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おもいでの急行ひめかわ号 乗車記

2009(平成21)年11月21日(土) -その1-
新潟〜柏崎
9112D (おもいでの急行ひめかわ号)
新潟駅(南口)
発車案内板

2009(平成21)年11月21,22日と、新潟デスティネーションキャンペーンの一環として、JR東日本新潟支社による団体臨時列車「おもいでの急行ひめかわ」号が運転されました。
その21日の新潟から糸魚川までの上り列車の乗車ツアーに参加してきました。

この急行「ひめかわ」号は、新潟と糸魚川、青海を結んでいた気動車急行で、唯一、越後線を走る急行列車として、1963〜82(昭和38〜57)年の間運転されていました。

これまでも何度かリバイバル運転を行っていた急行「ひめかわ」号でしたが、自身、撮影にまわったり、また、電話を掛けるも既に定員に達していたりと、ようやく初めての乗車となりました。
しかしながら、この列車の運行を前に、早くも「ありがとう米坂線国鉄色」号が発表され、これまで何年かに渡って運転され続けてきたリバイバル急行列車としては、最後の運転になるのではないかと思われます。

この日は、8時過ぎに新潟駅に到着し、この年に行われた「トキめき新潟国体」に併せて整備された南口広場を少し散策しました。
このときから、青空にもかかわらず雨が降っていたりと、この先の天候に不安を感じつつ、東側自由通路を通って、万代口改札口からホームへと向かいました。

「おもいでの急行ひめかわ」号が発車する2番線ホームには、かつてのキハ52系などの国鉄型気動車から、キハE120系などの新型気動車に置き換えられた快速「べにばな」号が発車の時間を待っていました。
この快速「べにばな」号の前身、急行「べにばな」号も、この2週間前にリバイバル運転がされたばかりです。
ツアーのお弁当を頂いていると、程なくして、快速「べにばな」号が、米沢へ向けて発車していきました。
そして、8時54分頃、柏崎方の電留線から「おもいでの急行ひめかわ」号が到着しました。
キハ58系+28形新津車とは、実に一年ぶりの再会でしたが、相変わらずきれいな車体で、またこうやって乗車できることをうれしく思いました。

左上:新潟駅(南口)
右上:発車案内板
左下:おもいでの急行ひめかわ号(糸魚川方)
右下:「急行ひめかわ 新潟−糸魚川」のサボ
(以上、新潟駅にて)

おもいでの急行ひめかわ号(糸魚川方)
「急行ひめかわ 新潟−糸魚川」のサボ
新潟駅を発車
信濃川橋梁を渡る

早速、列車に乗り込み、荷物を置いてから、改めて列車を撮影しにホームへと下りました。
ホーム上は、さほど混雑することもなく、列車の姿や特製のサボを撮影することができました。

列車は、定刻に新潟駅を発車しました。
糸魚川駅までの、5時間に及ぶ旅の始まりです。
早速、オルゴール音に続いて、車掌の車内放送がありました。

列車は程なくして、信濃川を渡りました。
遠くに、王 文志氏の水と土の芸術祭作品「Water Front 在水一方」が見えました。
信濃川を渡り終えた列車は、白山駅に停車しました。
鉄道ダイヤ情報誌にも停車の掲載がなかったので、わずかな停車時間かと思い車内で発車の時を待っていると、車内放送で、交換する列車が遅れているため、しばらく停車する旨が伝えられたので、ホームに下り、少し撮影を行いました。
しばらくして、列車到着の放送が流れたので車内に戻ると、新潟行きの普通列車が到着し、「おもいでの急行ひめかわ」号も白山駅を発車しました。

関屋駅を通過して程なくすると、列車は、信濃川の関屋分水路を渡りました。
一見、当たり前のように流れている川ですが、先ほど渡った信濃川橋梁の架かる新潟市中心部の信濃川の川幅が狭いのは、1972(昭和47)年に開通したこの人工河川のおかげなんだということを感じました。

列車は、寺尾駅で列車交換のために運転停車しましたが、ここでも交換する列車が遅れているとのことで、少し停車しました。
次第に風も強くなる中、新潟行きの列車が到着し、「おもいでの急行ひめかわ」号も寺尾駅を発車しました。
発車してすぐに、ポツポツと雨滴が窓を打ち始め、あっという間に本降りになってしまいました。

左上:新潟駅を発車
右上:信濃川橋梁を渡る
(新潟〜白山間にて)
左下:新潟行き普通列車と交換
(白山駅にて)
右下:関屋分水路橋梁を渡る
(関屋〜青山間にて)

新潟行き普通列車と交換
関屋分水路橋梁を渡る
角田山が見えてくる
雲に覆われた弥彦山

列車は、内野駅に停車しました。
車内放送では「すぐの発車」とのことでしたが、やはり対向列車が遅れているとのことで、しばらくの停車となりました。

内野駅停車中に上がった雨は、再びポツポツと降り始めました。
内野西が丘駅を通過した列車は、その次の越後赤塚駅に再び運転停車しました。
越後線は単線で、しかも、午前中は本数も多いため、なかなかすんなりとは進めないようです。
越後赤塚駅を発車すると、車窓右手に角田山が見えてきます。
この急行「ひめかわ」号は、かつて、越後線を走っていた、準急「かくだ」号と統合されたことにより、越後線を走る列車となりました。
車窓左手に目を凝らしていると、黄色いポールによりかつての鎧潟が姿を現す、磯辺 行久氏の水と土の芸術祭作品「ここに鎧潟ありき」が見えました。
車窓から作品が見えるということは、かつては、車窓からも鎧潟が見えたのですね。

列車は、巻駅に停車すると、再び、日が差してきました。
この日は本当にころころと天候が変わります。
巻駅を発車すると、車窓右手には、大きく弥彦山が見えてきました。
この山にちなむ、快速「やひこ」号も、かつて、越後線を走っていました。

車窓左手から弥彦線が合流すると、列車は吉田駅に到着しました。
吉田駅では、地元の吉田中学校吹奏楽部による演奏と横断幕、そして、生徒による一日駅長と、歓迎のイベントが盛りだくさんでした。
ここでも対向列車の到着の遅れのため、発車時間が少し遅れましたが、銀河鉄道999の主題歌の演奏とともに多くの方々に見送られ、吉田駅を発車しました。
吉田駅を発車すると、程なくして、車窓右手から弥彦線が分かれていきました。

分水駅を過ぎると、車掌より、寺泊駅までの区間は、強風による速度規制のために速度を落とすとの車内放送がありました。
速度を落とした列車は、信濃川の大河津分水路に架かる信濃川分水橋梁への築堤をゆっくりと上がっていきます。
そして、分水路の上へ上がると、かつて「東洋一の大工事」といわれ、完成からすでに90年近く経つ人工河川は、日本海に向けて、川幅いっぱいに水を流していました。

車窓左手に残る、越後交通長岡線の遺構の信号機を見ながら寺泊駅を通過した列車は、再び速度を上げ、冬を待つ田園地帯を走ります。
所々で、田圃で餌をついばむ白鳥の群れが見えました。

左上:角田山が見えてくる
(越後赤塚〜巻間にて)
右上:雲に覆われた弥彦山
(巻〜吉田間にて)
左中:吉田中学校吹奏楽部の演奏に見送られて
(吉田駅にて)
右中:弥彦線が分岐する
(吉田〜南吉田間にて)
左下:大河津分水を渡る
(分水〜寺泊間にて)
右下:白鳥が餌をついばむ田園地帯をゆく
(寺泊〜出雲崎間にて)

吉田中学校吹奏楽部の演奏に見送られて
弥彦線が分岐する
大河津分水を渡る
白鳥が餌をついばむ田園地帯をゆく
おもいでの急行ひめかわ号(糸魚川方)
1番線ホームより

列車は、次に、出雲崎駅に停車しました。
出雲崎駅では、当初、24分の停車時間が予定されていましたので、吉田駅の延発や、大河津分水橋梁の速度規制があっても十分でした。
雨は降り続いていましたが、ほとんどの方がホームに下り、列車の写真を撮ったりされていました。
こうやって、多くの人が撮影する姿を見ると、この車両は、多くの人々に愛されているんだなということを実感します。
自身も、この瞬間を噛み締めながら、列車の姿を写真に納めました。

発車の時刻が近づいたので列車に戻ると、程なくして、新潟行きの普通列車が定刻で到着しました。
対向列車が発車すると、「おもいでの急行ひめかわ」号も発車しました。
相変わらず降り続く雨が、車窓を滲ませます。

しばらくすると、再び、進行方向の空が明るくなってきました。
程なくして、雨は止み、青空が出てきました。
東柏崎駅に運転停車する頃には、くっきりと影が出るほどに太陽が出ていました。

東柏崎駅を発車した列車は、2007(平成19)年7月に発生した、新潟県中越沖地震で多くの被害が出た地域を進みます。
しかしながら、当然かもしれませんが、すでにそのような面影はなく、復興を遂げていました。
そして、間もなく柏崎駅の車内放送が流れ、柏崎駅付近の景色が見えてきたとき、日石町が水を溜めた水田に変わっていたのには、かなり驚きました。

左上:おもいでの急行ひめかわ号(糸魚川方)
右上:1番線ホームより
(出雲崎駅にて)
左下:収穫を終えた水田が広がる
(出雲崎〜東柏崎間にて)
右下:水田と化した日石町
(東柏崎〜柏崎間にて)

収穫を終えた水田が広がる
水田と化した日石町


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2009(平成21)年11月21日 -その2-

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