このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


  

「玉島歴史散歩」は今回をもって一応終わりますが、最終回にこの
幕末
に起こった「玉島騒動」を語ることで幕を引きたいと思います。

備中は外様大名の監視塔

備中は山陽街道によって結ばれている結節点にあたります。しかも
中四国・九州は有力な大藩の外様大名が集まっている地域でもあります。
江戸幕府にとって、備中はこれら西日本諸大名の動静を監視する拠点と
なっていたのです。倉敷代官所はそれを物語っております。西日本にある
幕領は備中南部地域・塩飽諸島でありますが、石高は合わせて約10万石
でありました。しかも山陽道・瀬戸内海の陸海の交通輸送路においても、
政治・経済・文化の流れにおいても江戸と無関係では無かったのです。

そのような関係から幕政の難局に遭遇した幕末、尊皇倒幕の気運が
高まる中で西国外様大名の攻撃の矛先が倉敷・玉島港に向けられる
可能性は、当然高まってきたのです。

討幕運動から鳥羽伏見の戦いへ

《倉敷代官所襲撃事件》
慶応2年(1866)4月10日、長州藩士であった立石孫一郎が同志130余人と
ともに倉敷代官所を襲撃しました。このグループはその後倉敷の有力町家から
軍資金を調達し、備中松山へ向け軍を進めます。この途中で総社の浅尾陣屋を
襲撃するのです。しかし立石一派は結局撃退され企ては失敗に終わります。

《鳥羽伏見の戦い》
しかし倒幕の火の手は衰えず、その2年後の慶応4年(1868)1月3日、幕軍と
薩長連合軍が鳥羽伏見において激突します。結果はご存じの通り、幕軍の
敗退となって将軍慶喜は江戸に戻ってしまうのですが、時の老中、備中
松山藩主の板倉勝静(かつきよ)は当時京都二条城におり、家臣の熊田恰
(注1)が付き従っていました。
注1 熊田恰(くまだあたか)
備中松山の「有修館」に学び、剣術は伊豫の宇和島で修行、「新影流」の奥義を
究めた武士で、右目を失明していたと言われています。

玉島騒動と熊田恰の切腹

《岡山藩による松山城の接収と恰の玉島帰還》
鳥羽伏見の戦いの後、倒幕側であった岡山藩は同年1月11日(このとき
元号は既に明治となっていました)朝廷より松山藩追討の命を受け、1月18日
松山城に向けて出陣し、平和裡に城と領地を接収することが出来ました。
一方京都の板倉勝静は将軍に付き従って江戸に戻りますが、熊田恰は
159名の軍勢を引き連れて、備中松山藩に戻るべく京都を出発、海路
下津井港上陸後、陸づたいに玉島に帰着します(1月13日〜17日)。
しかし、松山城への帰還は許されず、玉島で謹慎を命じられました。
玉島での宿舎は柚木廉平(藩吟味役:柚木本家)、柚木正兵衛(分家)、
林庄兵衛、三宅半兵衛、清龍寺の5カ所に分宿しました。

《玉島にはしる戦火の危機》
岡山藩は鎮撫師総務伊木若狭のもと、既に玉島北部の亀山に本陣を構え、
恰の軍勢を監視していました。その兵は約1000人、その一部は円通寺・
住吉山・七島・円乗院に兵と大砲を配備し、まさに一触即発の危機になって
いました。岡山藩は恰の一行を鳥羽伏見の敗残兵と見なし、恰の首級を
要求しました。これに対し、松山藩では恭順を貫くため、恰の自決を命じ
謝罪することを決定、松山藩庁は松山の安正寺・定林寺の住職に、その命を
記した恰宛の密書を持たせました。
使者となった住職は密書を笠の緒に縫い込み、岡山藩の囲みを潜行突破して、
無事に恰の元へ密書を届けることが出来ました(1月22日)。

《恰の自決》
恰は部下159名の助命嘆願書を作成し、東に向かって一拝し、柚木本家(現西爽亭)
において自決を遂げました。1月22日午前11時、享年44才、刀は正宗の名刀、
介錯は熊田大輔、介添は井上謙之助と記されております。
松山藩士 熊田 恰恰が自決の前にしたためた部下助命
嘆願の血書(慶応4年1月22日)

玉島騒動のその後

午後4時、恰の首級を収めた箱と遺書を水野湛、磯村雄之介、渋川要人の
3人に持たせ、亀山の岡山藩陣屋に差し出します。玉島はこれによって戦火
から免れたのです。備前藩主池田茂政(もちまさ)は恰の自決に感動し、遺族に
対して目録を添え金15両、米20俵を贈ったと言われています。松山藩庁でも
家老格に昇格し、米30俵を贈りました。
恰の部下159名に対しては1月25日、海路岡山に護送され、そのうち従僕19人
は直ちに放免されて松山に帰りました。他の者はしばらく後に放免されることになります。
身をもって玉島を戦火から救ったということで、明治3年に羽黒神社の境内に
熊田神社が建立されました。また、松山では八重籬(やえがき)神社に
祠が建てられました。
恰が血書を書き、自決した所と伝えられている
柚木本家(現西爽亭)
羽黒神社の境内にある熊田神社羽黒山の中腹にある清龍寺


みなさまに永らくご愛読いただきました「玉島歴史散歩」、今回をもちまして一旦幕とさせて
頂きたいと存じます。途中体調の不良などで予定のお話が中断しましたこと、その他
不行き届きの点が多数あったことと存じます。どうぞご容赦いただきたく存じますとともに
永らくご覧いただきましたこと、厚くお礼申し上げます。

                                  忘牛庵  大田茂弥

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