このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
2006年8月8日(火) 一日目 <夜行バスで新宮へ、熊野速玉大社、神倉神社、熊野本宮大社、色川地区>
<夜行バスで新宮へ>
修論を控えているにもかかわらず、2006年の夏は帰省を兼ねて旅行することにしました。まずすのさんが修論の調査で滞在している那智勝浦に寄り、続いて福岡で地元の友人達と会い、最後に去年に続いて宮崎に行ってあおかつ君の実家にお世話になるという、西日本を股にかけた旅行です。そんあ広い範囲を股にかけるため、今回は青春18切符を使わず、夜行バスや新幹線、特急のグリーン車を駆使するといった、移動に関しては贅沢な旅行になりました。そのかわり宿泊はほぼタダ。そうじゃないと財政的に破綻します。
8月7日午後8時、引っ越したばかりの家を出発。池袋まで出て、そこから夜行バスに乗って、最初の目的地である和歌山県の新宮市を目指します。池袋を9時半に出て、新宮到着が翌日朝8時という長丁場なので、出発までの時間を利用してコンビニで買い物。ビール二本とおにぎりを買ってバスに乗り込みました。
バスは3列独立シートで快適ですが、何かビールを飲む雰囲気じゃありません。僕は列の真ん中で、右隣は高校生ぐらいの純朴女子、左隣は多分帰省する大学生。純朴女子高生は何故か知らんけど、僕の方をしょっちゅう気にして、横目で見てきたりします。おれ何かした?それともおれに気があるのか?という妄想でもしようかと思ったけど、あまりに気にされるもんだから腹が立ってきました。最初はビール飲めないなぁと躊躇していたけど、あまりに見られて腹が立ったので、もうこうなったらヤケクソでビールです。エンジン音以外には何も聞こえないバスに響き渡る「プシュ」っという缶を開ける音。結構恥ずかしい。
そんな純朴女子高生の視線攻撃に耐えながら、寝たか寝てないかわからない状態でバスの時間を過ごし、予定より少し早い朝8時前に新宮に到着。東京から10時間半、長い長い道のりでした。
<熊野速玉大社と神倉神社>
新宮で降りたものはいいものの、新宮はものすごい風。実は台風が接近しているというか、まさに台風の真っ只中なのでした。折りたたみ傘は持っていたものの、差したら確実に木っ端微塵になること間違い無しです。おまけに雨も降り出すもんだから、もうどうしようもありません。バスを降りたところから新宮駅までは結構距離があって、この間にも何度吹き飛ばされそうになったことか。何でよりによってこんな日に来てしまったか。
<台風の新宮駅 自転車倒されてる> |
既に修論調査で那智勝浦に滞在しているすのさんと新宮駅で待ち合わせるべく、駅の待合室で待っている最中も、外はものすごい風で、自転車や看板がびゅんびゅん飛んで行ってました。8時3分にすのさんが到着し、待合室で弁当の朝食を食べた後、早速熊野速玉大社へ。とは言っても風が凄いので最初はためらっていたけど、じっとしても話しにならないので意を決して出かけました。雨が小降りになっていたのがせめてもの救い。
身を屈めながら新宮の街を歩くこと15分で最初の目的地、熊野速玉大社に到着。熊野速玉大社は世界遺産にも登録されている、熊野三山(熊野速玉大社、熊野本宮大社、熊野那智大社)の一つです。「熊野三山」という総称が示す通り、大社を名乗りながらも実は仏教的な要素も強いそうで、昔から神聖な場所として時の権力者が何度もお参りしたところです。
もちろん朝早い上に台風でこの天候なので、ほとんど人はおらず、神聖な雰囲気としては申し分なし。じっくりとお参りして見物することができました。まあでも実際のところ、神社なので「こんなもんか」という感じも無きにしも非ず。そんなこと言ったら罰があたるかもしれないけど。
<熊野速玉大社入り口> | <熊野速玉大社> |
