このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

明治初期には西洋の文明が一気に流れ込み、当時から商業的に栄えていた
玉島では様々な商店や企業がいち早く現れた。現在でいう規制緩和である。
ここに掲載した店舗以外にも多数の資料が残っている。残念ながら写真は
入手できなかったがこれらのイラストから当時の店の様子を偲ぶことができる。
取り扱う品物も現在では考えられないようなものを一緒に売っていたりして
結構面白い。この中には現在でも生き残っている店舗をいくつか見ることができる。



土手町で商いしていた児島屋(小間物商)である。
店先には洋傘(こうもり)やバッグが見える。左手には
石炭や油(石油であろうか)も扱っていた。
現在では過去の異物になってしまった石炭がこの頃
商品になっていた。

西通りの呉服洋物商、田中屋である。反物を陳列して
いるのが判るが、洋物(洋服の類か)と一緒に営業して
いるのは現代の感覚では珍しい

通町の坂田回春堂。名称からして薬局であろう。説明文には
「洋酒類」、右側の看板は「和漢洋薬種問屋」、中央には
「理化学及医用機械」、左には「諸家売薬取次所」、左側に
立っている旗には「製氷所」などが見え、まことに面白い。

本町にあった印刷屋。郵便局・警察署・裁判所・郡役所
町役場、更には各種銀行などが集中した玉島では早くから
需要も多かったのであろう。
常磐町の旅籠屋柾屋である。

玉島紡績所・・・明治14年(1881)乙島の沖に建設された岡山県下で最初の紡績工場。
明治22年(1889)には西日本最大の紡績工場を誇った。しかし、日露戦争後の不況によって
破産し、明治41年(1908)倉敷紡績が買収。第二次世界大戦後の昭和33年(1958)、
山陽紡績に売却された。
東通町の山本屋。陶器・塗物・荒物となっているからには荒物雑貨商であろう。
嫁入道具も扱っていたのは結納熨斗関係だろうか

港新地町の吉浦屋。旅籠の他に炭・薪・荒物を商っていた。
炭薪を積んだ舟が見える。
雰囲気からして、商人宿(ビジネスホテル)といったところか。

横町の料理商、坂本屋。現在の料亭である。
二階では三味線や太鼓を持った芸妓と客が
楽しんでいる様が描かれている。
旅行が自由になり人の行き来も盛んになって
旅館業や料理屋も数多くなり、繁盛したようである


常磐町の三味線製造所。当時の楽器屋である。
天井から下がっているのが三味線、琴は右手奥に
並んでいる。芸事の代表であったこの商売も現在では
見ることが珍しい。

中島町の諸問屋商。左側が向い店、右側が
本店である。向い店は文具のみやけ、本店は
みやけ書店と模様を変えて現存している。
本店は一部古い姿をとどめる建物もある。
土手町にあった湊問屋、豊後屋。典型的な問屋の姿を表している。
豊後屋は今の「銀水」付近から地下にトンネルを掘って、高瀬舟を
直接湊へ出られるようにした。そのトンネルも現在では見られない。

第22国立銀行玉島支店である。

仲買町の紙問屋「むろや」。
現在は㈱白神紙商店となっている

仲買町の清酒工場。現在の菊池酒造㈱の前身である。


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