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岡山県南西部、現在の浅口郡の沖合に巨大な島が存在していたらしい、と推測されています。
これは寄島風土記などの文献にそのような記述が見られ古地図なども残されています。
それではまず6〜7世紀頃の飛鳥時代から奈良時代にかけての浅口郡の様子を調べてみましょう。
(1) 犬養部と古代製塩のなごり
続日本紀に浅口郡に関する次のような記述があります。
「元正天皇霊亀2年(716)、備中国浅口郡 犬養部 の雁手、昔、飛鳥寺焼塩戸に配され、誤って
賎例に入れられる。ここに至って遂に許され免ぜらる」

6世紀末、時の権力者蘇我馬子によって、奈良盆地の南端飛鳥村に壮大な飛鳥寺が
建立されました。五重塔が聳え、屋根瓦が日の光に輝く高層建築群、当時の日本人にとっては
まだ見たこともない姿に驚きの目を見張ったことでしょう。
この飛鳥寺の需要に応えるために 製塩 にたずさわった「浅口郡犬養部の雁手」が飛鳥寺の
奴(男の奴隷)として扱われ、7世紀末に全国の人民の良民を定めた戸籍作成のとき、誤って
賎民としての身分に固定されました。そこで「犬養部の雁手」はこれを不満として政府に訴えを
起こし、8世紀初めにようやく良民としての身分が公的に認められたということです。
(2) 浅口郡の製塩業
浅口郡は古代には、大島をはじめ大小の島々で構成されていたとも考えられ、海岸地域では
製塩に携わる人々が多かったのではないかと想像されます。
焼塩とか煮塩とかまた藻塩焼くなどといわれ、そのころは乾燥させた海藻を目の粗い箕の上に
のせ、下にかん水溜(だまり)を置いて、海水をかける作業を繰り返し、濃度の高くなったかん水
を素焼きの土器に入れて煮詰めて塩を作るという方法であったといわれています。
(3) 釜人(かもうど)と塩釜
時代がずっと下って10世紀初め、平安時代中頃の「延喜式内膳式年料条」に
『備中国煮塩年魚八缶』という記録も見えて、備中国から朝廷へ塩が貢納されていたことが
うかがえ、引き続き製塩が盛んであったと考えられます。
しかし、備中国のいずれの場所かつまびらかではないが、製塩のなごりとも思われる地名が
浅口郡内でもいくつか見られます。

①釜人・・・もとは釜戸(かもうど)といい、釜をたいて塩を作る人たち(部民)が住んでいたところ
       と考えられます・・現金光町大谷
②塩釜・・・かん水を煮詰める釜または釜屋の意味で全国に見られる地名。現笠岡市西大島の
       横島周辺か唐井付近まで海が入り込んでいた頃の入り江の周辺かよくわかりませ
       んが、製塩の名残をとどめる地名があるといわれています。
          [備中誌による]
(4) 浅口と唐船
現在の山陽線と国道が通る東西帯状の平地は、平安時代には海であって、大陸の随・唐や
朝鮮半島の国々との親善使節や留学生・留学僧・渡来人などを乗せた船や交易船が
往来していました。
「浅口」の名はこの航路が浅かったのでこの名がつけられたといわれています。 阿知潟
(あちがた)・ 鴎潟 (かもめがた)などの干潟が多く、阿知潟には鶴が、鴎潟には鴎が多く
飛来していたと伝えられ、金光の「唐船」の地名は唐の船が座礁難破したところで、船穂は
後背地吉備郡二万の外海で「舟帆の港」であったと伝えられています。
現在はこの航路が高梁川や里見川などの河川から流れ出す砂で埋まり、干拓によって陸地に
なっているが、大島郷(庄)は平安時代 朝廷貴族の歌 に詠まれた景色のよい島でありました。
                [寄島町文化財保護委員会編纂(昭和61年発行)による]

【幻の大島をさぐる】
(1) 古事記に登場する「大島」とは
8世紀初めに作られた古事記の国生み神話では、イザナギ・イザナミの2神が四国・九州・本州
など大八島国を生んだ後、吉備児島・小豆島・「大島」など6島を生んだと伝えられています。
「大島」についてはいろいろな島が取り上げられている。身びいきではないが、「浅口郡大島」で
あると考えて、その輪郭を明らかにしてみたいと思います。


(2) 地形からの推測
今から5千年以上もの大昔の縄文貝塚(中津貝塚・津雲貝塚など)に目をつけて、海抜
5〜10mの等高線を5万分の1の地図でたとると「大島」と思われる輪郭が現われます。
現在のJR金光駅付近から里庄駅付近を結ぶ山陽線沿いは、幅約400m、広いところで
約1Km、長さ約10Kmの狭い海峡、または水道の状態が浮かんできます。
東は鴨方あたりまで海が深く入りこんだ湾状で、八重の小島が入り口をふさぐように横たわり、
大谷・須恵・佐方付近では大小の谷々がそれぞれ入り江となって深く入りこんでいます。
西は笠岡沖から里庄駅付近まで大きな湾状に海が入りこみ、西大島でも大きな湾入がみられ
ます。
地図の上では明らかではありませんが、本土の東部では鴨方からずっと奥へ犬飼あたりまで、
西部では広浜の谷間奥深くまで、海が入りこんでいた時期があったのではないかとも想像され
ます。晴天が続き寡雨高温の気候条件と入江の海岸という地形条件が塩作りを盛んにさせたと
考えられます。


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