速玉大社から15分くらい歩いて、速玉大社の摂社である神倉神社へ。実はこの神倉大社、熊野三山のいずれよりも歴史があり、その大元になった神社だそうです。だから別名は「熊野三山元宮」。創建は西暦128年で、ほとんど神話の時代です。もともとここに祭られていた神様をふもとの速玉大社に移したので、神倉神社は元宮、速玉大社は新宮と呼ばれるそうです。「新宮」という名前はここから来ているんだね。
さて、神倉神社へ行くには586段もある急な石段を登らなくてはいけません。この石段がびっくりするほど急で、断崖絶壁のところに無理矢理道を作ったとしか思えません。調べてみると、この急勾配石段は源頼朝が寄進したみたい。ちょうど降りてくるおばさん二人組みとすれ違ったけど、彼女達はかなり疲労困憊という感じでした。しかも今日は風が強くて雨が降っていてすべる危険があるから、杖がないと危険だよとアドバイスももらいました。確かに上りはいいとしても、下りるときはかなり用心して歩かないと本当に危ない。
かなり息を切らして登りきると、そこには拝殿と御神体の巨岩がありました。そして頂上からは新宮の街が一望できます。天気が悪かったのであまりよい眺望ではなかったけども。この神社にお参りすると、信仰の始まりは自然崇拝だということがよく分かりました。奇岩であったり険しい自然であったりを崇高な場所としてあがめるのも、何か分かるような気がします。険しくて人間がおいそれと訪れることができない場所だからこそ、神が存在するのだと。
<神倉神社入り口> | <断崖絶壁のような石段> | |
<ようやく平らになりました> | <御神体の巨岩・コトビキ岩と拝殿> | |
<拝殿からは新宮の街並みを一望できる> |
行きはよいよい帰りは恐いで、帰りの急な石段はかなりの恐怖でした。体を横にしながら下りないと本当に危険。ひやひやものです。お年寄りには絶対来れないから、皆さん若いうちに来ておいたほうがいいですよ。しかし驚くことに、この神社には御燈祭(おとうまつり)という祭りがあり、そのときには松明を手にした男達が石段を一気に駆け下りるそうです。よくそんなことができるなぁと感心します。絶対怪我するよ。
<熊野本宮大社>
無事に麓に着いてから、再び歩いて新宮駅前へ。次はバスに乗って熊野本宮大社へ行きます。新宮から熊野川に沿って山方面へ進むこと約1時間半、本宮大社前に到着。新宮と違って山奥で、落ち着いた雰囲気の場所です。結構距離があるので、値段は1250円くらいかかりました。。風はあるけどようやく雨が止んでくれてほっと一息。
お参りする前に、表参道にあった「珍重庵」という店で昼食をとりました。熊野に来たらこれは食べておかなければ行けないという「めはりずし」を注文。高菜漬けの葉でご飯を来るんだ、熊野地方の郷土料理です。目を見張るほど大きいかったり、目を見張るほどおいしいから「めはりずし」と言うらしい。今では目を見張るほど大きなものを出すところはなくなったそうですが、確かにおいしかった。ここのご飯の中身は確かジャコ飯だったかな?食べるときに高菜がサクって切れる感じが何とも言えません。
<めはりずし> | <もうで餅> |
めはりずしを食べてから本宮大社にお参り。速玉大社と違って全体的にブラックでまとめられています。感じとしては出雲大社と似てるのかな。僕はどちらかというとこちらの方が落ち着いた感じがして好みです。
<熊野本宮大社入り口> | <熊野本宮大社> | |
<本宮のシンボル、八咫烏> | <W杯は終わったけどグッズは売ってます> |
ここの神使である八咫烏はご存知の通りサッカー日本代表のシンボルで、境内ではワールドカップが終わったにもかかわらずサッカー日本代表のグッズが売られていました。僕は今まで日本の精神的根源である熊野本宮大社のシンボルが八咫烏だから、サッカー協会も大和魂を表現するものとして八咫烏をシンボルキャラクターにしたものだと思っていました。でも実際はどうやら全く違うようで、昔サッカー協会のお偉いさんにこの辺り出身の人がいて、協会のシンボルキャラクターを作る際に「じゃあ八咫烏にしとくか」という感じで決まったそうらしいです。これには驚いたね。もっと夢があって精神的なものかと思ったら、結構権力とか打算で決められているんだから。
