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『はいからさん』……散切頭(ざんぎりあたま)をたたいてみれば文明開化の音がする……
明治4年(1871)「散髪脱刀勝ってたるべし」と布告されてから、従来の髷(まげ)に結う髪形
に代わって、急速に「散切頭(ざんぎりあたま)」が普及し、文明開化のシンボルとなった。
……といえばいかにも順風満帆で好調のようであるが、実際にはなかなかそう簡単には
いかなかったようである。

地方……とりわけ農村では、『散髪せよ、帽子をかぶれ。はだしはいけない。』といわれても、
江戸時代300年もの長い間に抑圧された農村生活習慣では、馴染めないばかりでなく、
貧困な日々の暮らしの中で、たちまち銭の必要なことは受け入れられなかった。

明治新政府は富国強兵策の一環として、とにかく、西洋風の生活様式や、風俗を取り入れ、
外見的でも近代化へと急務で、「教導職(きょうどうしょく)」というものまで設置して、教化に努めた。
特に男の髷(まげ)姿は非文明・非開化の象徴と見られ、西洋風に総髪にして散髪することが奨励された。

——散髪になるべき道理——(開化問答より)
元来天然に生えている毛を剃りこぼつというは、理に叶わぬことで、たとえば、身のうちの
目に見えぬほどの細かな筋や骨のたぐいでも、みなそれぞれの用をなして手足も動いている
ことじゃによって、毛のある所には毛がなくてはならぬ道理があるのじゃ。
それをわがままに、剃りこぼっては、かならずそれだけの用が欠けるゆえ、第一身のためにならぬ。
……と教導職はおっしゃって、道理をふりかざして説教をして廻ったほどである。
玉島常磐町に開業した床屋。散髪の様子が描かれている。
洗面台や柱時計が右手に見える。当時の看板はねじり棒
ではなく、旗であったようだ。
王政復古の名のもとに、政府は「大教院」の職を設けて、各地に教導職を配置して、
国民に天皇崇拝の思想を徹底強化することをねらった。併せて文明開化への生活様式へ、
各地の神官・僧侶を教導職に任命して、教化に努めた。
帽子に靴、手には洋傘(別名「こうもり傘」ともいった)、その上に洋服を着こめば、
当代一等の「はいからさん」であった。玉島の町にも、明治の初めころから、はいから姿が
見られるようになり、西洋品にあこがれる人たちのために、西洋品を売る店も次第に
増えていったようである。
江戸時代には問屋と仲買商との区別が厳然としていたが、自由競争化のもとでは、
両者が合体したような形の卸売商人が出現して、ポスターやちらしなども作られ宣伝
活動も盛んとなって、商業活動も一段と活発になってきた。

<備中和紙と綿で活気が戻る>
なかでも、古くから生産されていた備中和紙が玉島湊に集められるようになり、明治から
大正にかけて、県下でも有数の紙問屋が何軒も出来、岡山・倉敷になくても、玉島に行けば
揃うといわれる程に隆盛を極めた。
また一時期低迷を続けた備中綿の集散、綿の生産に必要な肥料と鰊粕、さらには染料の藍
などの輸入販売と、新旧の問屋が乱立して競争もはげしく活気を帯びた。
当時玉島で営業していた店舗・企業
<銀行が林立>
商業活動の隆盛にともなって、新しい金融業も出現した。明治初期から大正中期にかけての
約50年間に、新町を中心に仲買町・桶町に第二十二国立銀行玉島支店をはじめ、甕江銀行・
有信銀行など十指を越える銀行が栄枯盛衰を繰り返しながら、林立してきたのも大きな特色であろう。
商港として栄えてきた玉島では、維新後いち早く
銀行が置かれたという。その第1号として明治12年
に第22国立銀行玉島支店が新町に設立された。
遅れて同じ新町に個人資本によって明治13年、
甕江銀行が設立された。後に中国銀行玉島支店へ
合併された。この他にも仲買町・通町へも次々と
新しい銀行や金穀貸付所が出現し、商業活動に
一段と活気をもたらした。
<高瀬舟が直接海へ>
さらに画期的なこととしては明治の初め、「高瀬舟の舟だまり」から港へ自由に高瀬舟が通行
できるようにと、「暗渠(あんきょ)」をうがったことである。
当時、土手町および桶町西に大きな店を構え、玉島屈指の分限者といわれた湊問屋の豊後屋
林商店が自力で、今の「銀水」付近から港排水機場付近にかけての地下にトンネルをうがって、
高瀬舟の通船の便を図った。
しかし、明治末には豊後屋は没落して姿を消し、昭和40年ごろまで見られたトンネルの出口も、
今は見えなくなってしまった。トンネルがあったことさえ知らない人たちも多くなり、遠い昔の話として
風化してしまった。とにかく、明治は遠くなってしまった。
<明治前期の港かせぎ>
明治5年(1872)の職業調査による玉島の商業実態は次の通りである。
問屋9軒
魚屋110軒
古手屋40軒
つき米屋32軒
繰綿肥物仲買店30軒
(餅)菓子店30軒
旅篭屋25軒
呉服屋25軒
古着屋22軒
糸紡(つむ)ぎ屋20軒
小間物屋20軒
また明治十年(1877)ごろの玉島港での取引品目と数量については、およそ次のようであった。
移出品……木綿(きわた)類、穀物類を主体として、その他に塩・タバコ・鉄・木炭・薪・そうめん等
移入品……穀類・魚粕・羽鰊(はにしん)肥料を主体として、他に生蝋(きろう)・砂糖・
       紙・陶器・石炭・油・和鉄・洋鉄・塩干魚、野菜・木材等
主な品物の取引量は、肥料用の魚粕類が250万貫(約9400トン)、繰綿10万貫(約3トン)
と主位を占め、問屋の取引高の総額は31万円(現在の約40億円)。繰綿1貫目が1円23銭、
にしん粕1貫目が15銭、米1石が5円70銭という値段であったという。

玉島港に出入りした船の数が、50石積以上で、日本型帆船が1000隻、西洋型帆船が1000隻
であったともいう。
さらにこのころには、年末の「ブリ市」が盛大で、問屋一軒当り3〜5千本ものブリが朝鮮海峡や
土佐沖などから入荷され、西日本の各地へ売りさばかれていたと伝えている。


   


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