| はじめまして、当ホームページを作成したShotetsujpです。 このページでは、わたしの模型をはじめとする鉄道趣味遍歴をご紹介したいと思います。 2009年1月1日記 |
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前模型時代
昭和50年に兵庫県・尼崎市に生まれました。阪神電鉄の尼崎車庫のすぐそばの産婦人科だったそうです。物心がついた時から列車が好きで、ちょうどそのころ国鉄特急のヘッドマークにイラストが描かれるようになりました。その絵を見ては列車名を覚え、平仮名もそれでいっしょに覚えてしまったようです。 幼稚園のころになると、親に内緒で一人で電車に乗って出かけるようになります。もちろん、自分で切符を買って。初乗り区間内でしたが、降りたことのない駅で降りることに対する緊張感と期待感は今でもを覚えています。また、同じころ保育社のカラーブックスの「日本の私鉄」シリーズが出るたびに買ってもらっては写真を眺めていました。 小学校1年生の冬休みに父の転勤で富山市に引っ越すことになります。東海道線の立花駅から富山駅までの切符がいわゆる硬券で、今でも実家にとってあります。このとき憧れの国鉄特急に初めて乗りました。約4時間の「雷鳥」号の旅でした。 |
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Nゲージとの出会い
結局小学校を卒業するまで、富山市内に住んでいたのですが、駅が遠く、また電車に乗る機会も少なくなりました。写真のついた鉄道の本をよく買ってもらい、特にケイブンシャや秋田書店などの「○○大百科」などといった類のものは自分のお小遣いでも買っていました。 昭和60年、小学校4年生の時に確か実業之日本社だったと思いますが、「鉄道模型大百科」という本を本屋で見つけました。鉄道模型にひかれたというよりも、中にあった阪神電車の模型の写真をみて懐かしく思い、買いました。 その年の冬休みに大阪の阪急百貨店でクリスマスプレゼントとして、NゲージのTOMIXのスタートセットを買ってもらいました。S280が4本とC280-45が8本に田舎駅。車両は阪急百貨店だけにKATOの阪急6300系4両セットでした。 翌年、小学校の隣にあった児童センターの鉄道クラブに入会し、1年がかりでHOゲージのキハ20形を紙から制作しました。試運転の日にたまたま別件で同センターに来ていた地元紙記者の取材を受け、後日写真付きで新聞に載せてもらうことができました。 またこの年のクラス替えで、わたしの鉄道趣味史上、貴重な友達に巡り会いました。鉄道好きの彼はNゲージも持っていて、TOMIXのレイアウトベースに走らせていました。畳の上でしか遊んだことのないわたしが彼の家に通うようになったのは、今レンタルレイアウトに行かれる方の心境に似ているのではないかと思います。 |
国鉄謝恩フリーきっぷ
彼との思い出は鉄道模型にとどまりません。昭和62年3月31日。「日本国有鉄道」最後の日。小学生二人で鉄道旅行に出かけました。この件に関して、親が担任の先生に旅行計画の説明をし、先生がそれを許してくださいました。そんな「連絡帳」上でのやりとりも今となっては懐かしく思います。「謝恩フリーきっぷ」の富山駅発行分は500枚しかなく、発売日には朝早く富山駅へ買いに行きました。 富山—(雷鳥)—京都—(ひかり)—名古屋—(ひだ)—高山—(のりくら)—富山というルートも自分たちで時刻表を見て決めました。 6年生になると、彼を鉄道クラブに誘って、一緒に通うことにしました。2年目はHOのキハ23形を制作しました。 小学校は富山で卒業しましたが、中学校は尼崎に戻って通うことになりました。友達と別れるのは辛かったですが、新しい学校でも鉄道仲間に恵まれました。この年は大阪駅や天王寺駅で特急やオリエント急行を見に行きました。模型では14系、20系、金帯あさかぜ、北斗星と模型屋さんに顔を覚えられるくらいブルートレインばかり買いそろえていました。 鉄道とは関係があるようなないような気もしますが、この年、阪神タイガースはバース選手を解雇し、掛布選手も引退を表明。近鉄バファローズは「10.19」でのV逸。南海ホークス、阪急ブレーブスは球団身売りと、在阪の各球団(すべて鉄道会社経営)にとってショッキングな出来事があったのもこの年でした。そして、年が明けて1月7日。昭和という大きな時代が幕を下ろしました。こうして振り返ると、1988年度というのは自分史においても激動の一年でした。富山にいた時代と後の神戸に住む時代をつなぐ尼崎での1年。 神戸での新しい中学校での生活は、野球部に入ったこともあり、明けても暮れても野球の練習。休日は練習試合。鉄道とは疎遠になった時期でもありました。 |