本宮大社にお参りしてから再び表参道の珍重庵に行って、今度はおやつの「もうで餅」を。昔から熊野詣での人たちに振舞われていた御菓子でだそうで、上新粉がおいしい。
おやつを食べてから、少し歩いて大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる熊野川の中州へ。今の本宮の社殿は山の上にありますが、創建以来1889年(明治22年)の洪水が起こるまで、本宮大社は中州にあったそうです。ということは今の社殿の歴史はそんなに古くないということになります。現在の大斎原は更地になっていますが、よく見ると段差があったり、周りに生えている木が整然としていたりと、100年前までここに神社あったことがわかります。川と田んぼに囲まれた、昔を偲ばせる静かな場所でした。
<大斎原の大鳥居> | <昔の参道> | |
<100年前まで熊野本宮大社があった場所> | <裏を流れる熊野川> |
<那智勝浦町色川地区>
再びバスに乗って新宮方面へ。新宮から15分程南に進んで、終点の紀伊勝浦駅前でバスを降りました。ここは那智勝浦町の中心地で、町名は那智勝浦町なのに駅名は紀伊勝浦です。ちょっとややこしい。
<紀伊勝浦駅> | <駅前の勝浦商店街> |
今夜の宿である色川地区行きの終バスまで時間があったので(色川方面へのバスは何と一日3便しかなく、最終便は17時25分に紀伊勝浦駅を出ます)、すのさんが一回訪れたいと言っていたパン屋へ行き、パン屋の奥さんと少し話をしたりパンを買ったり。自然食系のパン屋だそうで、翌日の朝食用のパンと共にカレーパンを買って食べたけど、これが結構おいしかった。
で、17時25分の終バスに乗って色川地区に向かいます。山をどんどん奥へと進んでいくバス。色川地区は観光客が押し寄せる那智地域と山を一つ隔てているだけですが、一つしか隔てられていないとは思えないほど静かな過疎の地区です。バスから見える風景は段々畑と集落と山々の繰り返し。でもそれがまさに日本の山奥の集落という趣で、見ていて飽きません。
途中の口色川というバス停で降りて、今日の夜をご馳走してくれると言うご夫婦の家へ。すのさんが調査で知り合った方で、僕が来ることを知り、「じゃあうちで晩御飯でも食べていかないか」とのお誘いを受けたのでした。初対面なのにそこまでしていただいて、本当に申し訳ないばかりです。
その方は以前東京都職員として働いていて、定年とともに奥さんとこの色川へ移住したそうです。東京都職員でしかも清掃事業の移管に関わっていたとなると、まさに僕の今やってることとドンピシャでびっくりです。東京都の職員でも将来こういうところに住みたいと思って、実際に移住してくる人がいるんですね。
東京都職員の時代の話や移住してからの話を伺いながら、庭(というか畑)で獲れた新鮮な野菜主体の料理に舌鼓を打ちました。トマトとかきゅうりとか、ジャガイモとシソの炒め物とか本当においしいんだわ。ビールもオーガニックビールで結構値段がするもの。こういうリタイヤ生活はちょっと憧れるな・・・。本当にご馳走様でした。
<口色川集落> | <ご夫婦の家の前> | |
<晩餐> |
夜はご夫婦が車で今日の宿泊施設まで送ってくださいました。今日の宿はさらに山道を進み、バス停の終点でもある籠集落にある「籠ふるさと塾」です。ここは廃校となった小学校を再利用して農業研修者向けの宿泊施設としたもので、僕は研修者ではないけれどご好意で泊まらせてもらいました。ここまで来ると携帯の電波は入りません。なのでやることもなく、風呂に入って布団を敷いて、この日は日付が変わる前に就寝。虫の音色だけが聞こえてくる、静かな夜です。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |