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乗務員の行動と対応をどう評価するか
2005年晩秋の3つのケースから


乗務員室立入り禁止(東武野田線)



2昨年11月から12月にかけて、首都圏の鉄道を舞台に乗務員の行動を問う「事件」がマスコミを賑わしました。いずれもその行動が各社の服務規程に違反するのではと言う問題と、危険性があるのかないのか、という問題を孕んでおり、メディアで取り上げられたのち、世間ではその行動や処分に対して賛否が相次ぎました。


※写真は2005年12月撮影


2005年11月10日の朝日新聞の社会面に掲載されたベタ記事、とはいえ大阪発行の紙面にも掲載されているくらいですから重要性があると言う認識だったのでしょう。11月1日に東武野田線の運転士が、運転士の長男が運転台に立ち入ったまま1駅間運転したのを乗客が通報して、東武鉄道は運転士を懲戒解雇にする方針と言う内容でした。

その後、11月30日には東京メトロ東西線の運転士が、運転中に突然客室にまで響く奇声を発し、不審に思った乗客が駅に通報して発車が遅れたり、12月7日には新京成電鉄で乗務中突然便意を催した車掌が駅の便所に行ったところ、車掌の資格があるホーム監視員のOB職員が勝手に車掌代わりに乗務したりと、これまでなかったのか、それともわざわざメディアが取り上げるまでもなかったのか、おそらく後者でしょうが、とにかく乗務員の行動に関する「事件」が相次いだのです。

こうした「事件」をどう評価するか。各社の服務規程や法令と言う形式的基準と、その行為による結果という効果を基準にするというのが妥当なところでしょう。ただ、各社対応はそれぞれとはいえ、これらの「事件」への対応が妥当であるかどうかは疑いがもたれるところであったことは確かです。
さらにはこれらの「事件」に対する「世論」の賛否もまた、いささか公平を失したものであろう点がありました。

以下、これらの「事件」を見ていきながら、本来語られるべき「問題」の所在を探っていきたいと思います。

●東武野田線のケース
東武野田線の運転士が乗務中、運転室直後の客室に妻と3歳の長男、2歳の長女が乗り合わせたところ、長男が運転室のドアを叩くので父親である運転士が注意したところ、長男が運転室に入り込んで泣き出しました。(現場である南桜井駅の)発車時刻が来ており運転士は次駅である川間駅までそのままで運転して、そこで長男を客室に戻したんですが、それを見ていた乗客が通報し、運転室への第三者立ち入りを禁じた法令や服務規程違反を理由に懲戒解雇にしたものです。

東武野田線の運転室後方を見る


ここでの問題は、

1.運転士の行為は故意か否か
2.ダイヤを乱してまで長男を排除する必要性があったのか
3.懲戒解雇という処分は妥当か

というところです。

その後ネットやメディアに寄せられた意見では、運転士の行為を故意にとったり、運転士が運転室のドアを開けたこと自体を咎める意見が目に付きましたが、客室内からドアを叩くという「異様な」行為、もしくは運転士にコンタクトを取ろうとしている行為を無視することはありえません。家族が乗っているからこそコンタクトではないと言う確信があったのでしょうが、だとしても運転室のみならず客室にも迷惑がかかる行為に対して運転士が注意をする、と言うところまでは妥当であり、ドアを開けたことを非難する理由はないと考えます。よって運転士の行為に故意性はないと考えます。

次に、南桜井駅の発車時刻が来ていた段階で、時間を取ってまで長男を排除する必要があったのか。
これはダイヤ遵守との比較になりますが、その判断基準は、ダイヤを乱してでも排除しないと運転に支障するか否かという「安全の確保」になると考えます。
電車の運転に際して何が何でも運転室に第三者を入れないのかと言うと、必ずしもそうではないわけで、結局は立ち入った長男、つまり3歳児が運転にあたりどの程度の危険因子となるかということですが、よほど積極的かつ的確に電車の各種装置をいじるか、もしくは運転士の妨害をしない限り、運転に危険を生じるようなことはないと考えます。

