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東京見聞録  
2007年9月22日() 一日目   <平泉(高舘、中尊寺、毛越寺)、盛岡(啄木の家、盛岡城址)、秋田(きりたんぽ)>


初めての北東北>

 9月22日から24日にかけての三連休で、初めての北東北(青森・秋田・岩手)へ行ってきました。使ったのはJR東日本が売り出している 三連休パス という切符で、これを使えばJR東日本+函館までの新幹線・特急・普通列車が3日間乗り放題になるというものです。値段は3日間で26000円。これを高いと感じるか安いと感じるかは人それぞれですが、青森までの単純往復でも30000円かかるので、乗り降り自由ということを考えると個人的にはお得なのではないかと思います。

 この切符を使えば函館まで行けるので、当初は一気に函館まで行ってしまおうかと考えましたが、いや待て物事には順序がある、北東北を知らずして函館まで行ってしまうのはいかがなものか、という考えが頭をよぎったため、結局北東北3県を回ることに落ち着きました。函館(北海道上陸)は北東北を十分知った上で、次回のお楽しみにすればいいじゃないかと。この辺は僕のポリシーなので人様から見ればどうでもいいことだと思いますが、僕の中では非常に大きなことなのです。戦国武将のように、じわりじわりと守備範囲を拡大していかないと気が済まないもので。。

 北東北には行ってみたい場所が山ほどありますが、3日間ですべて見て回るのは不可能です。今回は初めての北東北ということで、各県について県庁所在地+1,2箇所を目安に回ることにし、ルートやアクセスを考慮した結果、日程は以下のようになりました。

 22日(1日目):東京→平泉→盛岡→秋田(泊)
 23日(2日目):秋田→象潟→秋田→弘前→青森(泊)
 24日(3日目):青森→竜飛岬→青森→八戸→東京

 実際これだけでも強行日程になってしまいますが、そこはいつものように毎日早起きすることでカバーします。ゆっくりする旅行は歳とってからすればいい。今は時間を惜しんでいろんなところを見ておきたい。というわけで、北東北旅行記です。

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 起床は朝3時。前日までの睡眠不足に加え、この日も夜1時就寝3時起床だったので、起きた瞬間から体がぐったりでした。何かおかしいと思ったら37.0度ジャストの微熱があるし。。しかし切符も宿も予約しているので出かけないわけにはいきません。まあ行けば何とかなるだろうという楽観論を携えて、5時に家を出発。

 渋谷から山手線に乗って東京駅へ。朝食用にとんかつ弁当を買い、6時4分発のやまびこ41号盛岡行きに乗車。もう少し遅い新幹線でもよかったのだけど、3連休初日ということもあって、この新幹線以降は全ての便が3日前の時点で満席でした。連休初日は早めに予約をしておかないとだめですね。


<朝の東京駅ホーム>

<とんかつ弁当>

 新幹線が発車する前にとんかつ弁当を食べきってしまいました。朝からとんかつというのも重いですが、なかなかおいしかった。しかしこの重い弁当があとで「食べなきゃよかった・・・」とずっしり堪えてきます。

 新幹線が出発してからはしばし寝ようと思っていましたが、何故かなかなか寝られません。仙台までの車窓は慣れてしまったし、通路側の席だから景色を見ようと思っても見られません。だから持ってきた本を読むことにしました。今回は時間を無駄にしないために、読むべき本を数冊持ってきています。これで夜の時間も有効活用できると。

 本を読んで快適に過ごしていましたが、仙台が近付くころになって何となーく嫌な予感がしてきました。どうもお腹の辺りが痛いような気がしないでもありません。まあ放っておけばそのうち治まるだろうと本に目を落とし続けましたが、痛みは段々と激しくなってきました。まるで遠くから打ち寄せてくる津波のようです。なぜ急に腹が痛くなるのか?我慢できなくなった僕はトイレに駆け込み、その後下痢止めのストッパを飲んで安静に過ごすことにしました。僕は旅行に出かける際は何があっても大丈夫なようにと、例え日帰りでも常備薬一式を持って行きます。今までは幸いその薬を使うことがありませんでしたが、今日初めて薬を使います。備えあれば憂いなしで本当によかった。

 しかしストッパを飲んだからといって速攻で効くわけではなく、その後も何回かトイレに駆け込む羽目になりました。もう勘弁してくれと。こんなときに腹が痛くならなくてもいいじゃないか。目的地の一ノ関に着こうかというころ、薬の効き目かようやく腹痛が治まってきましたが、既に疲労困憊です。唇がかさかさになっていて、体から水分が飛んでいったのがよくわかります。下痢になると脱水症状になるというけど、本当にその通りだと実感しました。

<奥州藤原氏の里 平泉>

 8時36分、一ノ関駅に到着。遂に岩手県。初北東北の第一歩です。いやー、遂に来た。


<一ノ関駅>

<一ノ関は義経ゆかりの地>

 一ノ関で普通電車に乗り換えて、二駅先の平泉へ。2両編成の車両はそこそこの混雑具合で一ノ関を出発し、平泉でほぼ全ての乗客が降りていきました。僕もその多くの乗客に混じって平泉で下車。ようやく、念願叶って平泉に来ることができて感慨もひとしおです。

 平泉と言えば奥州藤原氏の本拠地として、中尊寺金色堂が有名ですが、僕が平泉に興味を持った入り口は日本史の奥州藤原氏ではなくて、古文でやった松尾芭蕉の「おくのほそ道」でした。それは僕が中学3年のときのこと。国語のクニタケ先生という恐いオバちゃんの授業で、芭蕉のおくのほそ道を扱ったことが始まりです。余談ですがクニタケ先生は1年生のときの担任でもあり、その恐ろしさに中学入学してすぐに僕は度肝を抜かれました。中学にはこんな女の先生がおるのかと。特に生徒の好き嫌いがはっきりしていて、好きなほうに入ればよかったですが、一度嫌いのレッテルと張られるとそれはもう地獄の日々が待っていることに他なりませんでした。僕は中学ではいい子で通ってたので、幸い好きの部類に入り、妹共々いろいろとお世話になりました。この辺の話は語りだしたらキリがないのでやめますが、とにかくこの先生は確実に僕らに強烈な印象を残している先生の一人です。

 クニタケ先生の授業はなかなか面白く、特に古文はその解説を聞くと目の前にその情景が広がるようでした。おくのほそ道では「月日は百代の過客にして・・・」で有名な序文と、平泉の部分が取り上げられていましたが、平泉の部分で出てきた二つの句とそれに起因する想像上の風景は僕の頭の中でその後もぐるぐると回り、「一体平泉とはどういうところなんだろうか、一回行ってみたい!」と心から思うようになりました。そしてあれから12年。ようやく平泉に来ることが出来たので感慨もひとしおというわけです。

 一応「おくのほそ道」の平泉の部分を載せておきます。

 三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

     夏草や兵どもが夢の跡

     卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良

 兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊のを安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

     五月雨の降りのこしてや光堂

 と、平泉駅に降り立って感慨に耽っていた僕でしたが、気がつくと他の乗客は皆それぞれタクシーに乗ったりレンタサイクルに乗ったりしてどこかへ行ってしまいました。さて僕はどうしようか。。最初はレンタサイクルを借りてささっと回る予定にしていましたが、ここに来て芭蕉の気持ちを体感するには歩くしかないと、平泉は歩いて回ることにしました。今考えると微熱があって腹も痛いというのに、よく歩くなんて考えたと思いますが、多分そのときは平泉について興奮していたんでしょう。そういうわけで歩いて平泉駅を出発。


<平泉駅>

<平泉の街並み>

 まずは無量光院跡へ。3代の藤原秀衡が京都の平等院鳳凰堂を模して建立したとされる御堂跡です。今は建物の陰も形もありませんが、土塁や礎石から当時の様子を偲ぶことができます。


<無量光院跡>

<昔はこんな感じだった>

 さらに中尊寺方面へ歩くと、途中に高舘義経堂。平泉に落ち延びた源義経は3代秀衡によって匿われますが、秀衡の死後、4代泰衡は源頼朝の力を恐れて義経を死に追いやります。義経が最期を遂げたのが、この高舘義経堂です。義経の死から500年後、芭蕉はこの高舘を訪れ、ここからの景色を眺め、「夏草や 兵どもが 夢の跡」の句を詠み、涙をぽろぽろとこぼしています。

 それから約320年。高舘から眺める景色は、恐らく芭蕉が眺めたものと変わらないであろう雄大なものでした。320年の間に橋や道路は出来てしまったけど、それでもこの景色は見事です。ちょっと写真のパノラマはおかしいけど。。


<高舘からの風景 北上川と束稲山>

 高舘をあとにし、さらに歩いて中尊寺へ。中尊寺の入り口から本堂・金色堂までは月見坂という坂を通って行きますが、この坂が結構急で、しかも本堂まで600mも続いているというので疲れました。でも木々に囲まれて歩くと清々しく感じますね。ひーこらと歩いていくとようやく本堂が見えたので、お参りしてきました。


<中尊寺入り口> 

 <月見坂>

<緑の道を行く>

<中尊寺本堂>

 本堂からさらに200m歩くと、有名な金色堂。金色堂と言えばこの写真ということで撮ってみました。


<金色堂(を収めた覆堂)>

 800円の拝観料を払って金色堂へ。金色堂はもちろん撮影禁止なので写真はありませんが、実際にこの目で実物を見てみると確かに今でも黄金に輝いています。これが金色堂か・・・と感慨に耽りつつ、穴が開くほどに見つめていました。この下には奥州藤原氏4代が埋葬されていると思うとなかなか不気味なものでもありますが。。この金色堂、今では覆堂によって覆われていますが、建設当初から約150年は覆いも何もなく立っていたというから驚きです。よく泥棒とかが入らなかったものだと思います。

 金色堂を見て満足した後は、その近くにある経堂と、松尾芭蕉が訪れたときの覆堂であった「旧覆堂」を見物。今の覆堂は昭和30年代のものでコンクリート製ですが、やっぱり昔の木で出来た旧覆堂の方が風情があるような気がします。次は国宝級ものが多数展示されている讃衡蔵を見物し、その黄金の使いっぷりに驚いてしまいました。この黄金の大量消費は凄いよなぁ。巻物の文字まで金と銀で一行ずつ書いたというのだから。平泉がいかに繁栄していたかを物語る物品ばかりです。


<金色堂と木>

<経堂>

<旧覆堂>

<松尾芭蕉の像>

<能舞台>

<弁慶の墓>

 その後は神社にある重要文化財の能舞台と弁慶の墓を見て中尊寺は終了。念願であった中尊寺に来ることができて、僕は非常に満足しました。もう今回の旅の目的を果たしたと言っても過言ではありません。しかしまだ旅は始まったばかり。メインディッシュを最初に持ってきてしまったような気分。

 中尊寺から再び平泉駅方面に歩いて行き、駅から700mのところにある観自在王院跡へ。ここは藤原基衡の妻が建立したと伝えられる寺院跡で、庭園の跡が残っています。無量光院跡にもよく似ている風景です。跡地がこれだけ広いのだから、往時は相当なものだったのでしょう。


<観自在王院跡>

 観自在王院跡の隣に位置するのが毛越寺。中尊寺と共に、850年に慈覚大師が開基した寺で、基衡・秀衡の二人によって伽藍が整備されていったものの、その後消失してしまったそうです。しかしその庭園は京の都の庭園を凌ぐほどの規模だったそうで、今でもその庭園は広く美しいものがあります。特に遺水と呼ばれる人工的に作った川は今でも残っていて、少し色付いた木々も含めた風景がなかなかよろしいです。


<毛越寺本殿>

<大泉が池>

<開山堂>

<講堂跡>

<遺水と色付いた木々>

 平泉は往時を偲ばせる遺構は多いものの、ほとんどの建物が消失してしまっています。芭蕉が「兵どもが夢の跡」と言ったように、そのほうが当時の繁栄を頭の中で想像するという意味ではロマンがあるかもしれません。しかし世界遺産登録を目指すとなると、遺構しか残っていない平泉は少し厳しいんじゃないかと。一番の宝である金色堂が残っていることは奇跡ですが、他にも古い建築物がないとかなり弱い気がします。

 もう少しゆっくりと庭園を探索したかったものの、電車の時間が結構ぎりぎりだったので、やや早足で平泉駅へ。駅に着くとちょうど電車が来たところで、まさにぎりぎりのタイミングでした。これを逃すと1時間くらい待たないといけないことになるので危なかった。ということで11時33分の電車に乗って一ノ関へ。一ノ関11時41分着。

