このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
鉄道が育んで来た文化が終わる時
※写真は2005年9月13日および11月12日撮影
私鉄王国関西という評価が色褪せた昨今ですが、関西の私鉄が長年の歴史を通じて積み重ねてきたものは、単に輸送や商業と言うものにとどまらず、沿線の「カラー」「土地柄」を築いてくるなど、文化、風俗の分野にも広がっています。
また、当初は鉄道会社の営業や施設という、業務でしかなかったものも、年月を経るうちにそれが文化として看做されるようになっています。
そういう鉄道の「文化」に関して、今年2005年は象徴的な出来事が関西で相次ぎました。
阪急百貨店 |
大阪梅田の阪急百貨店が、周辺の競合店の相次ぐ増床、新規開店に対抗して、建て替えられることになりました。
現在の建物が、1929年の開店当初のものとあって老朽化や耐震性の面で問題があり、かつ周辺の大型店との競合で不利ということで、2011年のオープンを目指して建て替えに入りました。
当時の阪急梅田駅は今と違い、JR線(当時の省線)を越えた今の阪急百貨店の位置にあり、まさにターミナルデパートでした。
1971年に阪急梅田駅が現在の位置に移転した後も、百貨店から駅への通路として機能していますが、単なる旧駅跡、通路に過ぎない空間を有名にしたのは、その意匠です。
京都の平安神宮などを手がけた伊東忠太氏の設計によるドームは昭和初期のモダニズムをよく伝えており、東西の壁面に獅子、鳳凰、ペガサス、龍のモザイク画、また、壁画中央部には月に白ウサギ、赤い日輪に八咫烏といった意匠もみられます。続く空間は教会調のアーチとステンドグラス。梅田駅移転に伴い整備された空間ですが、30年以上の時を経ると、隣のドームにも負けず劣らぬ存在感を醸しだしています。
ドームとモザイク画 | モザイク画拡大 |
しかし、これらの空間が、今回の建て替えで消えることになりました。
そのハイライトは9月13日。この日限りで仮設の覆いが取り付けられ、解体作業に入りましたが、なくなる前に一目見ようと多くの人がこの狭い空間につめかけました。
昭和初期のモダニズムやアールデコの全盛期、このような「駅」は規模の大小こそあれ、全国に見られました。そういう意味では、当時の阪急梅田駅は、「最新式のデパート一体型の駅」に過ぎず、今日でいえばJR京都駅のようなものでしょうか、素晴らしいが文化的価値というものを省みられることはなかったはずです。
しかし、時が流れて四分の三世紀が過ぎると、戦前の黄金期を偲ばせる文化財となるのであり、大手私鉄がその拠点駅に建設したという位置と規模が、またその価値を高めたのです。
ドームに来て写真を撮る人々 | アーチとステンドグラス |
コンコースが出来たのも、建て替えられる百貨店が出来たのも、文化事業ではなくあくまで本業が目的です。
今回の建て替えも本業のためであれば、それは止むなしとせざるを得ませんし、壁画などの一部が保存されるだけでも良しとしないといけないのでしょうが、惜しまれると言う事実もまた、本業の評価の一つなのです。
ひらかた大菊人形「義経」から「静の舞」 |
さて、秋も深まるなか、伝統の芸といえるのが菊人形です。
かつては各地の催事に欠かせないイベントでしたが、嗜好の変化もあり、最近ではあまり見られないと言うのも事実です。
そうした中、関西で菊人形と言うと、京阪電車のひらかたパークでの「ひらかた大菊人形」が有名です。
「ひらパー」というお茶目な宣伝と、渋みの極地のような菊人形のギャップに戸惑いすら感じますが、この歴史は古く、1910年、京阪電車の五条と天満橋の間での開業と同時に始まり、太平洋戦争中の中止をはさんで今年で96年目、94回を数える、まさに京阪電車の歴史とともに歩んでいる企画です。
当初は今の枚方市と寝屋川市の境の寝屋川市側にあった香里遊園地で始まり、1912年に枚方に移り、大正後期の数年間に一時宇治で開催されましたが、1923年から、戦後の一時期千里山に移ったほかは枚方開催が続いています現在に至っています。
実は菊人形自体の歴史はさほど古くなく、19世紀中葉、江戸時代後期に始まり、明治時代に本格的に興行化されて人気を博した娯楽ですが、「ひらかた大菊人形」はそういう意味では菊人形の歴史の過半でもあり、歴史そのものともいえます。
「ひらかた大菊人形」展示館入口 | ひらかた大菊人形「義経」から「五条大橋」 |
しかし、100周年、100回目が視野に入った今年を最後に、「ひらかた大菊人形」は96年の歴史に幕を閉じることになりました。
全盛期と比べると入場者数が減少し、赤字であったことも確かですが、最大の原因は菊人形を作る菊師が高齢化が進んだ上に後継者難で、話によると3人いる菊師の1人が引退することになり、現在の規模(それでも最盛期に比べるとかなり縮小している)での興行として成立できる菊人形の製作が不可能になったことです。
菊人形は菊の生花で作りますから、ある程度の期間を要する興行となると、必要な菊(人形菊という専用の種類)の確保、期間中のメンテナンス(「着せ替え」)も必要であり、菊師の負担は大きいのです。
枚方市も、市の花を菊、ひらかたパークの隣接地の住所が菊丘町というように、菊人形を意識しており、菊人形の保護に乗り出したのですが、遅かったと言うところです。
京阪電車も赤字とはいえ、創業以来の象徴的なイベントを100周年と言う節目を前にやめざるを得ないと言うのは痛恨でしょうが、菊人形の技術伝承まで京阪電車が携わるべきかというと、企業が文化のパトロンになるケースは多いとはいえ、公共公益事業として菊人形はその対象になりうるかというと微妙でもあり、そうしたはざまの中でタイムオーバーを迎えてしまったのでしょうか。
会場に掲示されていた菊師の技の紹介 | 菊人形観覧待ちの長い行列と人波 |
全盛期に比べると減ったとはいえ、今年は見納めとあって人気が高く、土日は観覧待ちの行列が長く伸びています。実はこの土曜日に行ったのですが、自家用車で行きましたが、駐車場の入り具合、待ち具合から勘案すると、京阪電車での来訪者も相当なものと推測されます。
沿線の人口はそれなりに多いですが、大阪、京都から必ずしも近くはないこの遊園地にそれだけの人を集めるには、凡百の遊園地では無理なのです。南海のみさき公園は子供向けキャラクターショーに特化しましたし、特色を打ち出せなかった近鉄のあやめ池遊園や阪神の甲子園パーク、阪急の宝塚ファミリーランドは閉鎖に追い込まれました。
菊人形のついでなんでしょうか、園内の遊具にはどう見ても無理がある中高年がチャレンジしているケースが散見されましたが、菊人形という目玉が独自の集客力に寄与していたことは否定できません。
電鉄文化の象徴ともいえる直営の遊園地、それのシンボルでもあった菊人形という伝統文化。そのコラボレーションが96年目にして終焉することは、単なる時代の節目を超えた何かを感じます。
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