このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


明治から大正にかけて、玉島を含めた浅口郡の世相は著しく変化していった。大正末に編纂された浅口郡
誌などから年表としてまとめてみた。新しい文明が次々と現れ、人々の驚く様子が目に浮かぶようである。

絵で見る当時の乗り物

年代できごと
明治4年(1871)玉島郵便局開設
明治5年(1872)人力車が走る・・・
営業用としては明治24年山陽鉄道の開通に伴って、玉島駅と港町間の連絡で盛んに活躍したが昭和の初めにはバスにとって代わられ衰退した。
明治8年(1875)ランプが使用される
明治11年(1878)洋服を着る人が出現した
明治13年(1880)紡績会社が出来る・・・
玉島紡績所は明治14年操業開始
明治14年(1881)玉島電信局開設・・・
電信・柱時計を見る
明治16年(1883)八幡灯台が完成
明治18年(1885)汽船が水島灘に来た・・・
実際に蒸気船が玉島港に入港したのは明治21年
明治24年(1891)玉島駅が出来た・・・
山陽鉄道が岡山〜笠岡間に開通し営業を開始した。
明治29年(1896)自転車を購入して乗る人が現れた
明治30年(1897)玉島税務署が新町西へ新築された・・・
明治17年には徴税出張所として通町に設置されていた。
明治35年(1902)玉島幼稚園が新町にできる
明治41年(1908)玉島尋常高等小学校が阿賀崎にできる
明治43年(1910)一般家庭で電灯が使用され始めた・・・
旧国道沿いに電信柱がずらりと並んで大変珍しがられ、わざわざ見物に来る人もあった。ただし、明治16年頃には玉島紡績所で既に自家発電によって電灯がともっていた
大正元年(1912)ガス(瓦斯)の使用が始まる
大正5年(1914)水道が敷設された
大正7年(1918)大正橋架橋
このころスペイン風邪が流行し、多数の死者が続出した
大正7年(1918)飛行機が飛ぶのを見た・・・
天明5年(1785)、岡山京橋から旭川の河原へグライダーで滑空し、見事成功したのは
29歳の表具師幸吉であった。また、明治20年には赤磐郡の射矢(いるや)友三郎が
足踏み飛行機を作り飛行を試みたが残念ながら浮上せず、塀に激突・大破してしまった
大正8年(1919)自動車が出現した・・・
玉島駅と港町の間を黒塗りオープンカーの乗合自動車が走ったが採算が合わず2年ほどで廃業した。
大正8年(1919)県立玉島商業高等学校の前身である玉島農商補習学校が南町に開設
大正10年(1921)高瀬舟の舟溜が埋め立てられた
大正11年(1922)四国連絡船が活躍・・・
玉島多度津間約30Kmを2時間で連絡、1日2往復していた。運賃は2等が1円50銭、
3等が1円であった。この時期宇野高松間では約20Kmを55分で2隻の鉄道連絡船が
運航、船内設備が整い運航回数が多いので乗客の殆どがこちらの方に流れていった。
またこの頃、耕運機の使用が始まった
大正12年(1923)玉島高等女学校ができる
このころ縁日にアイスクリームが出現した
大正13年(1924)水上飛行機が高梁川に降りた
このころ玉島でラジオが聞けるようになった
山陽本線が複線化された
大正14年(1925)高梁川改修工事が完了する
玉島の人口は20,105人となる
大正15年(1926)旧かすみ橋架橋工事が着工される・・・
竣工は昭和3年である。長さ616m・幅6mのアーチ型鉄橋
当時は中国一の長大橋であった。


   


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください