに雄大で静かに、この瀬戸内海を暖かく見下ろす「彼」の姿があった。「彼」、まさに、私はそう感じたのである。まるで巨大な生き物が、そこに鎮座しているが如く感じられました。仕事で週に二回は、西島に来るため、遠目にはよく見ているはずなのに、何かわからない感動があった。不思議と「やっぱり、てっぺん岩や。」と何が「やっぱり」なのか自分でも理解できず、ただ、呆然とこの石群を見上げた。この胸の奥からわき出てくる思いを止めることなどできるはずがなかった。
そして、そこからの眺め…なんとすばらしいものであろうか。その日は、天候に恵まれ瀬戸内海が全て見下ろせる感じだった。私は、まるで古事記の「国生み」の出来事に遭遇している気分だった。
私は、荒木氏に古代文字を見せてもらい、ショックを受けた。明らかに何か絵が描いてある。まるで、古代エジプトの「ホルスの目」、いや、そのものであった。荒木氏は、それをシュメールの「太陽神ベル」と語る。
そして周りの石を探索すると、次々と絵のようなものがあるではないか。螺旋や円形の模様三角形などの幾何学的な形をした図形の数々。自然にできたにしてはあまりに不自然である。まあこんな所にこんな石群があること事態が、不自然である。荒木氏は、菊の紋もあると言っていたが、それはそう見えるかもしれないという程度のもので、私は、その時点では、その意見には賛成はできなかった。しかし、円形のものが突出しているのは事実である。
そもそも、日本においての菊の紋自体、歴史が浅いものであるので、これが古い遺跡だとすると、菊の紋という可能性はかなり低いと考えられた。荒木氏によるとシュメールの紋章も菊の紋章だったらしいが、私にはその時それについての知識がなかったので何とも言えなかった。後にいろんな書物を調べたり、上野氏から聞いたりして、その可能性もあるのだと知った。石の表面も随分と風化しているので、古いものであるのは確かである。そうなると、私の夢に描いている古代の家島の物語は、はるかに広大なものになってしまう。
何の根拠もないが、彼はきっと太古の昔から、ずっとここにいたのだと、いう気がしてしまう。彼は、どれほど長い年月をこの場所で過ごし、こうしてこの瀬戸内海を見守ってきたのだろう。
この石をつくったのが誰かということはわからない、自然にできたものかもしれない。しかし、この石は長きにわたって、人々から崇拝されていたものと思われる。それは、そのペトログラフを見ても、石の不自然な配置をみても推測されます。何よりも、この存在感が証明している。
後日、わかったことであるが、数10年前この石は半分ほどしか地上に出ていなく、多くの貝殻が石の周りから出てきたそうである。それが、供物であったか、自然のものかはわからない。田中實氏によると、10数年前には、縄文式土器も出土しているそうである。そして西島が無人島になったのも(今は人が住んでいる)聖地としてこれを崇拝するためだったのかもしれない。


巨石群にて



1999年3月14日、私は、再び金山氏、家島神社の高島俊紀氏達とともに訪れることになりました。
新しい発見としては、男鹿島大山遺跡との関係である。大山遺跡とは、高地性遺跡で、家島群島最大の弥生時代の集落跡である。
この巨石群の真東が、大山遺跡にあたる。これは、面白い発見である。大山遺跡に住んでいた人々は、真西側のこの巨石群を崇拝していたのではないだろうか。しかし、悲しいかな大山遺跡は、もう存在していない。大山遺跡を調べていたら、関係についての証拠的なものがあったかもしれない。
99年の秋には、高島氏、荒木氏の祖母である井上清子氏、前田頼光氏達とともに訪れ、中心の巨石の西側の地面の磁気が異常であることがわかった。
一般には、南側が、中心の石に割れ目があり、十六菊花弁というのもこの方向にあり、正面のように思われているようですが、私は、この西側が正面であると考えています。なぜなら、中央の巨石の中腹には、台のようになっている場所があり、何かを置いていたように考えられ、この周辺の石は、地面に沿って平らな石が多く、そこから祈りをささげていたのではないかと推測されます。そして、磁気がおかしいと言うのも何か意味ありげです。上島にあった石神も西の方角を向いているので、この巨石を見ているのかもしれない。何かしらの関係がうかがえる。
他にこの周辺には、池があるそうです。現存しているかどうかはわかりませんが、この石群の下、約180メートルの砕石場からは、少しではあるが、常に水が流れ出ているようである。水脈の存在も、何かしら、文化の存在しえるには、必要だったと思われます。こんな島だからこそ水があるところに、人は栄えると考えられます。


オノゴロ島は家島?