高校時代
高校へは神戸市内の県立高校まで電車で通学しました。部活には入らなかったので、放課後に模型屋に立ち寄ることができるようになりました。今のようにパソコンでレイアウトを作成するソフトなどありませんでしたので、レイアウトプラン集を2冊買ってきて、線路の部分を丁寧に切り、方眼紙に貼り付けてオリジナルのレイアウトを作りました。 1、2年のころは線路や制御機器を買い集めました。今、台湾で「臺北鐡道」を制作できたのも、この頃にある程度買っておいたからこそです。この頃の大きな買い物と言えば、KATOのECS-1です。 2、3年生になると、国鉄・JRの特急電車、とりわけ485系を中心に買いました。国鉄民営化後、各地に様々な塗装や改造を施した485系がたくさん走っていました。北陸本線の特急がモデル化されると、なじみ深いせいもあってよく買いました。 |
大学時代
大学では入学後すぐに鉄道研究会に入りました。模型だけでなく、いろいろなことに手を出した時代です。神戸から京都まで阪急で通っていたこともあり、阪急電車に凝っていくつかキットを作成しました。コレクションとしては相変わらず全国の特急形車両です。この頃からJR各社独自の新型車両が登場し、まさに百花繚乱といった様子でした。 1年生の夏には初めて寝台特急に乗り、九州を旅行しました。当時廃止が決定した「みずほ」でした。2年では四国、3年は碓氷峠と北海道、そして卒業旅行には東北と台湾を鉄道でまわりました。旅行の際、利用した列車の模型があれば、買うようにもしました。 大学時代で忘れられないのは何といっても阪神淡路大震災です。このときライフラインという言葉をよく耳にしましたが、前日まで日常的に使っていた鉄道が瞬時にして使えなくなったことはまさに活路を断たれた気がしました。しかし、当初復旧の見込み立たずといわれた鉄道が少しずつ開通してゆく姿に活路を見いだした人、勇気づけられた人は多かったのではないかと思います。鉄道を趣味とする一人として、これほど鉄道の存在の大きさを感じたことはそれまでありませんでした。 最後に、宮脇俊三さんの作品をかたっぱしから読むようになりました。父の本棚にあった『時刻表2万キロ』と阿川弘之さんの『南蛮阿房列車』と『南蛮阿房第2列車』は中学の時に読みましたが、自分で買って読むようになったのは大学時代からです。内田百閒先生の『阿房列車』全3巻も当時、福武文庫で安く買えました。今でも読み返しては、作品中の旅とタイムトリップを一緒に楽しんでいます。 父は鉄道ファンとかマニアとかいうような人ではないのですが、本棚には上記の作品や、西村京太郎さんの作品など、鉄道や列車が登場する本が意外にたくさんありました。直接問うたことはまだありませんが、活字嫌いの息子に少しでも本を手にしやすい環境を作ってくれたのではないかと思います。自分がそのように思うからか、最近本を買うときは鉄道ものに限らず、将来子供にも読んでもらいたいな、と思える本を子供がいない今のうちから買っています。 |
渡台
大学卒業後、会社勤めをしましたが、その間に中国語の勉強を始めました。大学の時に少しかじっておもしろかったのと、卒業旅行で台湾へ行ってもう少し勉強してみたいと思ったからです。そのうちにやはり現地で勉強したいと思うようになりました。 結局、退社し2000年5月に単身、台湾へ渡ることにしました。その時は1、2年勉強したら帰国するつもりでいましたが、現在の仕事も得て、いまだに台湾にいる次第です。 2005年には結婚。この間、鉄道趣味のほうは模型も含めて全くと言っていいほど影をひそめていたのですが、翌年の夏、台北市内にマンションを購入したことがきっかけとなり、再び模型を購入するようになりました。ひとつは自分の専有スペースができたということ。もうひとつは家内の理解が得られたということです。 2007年のお正月に実家へ帰省した時に、かつて買い集めていた線路や車両を台湾へ運びました。それまではいずれ日本に戻るという意志の象徴として模型を日本に残しておいたのですが、いざ模型で遊ぶスペースができると、げんきんなものでいつまでも寝かせておくよりも見たり走らせたりして楽しむべきだと思うようになりました。 幸い、台北市内にもいくつか模型屋さんはありますし、現在はインターネットで日本各地の模型屋さんに注文もできますので、帰国する際に実家に届けてもらうようにしています。 模型再開後はもっぱら国鉄車両、特に蒸気機関車と客車列車を好んで購入しています。制作したレイアウトが近代化以前の設定ということもありますが、JRの新型車に以前ほど関心を抱かなくなってきたことも理由に挙げられると思います。 |
以上、長々と駄文を書き連ねましたが最後までお読みいただいてありがとうございました。どうぞよろしくお願いいたします。 |