<麺王国 盛岡>

 一ノ関では新幹線の時間まで少し時間があったので、駅前をぶらぶらしてみましたが、駅から近いところには目ぼしい見所もなかったので、お土産を眺めながら駅の待合室で時間を潰して過ごしました。一ノ関は宮城に近いから、宮城名物のずんだもちや笹かまなんかも売っていたりします。

 12時15分のやまびこ47号に乗り終点の盛岡へ。この新幹線は東京を9時半に出たものだから、混雑していることを覚悟していましたが、実際に乗ってみるとかなりガラガラで、優雅に二席占領できてしまいました。どうやら多くの乗客が仙台で降りてしまうみたいです。

 一ノ関から盛岡までは各駅停車の新幹線で約40分。途中宮沢賢治のふるさとである花巻を通るので、「あぁこれが宮沢賢治がイーハトーブと呼んで理想郷を見出そうとしたところか」と一人で納得しました。花巻付近になると赤い屋根の建物が多く見受けられたけど、これももしかしたら宮沢賢治に関連しているのか?まあ花巻や遠野はまた次の機会に。


<花巻辺りの車窓>

<赤い屋根が続く>

 12時53分、盛岡駅到着。天気予報通り、空は雲に覆われてきました。地面が少し濡れていたので、盛岡はさっきまで雨が降っていたみたい。しかし盛岡駅は想像していたよりも大きな駅でした。さすがに交通の要所として発展してきただけのことはあるという風格を漂わせています。


<盛岡駅>

<啄木の字で「もりおか」>

 盛岡では2時間半ほど時間をとっているので、歩いて盛岡散策へ。まずは石川啄木が新婚時代の3週間をすごしたという「啄木新婚の家」へ。入館料無料で助かります。

 館内の説明文を見て驚いたのは、啄木は結婚式の予定日に盛岡に戻ってこず、新郎がいないまま新婦一人だけで結婚式を挙行したそうです。そのとき啄木は仙台の土井晩翠のところで遊んでたとか。何という男か。この後盛岡に帰ってきて、この家で新婚生活を送るものの、狭い家で両親と妹と5人暮らしだったので、たった3週間でこの家を出ていってしまいました。確かにこの家に5人が住むには狭いような気もします。


<啄木新婚の家>

<祝言をあげた部屋>

 新婚の家前から歩いて岩手県庁方面へ。この辺りが盛岡の中心地かな?


<岩手県庁>

<県庁前>

 県庁近くには岩手公園。南部藩の盛岡城跡です。建物は何も残っていませんが、石垣を眺めつつ公園を散歩してきました。既に少し色付いている木もあります。さすが東北。本丸跡に台座がありますが、この台座に銅像が建っていないのは戦時中に供出されてしまったからだそうです。


<神岩>

<残る石垣>

<本丸跡から>

<本丸跡に立つ台座>

<展望台っぽいところから盛岡市内>

 時間も2時過ぎになったので、そろそろ昼食を。盛岡といえば、わんこそば・冷麺・じゃじゃ麺の三大麺です。わんこそばは一人で食べるのも寂しいし、冷麺は東京でも食べられるような気がしたしで、じゃじゃ麺を食べることにしました。じゃじゃ麺だったらそう東京で食べられるわけがないはず。ということで、岩手公園近くにあるじゃじゃ麺発祥の店「白龍」へ。

 ところが白龍に着くと、予想以上の行列が出来ていました。20人くらいが並んでします。もう2時過ぎだというのに。せっかく盛岡まで来たので並んででも食べて行きたいところですが、新幹線の時間まであと1時間もありません。ここから盛岡駅まで歩いて20分はかかることを考えると、並ぶのは危険です。そういうわけで後ろ髪引かれながらもじゃじゃ麺は諦めました。せっかくここまで来たのに・・・。まあでも朝から腹が痛くて食欲もあんまりなかったからいいか。今から新しい店を調べるのは面倒なので、今日の昼食はナシです。じゃじゃ麺はまたいつか。

 残った時間は盛岡市内に残る古い建物を見て回りました。盛岡にはポツポツと明治から大正にかけての洋館が残っていて、なかなか歴史を感じさせます。特に赤レンガの岩手銀行中ノ橋支店はミニ東京駅とも言うべきつくりで綺麗です。


