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車両を次代に保存する難しさ
続々消えゆく「新性能車」とコストの壁


2011年3月まで走っていた103系トップナンバー車
(天王寺・2007年12月撮影)



東京お台場にある船の科学館が老朽化を理由に休館しました。建て替えの目途が立っていないので事実上の閉館とも言われていますが、その付属施設である元青函連絡船の羊蹄丸は再開時の展示から漏れたようで引き取り手を捜しています。

引き取り手に複数名乗りが上がっているようですが、従来のように展示される可能性は未定です。
歴史的、文化的意義のある「遺産」も保存の危機を迎える中、振り返ってみると鉄道のこれまでの歴史を築いてきた車両の保存はどうなのか。古典的車両はともかくとして、戦後の鉄道が発展して来た時期の車両の形式消滅が相次いでいるなかで、次代にきちんと残しているのかを考えて見ましょう。


※特記なき写真は2011年1月、7月、10月撮影


●船の科学館の休館
船の科学館が2011年9月30日をもって休館しました。
お台場が今のように繁栄するはるか以前から現在の地に存在していましたが、その客船を模した建物も1974年の開館以来37年が経過して、老朽化が著しいようです。
今回の休館は建て替えが理由ですが、建て替えスケジュールは未定であり、そうなると再開館の目途も当然立たないことから事実上の閉館という感じです。

船の科学館のパトロンは日本財団ですが、その前身は日本船舶振興会です。日本船舶振興会と言えば日本のドンとも呼ばれた故笹川良一氏であり、氏は毀誉褒貶激しい人物でしたが、「一日一善」など道徳をテーマにした社会奉仕活動の実績は大きく評価されるべきものであり、こうした社会への還元を怠らない「大立者」の消滅も近年の日本を小さくしている原因でしょうか。

今回の休館で衝撃的なのは、建て替えは仕方が無いとして、建て替えの目途が立たないと言うこと。
日本財団をしても、その活動の根源ともいえる海洋啓発活動のフラッグシップたる拠点を事実上閉鎖せざるを得ないと言うことは、こうした文化活動における「財源」の問題の根深さ、深刻さを浮き彫りにしたといえます。

このあたりはかつて日本船舶振興会が、競艇の収益からの交付金での活動とは別に、笹川氏の個人財産で拠出した活動を行なっていた時代であればこのような事態にはならなかったのでしょうが、公益財団法人として活動内容が問われる時代になり、「金食い虫」とも言える事業が切り捨てられたともいえます。

●羊蹄丸の帰趨
この船の科学館の付属施設には、大きいものとして初代南極観測船(巡視船)「宗谷」と元青函連絡船「羊蹄丸」があります。
このほか一時期二式大艇や北朝鮮の「不審船」が展示されていたあたりは故笹川良一氏の流れを汲む思想が色濃く反映されているともいえますが、こうした大型展示物を維持してきた功績はやはり評価すべきですし、二式大艇の展示終了(鹿屋の自衛隊へ譲渡)も、今回の前奏曲だったのかもしれません。

船の科学館の「宗谷」(2010年11月撮影)

しかし今回の閉館に伴い、「羊蹄丸」は維持費の捻出が難しいとのことで、保有を断念し、無償譲渡先を探すことになりました。折り合いがつかなければ解体ということで、まさに存亡の危機でしたが、幸い複数の名乗りが上がっており、解体は免れそうです。

同じく羊蹄丸(2010年11月撮影)

なお「羊蹄丸」ですが、1992年のジェノバ国際博覧会の日本館としてパビリオンシップとなった際に、内装を大きく改装しており、それもあって船の科学館で「羊蹄丸」に乗船すると、外装はともかく内装に往時の面影が全く無く、「なんじゃこりゃ」と落胆するものでした。

なお青函連絡船については1988年の終航後、青森港に「八甲田丸」、函館港に「摩周丸」がメモリアルシップとして係留されており、それぞれ大なり小なりの改造は受けているものの、「羊蹄丸」ほどの変化は遂げておらず、3隻とも同じ「津軽丸」型でもあり、万が一解体されても「形式消滅」にはなりません。(ただし貨物船、貨客船タイプの渡島丸型は保存されなかったというバランスの悪さがある)

貨物船空知丸(青森・1988年2月撮影)


●機械遺産
青函連絡船「津軽丸」型が7隻中3隻も保存されていると言うバランスの悪さは否めません。1988年の終航時で考えると5隻中3隻ですから過半が残った計算です。
とはいえ我が国の鉄道史において「鉄道連絡船」は、島国の鉄道網に無くてはならないアイテムであり、1988年の青函トンネル、瀬戸大橋開通で「一本列島」となったことで姿を消すまでの鉄道を支えた存在として、保存する意義は高いです。

「八甲田丸」と「摩周丸」は同時に保存されている港湾施設とともに、機械を含む象徴的な建造物、構造物として機械遺産に認定されていますが、鉄道施設や車両等で機械遺産に認定されているものを見ると、0系新幹線、230型蒸気機関車(初の量産国産機関車)、旧佐賀線の筑後川開閉橋、自動改札機、多機能券売機、ED15型電気機関車となっており、どれも古典的なものがセレクトされています。

そういう意味では青函連絡船については一時代を画した歴史的風景としての選定であり、やや毛色が違うものと言えます。

青森港に入港する羊蹄丸(1988年2月撮影)


●手厚い蒸気機関車の保存
振り返って現在の鉄道車両や施設の保存を見ると、その選定には相当な偏りが見て取れます。
確かに機械遺産のように「日本初」というような古典的なものは一通り保存されています。しかし、鉄道が発展するに従い、進化してきた車両や施設についてはどうでしょうか。

鉄道博物館で保存されている1号機関車

1975年に普通に営業運転する蒸気機関車が最期の時を迎えたのですが、それをピークに盛り上がった「SLブーム」、そして蒸気機関車というモードが完全消滅するということもあり、蒸気機関車の保存は相当手厚く行なわれました。

小樽市総合博物館で保存されている「しづか」

旧国鉄が梅小路蒸気機関車館で動態保存を行い、一部車両は車籍を残して本線走行が可能な状態にしたのを筆頭に、大井川鉄道での保存運転、さらにはJR東日本や九州で見られるように、状態のよい民間の保存車両の本線復帰など、鉄道会社による保存に加え、自治体その他の展示も含めると、相当特殊な形式を除き、大半の形式が保存されています。

大井川鉄道での保存運転(千頭・1987年2月撮影)

このあたりは「SLブーム」の影響、さらには保存に携わる、また意思決定を行なう人たちにとっては蒸気機関車にノスタルジーを感じる度合いが強いと言う要因も否定できません。
そういう意味では、保存する価値が客観基準と言うよりも主観面で決まったのではとも思います。

SLあそBOYを牽引する8620(熊本・1991年8月撮影)
※お恥ずかしいことにアップから半年もの間9600としていました


●忘れられた「動力近代化」の担い手たち
蒸気機関車が消え行く中、主だった形式が総じて保存されてきた半面、蒸気機関車を追いやった「動力近代化」の担い手たちは、時代の象徴でありながら蒸気機関車のように手厚い保存対象となっていません。

これら電気機関、ディーゼル機関による車両や客車、貨車は、蒸気機関車を追いやった敵役ですが、「動力近代化」の旗手として一時代を築いた存在のはずです。
ところが電気、ディーゼルについては、黎明期の古典的車両はさすがに残っていますが、鉄道の「近代化」を支えてきた形式がきちんと保存されているかと言うと、非常にお寒い状況です。

蒸気機関車が「消えた」のが1975年ですが、ほぼ同時期に電気の世界では「新性能化」が進行し、1980年ごろにほぼ完了しました。ディーゼルの世界は「国鉄標準型」がまだ続きましたが、これも1990年代以降、加速的に世代交代が進んでいます。
電気の世界はさらにディーゼルの世代交代の時期には「新性能車」の世代交代が進んだ形になったわけで、「新性能車」の第一世代すら保存対象となってもおかしく無い状況です。

ところが足下の保存状況を見てみましょう。
まずいわゆる旧型電車、旧型電機はどうなっているのか。
旧国鉄だけに限定する格好になりますが、旧型電機はまあそれなりに保存されています。一方旧型電車と言うと車両史的には、通勤型電車として30系、40系(60系)、63系(72系)が、近郊型として51系、70系が、長距離対応用として32系、42系(52系)、80系が基本系列ですが、展示保存を含めて30系(および31系)で3両、40系で2両、42系で1両、52系で2両、63系(および72系)が2両、80系が2両というのは取り返しがつかない事態と言えます。

鉄道博物館のモハ40

初の長距離(と言っても横須賀線用)電車として登場した32系は1両も無く、3扉セミクロスと言う近郊型の始祖とその後継となる51系と70系に到っては1両もありません。
101系以降のデザインに影響を与えた72系の全金属車もないし、80系も「湘南スタイル」となった前面2枚窓バージョンは1両もありません。(70系もないので、「湘南スタイル」の現物は1両も無い)

「湘南スタイル」は1両もない(岡山・1978年8月撮影)