私は、はじめて現地に行った際、ある考えに確信が持てた。それは、昔から言われていることではあるが、古事記の中に出てくるオノゴロ島が家島で、あの巨石が天の御柱ではないかということである。この事については、高島俊紀氏、金山敏美氏も同じ考えである。
現在、オノゴロ島は神話上の島と言われながらも、淡路島や、淡路島のの沼島説が有名です。事実、おのごろ神社や、いざなぎいざなみ神社も存在している。しかし決定的な証拠は、何もないのである。イザナギが亡くなった場所であることは、わかっています。
「おしてるや難波の崎よいでたちて我が国見ればアワシマ、オノゴロシマ、アヂマサノシマも見ゆサケツシマ見ゆ」これは、仁徳天皇が、詠まれた詩である。詩の中でオノゴロ島と一緒に淡路島が出てくるのでので、淡路島がオノゴロ島が同じということはあり得ない。そして淡路島から見える島である。古事記や、この詩にも出てくるアワシマは、上島であると考えられる。なぜなら、上島の別名は、粟島と呼ばれ、海底から出てきた泡のように見えるからそう呼ばれるようになったと考えられます。泡のようにはかなく消えそうな島で、人が生活するには難しい島であるから、「島にはなれず」と、したのではないでしょうか。
古事記の中には、いろいろ瀬戸内海の島々が出てくるのだが、地理的にも地形的にも家島は、瀬戸内海航海には欠かせない場所であったのは一目瞭然であるにもかかわらず、古事記の中に家島らしき島は出てこないのである。これは、おかしな話である。
家島の遺跡からは、多くの土器や旧石器まで出てきていることから、ずいぶん古くから人が住んでいたことが認められる。家島と言う名前も神武天皇東征の際つけられたと言われているが、それ以前の名前は、知られていない。それに気になるのは、家島の方言である。いまだに、古典に出てくるような古い言葉を使っている。古典に出てくる言葉は、都を中心とした言葉であると考えるならば、なぜこんな島の住民が今も使っているのか? 当時流行したからなのか? ならば、その後も違う言葉が流行するはずである。これは、興味深いことである。もし、ここから都に移っていった人々の言葉ならどうであろう。ちなみに家島でクワガタのことを「ゲンジ」と呼ぶが京都の一部の地域でもそう呼ばれている。離れ島なので、あまり言葉に変化がなく現在に至っているのではないでしょうか。
家島出身の作家長尾良氏は、子供の頃、家島はオノゴロ島だと教えられて育ったそうである。昔は、口伝でそう言い伝えられ続けていたのかもしれない。
天神(アマツカミ)の住んだ式内大社家島神社、西島と坊勢島の間には、潮の干満により、2つの島を結ぶ天の浮き橋といわれる瀬があり、クラゲのように漂う数々の小島。そして、あの石の所へ行けば、イザナギ、イザナミが見た世界が見えてくるだろう。頂上石を中心にして周りを眺めてみるとこれが天の御柱だと実感がわいてくることだろう。
巨石群周辺で縄文式土器が出土した事から、縄文時代には、すでに人々が巨石群に対し何らかの行動をしていた事が伺える。縄文時代あたりは、現在よりも水位が低かった時と高かった時があった事が分かっている。
一時期、家島は一つの巨大な島であったとも考えられる。水位が高い時期が、イザナギ、イザナミ達が訪れ、水位が低くなった時、オノゴロ島ができ、「国生み」にたとえられたのかもしれない。縄文人が崇拝していた石を弥生人(イザナギ達)が天の御柱として崇拝したのかもしれない。高天原や葦原の国というのも、大山遺跡かもしれないし、現在の宮、真浦、坊勢かもしれない。どれであってもおかしくない話ではないだろうか。
家島自体幾度と名を変えてあの巨石は、古くは天の御柱として、それ以前からも、それ以降も何らかの象徴として常に人々から崇拝を受けていたのではないだろうか?  たぶん古事記の時も、風土記の時もすでにそれは昔話の域で場所の特定はせず、編集者が集めつづったにすぎない。その時すでにオノゴロ島ではなく家島もしくはえじま、江ノ島、伊刀島、高島の宮と呼ばれていたのかもしれない。オノゴロ島と呼ばれていたかもしれない。その事実は、今となっては、わからない。しかし、その可能性は充分に考えられるでしょう。