<古い建物>

<古い建物2>

<岩手銀行中ノ橋支店>

<市内を流れる中津川>

 一通り盛岡市内を見てから盛岡駅へ。商店街を通りながら街行く女性を観察してみると、どうも全体的に一重で目の細い女性が多いような気がしました。もちろんこれは大体の傾向だし、nの数が少ないので断定はできませんが、もしかしたら盛岡という土地はそういうところなのかもなぁと。実際に盛岡駅にあるJAの情報板を見てみると、子供達からしてみんな目が細いです(写真左下)。これはあながち見当違いの考えではないかも。


<JAの宣伝>

<どんど晴れは盛岡が舞台です>

 新幹線の時間までちょっと時間があったので、駅のお土産売り場でいろいろと物色。今のNHKの連続テレビ小説「どんど晴れ」の舞台が盛岡だということで、いろいろとキャンペーンが行われていましたが、僕はどんど晴れを見たことがないのでよく分かりません。ごめんなさい。

 せっかくなので盛岡(岩手)っぽい食べ物を買おうと思い、南部せんべいのホタテ味と龍泉洞の水で入れたコーヒーを買ってみました。龍泉洞は日本三大鍾乳洞の一つとして挙げられる場所で、水もおいしいそうです。新幹線を待ちながらコーヒーを飲んでみましたが、ちょっと甘すぎる。。僕は甘いコーヒーが苦手です。缶コーヒーは無糖のものしか買わないので、売ってるコーヒーは全て無糖だと思い込んでたのが大間違い。でも水がおいしいのか、コーヒー自体はコクがあっておいしかったです。


<東京行きと秋田行きこまちが並ぶ>

<ホタテ南部せんべいと龍泉洞コーヒー>

<秋田こまち>

 3時24分発のこまちに乗り込み、一路秋田へ。秋田新幹線は盛岡から先、在来線区間を通るので、一気にスピードが落ちます。しかも単線なので、電車待ち合わせとか言ってしょっちゅう停まります。新幹線とは思えないこのスピード感。井の頭線の急行みたいだ。これで新幹線という呼び名を与えるのは詐欺のような気がしないでもないです。

 秋田までの車窓は日本有数の米処だけあって、色付いた田んぼが一面に広がっています。ただこの日は天気があまりよくなかったので、何となく寂しい感じもしました。晴れていたらもっといい景色なんだろうけれども。

 5時ちょうど、秋田に到着。平泉30度、盛岡27度とそこそこ暑かったので、秋田に降りた瞬間の涼しさにびっくりしました。どうも20度を切っているみたいです。1時間半しか離れてないのにこれほど違うのに驚きました。

 昼を食べてなかったので、ちょっと早めに夕食。秋田と言えばきりたんぽか稲庭うどんで、今日は暑かったので冷たい稲庭うどんでも食べようと思っていました。しかし秋田は寒い。このくらい寒かったらお腹のことも考えてきりたんぽを食べた方がいいんじゃないかと、予定を変更してきりたんぽ鍋をたべることに。秋田駅ビルの中にある郷土料理の「杉のや」へ行き、きりたんぽ鍋を食べてきました。1500円です。


<秋田駅>

<きりたんぽ鍋>

 1500円でこの量だとちょっと少ないかなぁと思いましたが、食べてみると意外にきりたんぽの量が多くて量的には満足しました。考えてみればきりたんぽって米だから、そりゃ腹に溜まるはず。味は北国っぽくしょっぱくて濃いのかと思っていましたが、意外にもさっぱり味で、関西風の薄い味付けに慣れている僕にとっては食べやすかったです。体も温まったしおいしかった。ただ鍋物は一人じゃなくて数人で食べたいですね。

 6時過ぎに駅前のホテルにチェックインし、シャワーを浴びて秋田の地酒「新政」と、盛岡で買ったホタテ南部せんべいで寝る前の一杯。新政は生酒だけあっておいしいです。南部せんべいもホタテの味がきいていてなかなかです。


<ホタテ南部せんべい>

<地酒新政>

 連日の寝不足から、8時ごろ寝ようと早めにベッドに潜り込みましたが、9時半に目が覚めてしまいました。それからは寝よう寝ようと頑張っても寝られず、仕方なく持ってきた本を読んで時間を潰していると、いつの間にか朝の4時。何で眠れないのだ・・・。ということで二日目に続きます。


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