蒸気機関車の保存体制を考えると、80系なら保存されている正面3枚窓に加え、正面2枚窓に全金属車、1等車が揃っていてもおかしくないのですが、動態保存どころか展示保存すらない状況です。

70系も現存せず(1975年頃・友人から拝領した写真)


●さらに深刻な「新性能車」へのフォロー
2011年8月末日をもって房総ローカルで運用されていた113系が引退しましたが、1970年代を中心に旧型電車を置き換えてきたこうした新性能車の保存状況もお寒い限りです。

「東海型」を確立した153系(津田沼・1979年4月撮影)

物持ちの良い?JR西日本が相当数を抱えているおかげで目立ちませんが、101系が1両(その他に秩父鉄道譲渡車)、165系が2両(その他にしなの鉄道譲渡車)となっているのも極小ですが、153系に到っては全車廃車です。また初の交直流電車であり、初の新性能近郊型である401系・421系(403系・423系)もありません。

「赤電」と呼ばれた403系(上野・1982年8月撮影)

103系、113系、475系など第1世代の新性能車をJR西日本やJR九州がそれなりに現役として保有しているとはいえ、時代の変遷にあわせた改造を施しているケースも多く、オリジナルでの保存に適するかどうかは疑問なケースも多く、気付いたら1両もなくなっていたということもありえます。トップの写真は2011年3月まで「現役」だった103系のトップナンバー車ですが、幸い吹田工場内で保管されているとはいえ、数年の保管後に解体された例もあることから予断は許しません。

51型による客車列車(小樽・1992年11月撮影)

ディーゼルカーにしても、かつて全国津々浦々を走っていた「ニッパゴッパ」(キハ28+58)や、キハ20系、40系などもどうでしょうか。
客車も旧型客車や寝台車はそれなりに残っていますが、12系、14系座席車、50系といった新系列車あたりが怪しいですし、貨車もかつての車扱い時代の有蓋車、無蓋車、車掌車といった「普通の貨車」が残っているかどうか。

このままでは、黎明期の古典車両と蒸気機関車が手厚く残る半面、昭和時代の車両が軒並み「写真だけ」という事態になりかねません。

小樽市総合博物館の貨車群
後述の通り保存状況は悪い


●保存の難しさ
とはいえ今走っている車両を将来に残す、という判断が難しいことも事実です。
何が価値があるのか、残すべきなのか、という判断をどうするのか。技術的意義もあれば、営業面での意義もあります。そして「記憶に残る車両」として人気もまたバロメーターになります。

しかし半面、同時代の人間がその評価をすると、どうしても「いつもの車両」「見飽きた車両」と言うことでその価値を低く見積もりがちです。特に「価値のある」車両を淘汰した敵役ともなればなおさらで、気がついたら保存のタイミングを逸して全車消滅の憂き目を見るのです。

同時代の目だと価値に気付きにくいということは確かにあるわけで、これは余談になりますが、今年上半期に姫路の兵庫県立博物館で開催されていた「ひょうごの鉄道」展では、2006年まで阪神、山陽の直通特急に掲出されていた「大阪ライナー」「姫路ライナー」の副標が私鉄各社の足跡を辿るコーナーに展示されていました。

「ひょうごの鉄道」展(姫路市)

当たり前のように掲出されていた副標も歴史を語る上で外せないものと言うことに気がついたわけですが、こうした副標は実は使い回すケースも多いわけで、後になって価値に気がついた時にはリサイクル済みだった、という可能性もあるのです。

2008年まで使われていた副標が「展示品」に
(甲子園・2006年10月撮影)

余談はさておき、そういう意味では、ブームへの対応と言う面もありましたが、梅小路蒸気機関車館がまとまったロットで確保していることや、国鉄時代からJR東日本にかけて、これは電気機関車館を作る目論見があったことの企画流れですが、高崎運転区で手当たり次第に形式消滅になる車両を確保してきたことは、ダボハゼ的な行為に見えて実は重要なことであり、それらを引き継いだ碓氷峠鉄道文化むらは旧型から新性能化初期の電気機関車の保存という意味では間一髪で間に合った格好です。

EF59に改造された車両を「元に戻した」EF53
(碓氷峠鉄道文化むら)

後から見るとこういう事態になっているわけで、保存の可否を判断しようにも、無ければ判断のしようがありません。ある程度時間が経ってからセレクトすると言う行程が取れればベストでしょう。

●持続的な保存活動への壁
しかし、何でもかんでも集めておくと言うことは簡単ではありません。
場所も要りますし、維持コストもかかります。よしんばセレクトして保存したとしても、定期的に手入れをしないと劣化しますし、それが限界を超えると朽ち果てるだけです。

