このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
平清盛が宋との貿易を積極的に推し進めていた頃は、大島北の水道を利用していたのであろうと
推測できますが、その後この水道は次第に浅くなり、ついには航行不能になっていったのだろうと
思われます。それはいつ頃のことであったのでしょうか?。
その後いつしか大島は地続きとなり現在の形を形成していったのであろうと思われます。
- (1) 平清盛と宋貿易
- 太宰大弐高遠卿の西下よりも約150年も前、平安時代末の12世紀中頃、平清盛が
摂津守に任ぜられたとき、奈良時代に僧行基が開いたという大輪田泊を、私費を投じて
修復し、兵庫港を築きました。
そして平家の経済的な基盤を固めるために、清盛は積極的に中国宋との貿易に力を入れ
ました。このため宋の商船が瀬戸内海の奥深くまで入り、兵庫の港にあいついで入港する
ようになりました。
平家一門はこれによって巨万の財宝を蓄えたと伝えられています。清盛が広島県の
「音戸ノ瀬戸」を修築し、大型船の通航に便を図ったことはよく知られていますが、宋貿易の
振興策とも深い関わりが有るのではないかと考えられます。
さらに飛躍して、備中国一円を荘園として手にしていた平家のこと、大島北の水道も同じく
航路の修築を行って、大型船の通航の便を図っていたのであろうと推察できます。
そして、この大島北水道を航行していたであろう宋の商船が、ある時唐船(現玉島柏島唐船)
の沖合の暗礁に乗り上げて大破沈没するという事故もあって、「唐船」という地名の由来とも
なったと考えられるのです。
また、安徳天皇が六条院村明王院へ御幸したという伝承についても、木綿崎沖から水道に
入り、六条院東の谷間も当時は四条原あたりまで深く入り込んだ大きな入江になっており、
そこに船を停めて上陸したのではないかと想像できます。
- (2) 大島北航路の終焉
- 時代がずっと降って、室町時代中頃の文安2年
(1445)の「兵庫北関入船納帳」に、備後米を
積んだ南浦(玉島黒崎南浦)からの船が兵庫北関
へ入港したという記録が見られます。
当時、南浦は瀬戸内海航路の港として開け、
中継地、風待ち・潮待ちの港として栄えていたと
推測されます。(平凡社「岡山県の地名」)
このことから考えられるのは、室町時代初めごろ
(14世紀中頃)には、大島北水道は船の航行が
次第に困難になってきたのではないかと推測されます。
当時、水道東部の甕ノ泊沖一帯の海は、干潮に
なると一面の干潟が広がる浅海と化して、
満潮時にもわずかに残る小舟が沖で漁をする程度であったと云います。
また児島の北側、吉備の中海も浅海化が進み、藤戸海峡が通りにくくなるなど海の変化に
伴って、大型船は大島の南側海上を東へ下津井沖を通る航路へと変わっていったと考え
られます。
広島県東部の府中や神辺付近で作られた備後米を積んだ小舟は芦田川を下り、福山から
笠岡沖を通り、神島瀬戸を回って、寄島沖を南浦へ。そして南浦で大船に積みかえて、
瀬戸内海を東へ進み兵庫へ送っていたのであろうと想像できます。
【おわりに】
とにかく全ては想像でしかありませんでしたが、8世紀初頭の古事記に書かれた大島は
多分に当時島であったこと、そして古事記以前からの伝承や伝説の中で、千年以上にも
わたって瀬戸内海の重要な島として位置づけられてきたものであると考えています。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |