このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

平安時代中頃に源順によって作られたという「倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」という書物の
中に「浅口郡八郷」として東から西へ阿知郷・間人郷・船穂郷・占見郷・川村郷・小坂郷・林郷
・大島郷の8つの郷名が記されています。
大島郷は現在の大島・六条院・黒崎の範囲であろうと推定できますが、八郷全体にわたっての
位置・範囲には推定の難しい面があります。
(1) 荘園制度の崩壊
平安時代の中頃(12世紀)ともなると、大化の改新以来の公地公民の制度が崩れ、皇室や
貴族を初め有力寺社の土地私有化が進み、荘園が拡大していきました。鎌倉時代以降には
「地頭」による荘園管理支配が加わって、荘園の領有権が複雑になってきました。
大島郷もいつしか大島庄または大島保と呼ばれるようになり、荘園として院領や寺社領として
組み込まれていったことは、 第3話 で紹介したとおりです。
このほか浅口郡内で、「佐方庄(金光町佐方)」が京都新熊野社領として、平安時代末の
養和元年(1181)、後白河上皇院宣によって諸課役の停止が行われたという記録や、
「口林庄(里庄町里見)」は林郷の一部が荘園化したものといわれ、南北朝時代の正平9年・
文和3年(1354)、京都泉涌寺の寺領として保証するという記録などもあります。
室町時代後期(15世紀末〜16世紀初)になると、備中守護細川氏の所領となり、その後
戦国時代(16世紀後半)には戦国大名の領国化が進み、争奪戦が繰り返されました。
そして天下統一を果たした豊臣秀吉の太閤検地によって郷庄(保)制度が廃止されたと
云われています。
平安時代中頃の浅口郡は8つの郷に分かれていましたが、荘園制度
が崩れるに従って支配権が複雑になってきました。
(2) 佐方村木綿崎(現金光町大谷夕崎)
備中誌には木綿崎(ゆうざき)について次のように取り上げられています。

『佐方村木綿崎は名勝考にも取り上げられ、昔ここに社ありて木綿崎の社と云ひ
 ・・・(中略)・・・ゆふさきは彼の甕泊(もたいのとまり)より1里ばかり西にありて、
 古しへの海路なりし処也といふ。30年も前つかたは、ここに大木の松ありしか、
 大風に倒れて枯れぬ。今は彼の松の跡にこれとも知れぬ祠を建て、わずかに
 古しへの印を残せり。太宰大弐高遠卿、太宰府へ下りけるときの歌に
 「神のます浦々ことに漕ぎ寄せて祈るぞかくるゆふさきの松」と、詠まれしところ也』

鎌倉時代後期の延慶3年(1310)、太宰府赴任にあたって瀬戸内海を船で下る途中、
船に酔った高遠卿は甕ノ泊に停泊しました。
このとき、「ころ舟によふ人ありと聞きつるは、もたひに泊まるけにやあるらん」とも
歌を詠んでいます。ところで「喫水の浅かった古代の船は浅海が気にならないばかりでなく、
潮の干満の差の大きい海域では、干潮時には干潟に船が居座って時を待ち、
満潮になったらまた浮かんで漕ぐという方法であったのではないか。」と説く学者もいます。
そこで当時の高遠卿の航海コースを、牛窓沖から児島の北側・吉備の中海へ入り、
藤戸海峡を抜けて、甕ノ泊沖から木綿崎沖へと進み、満潮時に大島北の水道へ
流れ込む潮に乗って水道の中頃まで乗り入れ、そこで潮の流れが変わるのを待って、
干潮時の引き潮に乗って笠岡沖へと出て行き、備後鞆の浦へと向かったと考えてみました。
陸よりのコースは風波の被害も少なくより安全であったと想像できます。


第5回 大島傘踊りと備中守護細川家      第7回 大島水道の消滅


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