このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

井原鉄道で訪ねる-5 猿掛城跡

猿掛(さるかけ)城跡は矢掛町と真備町の境にある猿掛山(標高230m)にあって、いかにも難攻不落の形相です。
倉敷市と真備町の境に弥高山(やたかやま、標高307m)があって、猿掛山は北西支尾根の先端に位地します。
登山道は2箇所あって、真備町・琴弾岩(ことひきいわ)の西方から登るコースと、弥高山から尾根伝いに辿るコースがあります。
今回は弥高山コースで訪ねて来ましたので、ご報告致します。
尚、何れのコースも少し荒れていますから、しっかりした登山装備でお訪ね下さい。
猿掛城跡
小田川の右岸にそびえる猿掛山(標高230m)に築かれていた中世の連郭式(れんかくしき)山城遺構である。山頂の本丸跡には六壇からなる郭(くるわ)が南北に連なり、石垣・土塁・井戸・堀切(ほりきり)・出丸(でまる)などの遺構とともに、備中有数の山城の威容をよくとどめている。
 山陽道の要衝に位置するこの城は、南北朝時代から室町時代にかけて備中で最も有力な国衆(くにしゅう)として活躍し、備中守護細川氏のもとで守護代をつとめた庄氏の居城であった。その後、天文22年(1553)頃から成羽城主三村氏の支配する所となったが、天正3年(1575)に起った備中兵乱で三村氏が滅ぶと、毛利元就の六男元清が在城した。同10年、羽柴秀吉による高松城水攻めのときには、毛利勢の総大将毛利輝元が本陣を置いたこともある。その後、元清は茶臼山城(矢掛町東三成)を築いて移り、この城には重臣宍戸隆家を置いて守らせていたが、慶長5年(1600)の関が原の役後まもなく廃城となった。
説明、地図とも、真備町教育委員会設置掲示板より
弥高山の頂上付近に弥高88ヶ所巡りがあって、50番(猿掛庵)付近から猿掛山への登山道が分岐しています。
写真は、分岐直後の地点から北側を撮影したもので、右側が真備町、左側が矢掛町です。
写真手前中央が猿掛山です。
後部は捧澤寺(ぼうたくじ)のある鷲峰山(じゅふうさん)です。
間に小田川が流れています。

注:写真の転用を禁止します。
本丸の手前(南側)尾根途中に人為的に作られた堀切です。
右側が本丸、左側が弥高山です。
写真では解り難いのですが、右手側は相当厳しい崖になっています。
敵が攻めて来ると、上から石でも落としたのでしょうか。

注:写真の転用を禁止します。
本丸から南側を見た所です。
写真の後方は土塁で、その後ろは前の写真の崖になっています。
通路に割り石が敷かれている様に見えます。しかし、敷石にしては不自然です。
私は土塀の基礎と思ったのですが、真実は不明です。
本丸から北に、段差3mから5m下りながら2の丸、3の丸、4の丸、5の丸、6の丸と続きます。

注:写真の転用を禁止します。



  

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