冒頭に述べた船の科学館における「羊蹄丸」を巡る問題も、最後は経済面での障壁が保存を断念させたわけですが、鉄道車両においてもそのコストをどうやって捻出するかが問題になります。

現状、こうした保存活動をしているのはJR東日本による鉄道博物館、JR東海によるリニア・鉄道館、JR西日本による交通科学博物館が代表的なものですが、3拠点とも日本の鉄道事業者の代表ともいえるJRグループの本州3社がパトロンについている(JR東日本は青梅鉄道公園、JR西日本は梅小路蒸気機関車館も運営)というのは偶然ではないのです。

大宮市にある鉄道博物館はJR東日本による運営

しかしこれらの施設は古典車両から鉄道史をカバーしてきているため、足下の車両の保存と言う意味では今後どれだけカバーできるのか、スペースやコストの問題が出てくるはずです。

小樽市総合博物館で展示中のマニ30

一方でこうしたパトロンがしっかりしている施設以外でも貴重な車両を保存しているケースはあるわけですが、やはり苦戦は否めないわけです。
末期には存在すら秘匿された現金輸送客車・マニ30を展示している小樽市総合博物館はそのほかにもキハ03レールバスなど貴重な車両を保存していますが、その前身の小樽交通記念館が運営難で閉館したのを市が引き継いだように経営は厳しいのが現実で、展示車両も野外展示と言うこともあって状態は非常に悪く、車両によっては崩壊寸前に見えるものもあります。

総じて屋外展示車両の保存状態は悪い
(小樽市総合博物館)

メジャーな施設ですらそうですから、地方の小規模な施設はいうに及ばずで、ボランティアや寄付を募って何とか維持しているのが現状ですが、公的支援を行なうにしても、自治体の財政が厳しいおり、こうした文化事業に回す予算があったら、という批判もまた根強いですし、基本的な行政サービスすら削っている中でそうした余裕が無いのも事実です。

保存会が保存する三菱大夕張鉄道(南大夕張駅跡)

こうした保存事業の中にトラストトレインがあり、ここだけにしか無い旧特急型客車であるスハ44系(スハフ43)の保存は非常に貴重ですが、これも大井川鉄道の協力体制が大きく、かつ市民の資金拠出だけでは維持管理と年数回の運転がやっとと言う現実があるわけで、保存開始から24年経ちますが、第2弾が出てこないことがその難しさを示しています。

トラストトレインのC12+スハフ43
(千頭・1987年2月撮影)


●背に腹は代えられない
本来はこうした保存事業は何時までも良い状態で、静かに保存して、鉄道史の資料として存続させるべき性格のものでしょう。しかし、そういった学術目的を前面に押し出すだけでは無理なことも理解すべきです。
いかに価値があろうとも、保存費用を賄える(特に公開費用を賄える)だけの収益を、それらに価値を見出す人たちが負担してくれるわけは無いからです。

JR本州3社ですらあのレベルがやっとなわけで、いわんや大手私鉄は東急や東武、メトロが公開しているくらいで、あとは車庫の片隅に保存するのがやっとなのです。
そうした状況で、保存事業を軌道に乗せるにはどうしたらいいのでしょうか。

碓氷峠鉄道文化むら

結局は集客力を磨くしかないのです。
アカデミックに走ってもターゲットは限定されるだけです。極端な話、展示物に興味が無くても来てくれるような施設に出来ないとおそらく持続は不可能でしょうし、またはそうした集客力のある施設の付属施設にすることでコバンザメのように生き延びるしかありません。もしくは万人受けする「人気車両」を揃えて集客の間口を広げるという手もあるでしょう。

旧信越線を活用した遊覧列車の運転(丸山変電所跡)

大宮の鉄道博物館ですらそうした施設の充実を図っていますし、大都市圏から若干離れている碓氷峠鉄道文化むらは遊覧列車など家族連れが喜びそうな施設を充実させています。
反面小樽の総合博物館はいかにも硬く、集客力には疑問符がつきますが、これは市立博物館の本館扱いとすることで市の支援を図っているのでしょうし、本年長年の眠りから覚めて公開された姫路市モノレールにしても、姫路市の手柄山交流ステーションとして、水族館の付属施設の位置付けにしていることで運営経費の共通化を図っています。

こうしたテーマパーク化への批判も大きいのですが、そうでもしないと維持できないと言う現実をまず認識すべきでしょう。維持できなければこうした「遺産」は解体の憂き目に遭い、永遠に姿を消すのです。






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