そういう視点で考えると、ダイヤ維持を優先し、次の川間駅での停車時間に長男を客室に戻したと言う行為は、発生した事象に対して、最善の結果をもっとも迅速な形で取ったとも言えるわけです。
もちろん、この事象を七光台駅での乗務終了時に報告しなかったと言うことは基本的なミスですが、一方で世のあらゆる乗務員が乗務中の運転に支障する結果をもたらさなかった事象のすべてを報告しているとは思えないわけです。結局は、乗客からの通報と言う「想定外の事象」に対しての会社側の反応に尽きるわけです。

今回の措置が厳格なものになり、東武鉄道が寛大な処分を求める世論にも妥協しなかったのは、職員の服務規程違反により発生した竹ノ塚駅踏切での死亡事故が世間の批判を集めていたことが影響していることは想像に難くありません。実際、「年末年始『輸送の安全』強化運動」と銘打ったスローガンには、「お客様の『安心』を最優先に、信頼回復に向け...」とあるように、乗客の目を相当意識していることがうかがえます。

「輸送の安全」を謳う中吊り広告


そういう状況下において、通常なら目くじらを立てることもない事象も大事になるという想像力に欠如した運転士の脇の甘さも問題ですが、それであってもこの処分が妥当かどうかは大いに疑義があります。
つまり、「懲戒解雇」という企業が従業員に対して行う処分としては最も重い処分で、かつ雇用の喪失、退職給付の支払拒絶など従業員に与える影響が大きい「極刑」を処すには、企業の一存だけではなく、組合の合意や所管の労基署への説明などが必要なのです。
そうした説明に耐えるだけの理由があるのかと考えた時、東武鉄道の懲戒処分は重い順に解雇、階級降下、停職、減給、譴責の5段階ですが、少し前に処分が決まった竹ノ塚事故の処分対象者のうち、当日その時の当番者こそ懲戒解雇ですが、相番者(2人一組で担当する)ですら最低ランクの譴責、それまで違反行為をやってきた他の保安係は懲戒処分にもならない厳重注意で済まされており、刑事事件にすらなっていない今回の運転士の処分と整合性が取れているとは到底言えません。

これらを総合すると、何らかの処分が必要なケースではあるものの、それが懲戒解雇である必要性は全くなく、竹ノ塚事故での世間の批判を気にし過ぎた過剰反応の生贄になったともいえます。実際、東武野田線という首都圏ながらローカル路線で起きたこの程度の「事件」が新聞ネタになること事態が異例であり、少しの違反も許さないと言う企業側のポーズというかリークすら疑いたくなるのです。

●東西線のケース
西船橋に向かって運転中の普通電車の運転士が、南砂町駅を出て地上に出たあたりで突然客室にまで響く大声で「アイちゃんが好きだぁ」と叫んだそうです。そのほかにも奇声が聞こえていたようで、次の西葛西駅到着時に乗客が駅員に通報したそうです。
同駅助役が運転士を確認したところ、問題がないと判断したため、交代乗務員がいる妙典駅まであと5駅運転させて、そこで運転士を交代させたものです。

西葛西駅に到着した東西線電車


運転士が大声を上げるのは何も奇怪なことではなく、眠気覚ましと言うケースもあるのでしょうが、一方で運転士が発声するのであれば、信号の確認など業務として行うべき事象がいくらでもあるわけで、事実、新人研修の際などは常に運転室から聞こえてくるものです。
そういう意味での声出しならなんら恥じることはないわけで、実際、京急では最近その発声確認を安全対策の一環として宣伝していますし、乗客も聞けばそれくらいは瞬時に理解するものです。

にもかかわらず、「アイちゃん」と叫んでは、その意味や意図を不審がるのは当然でしょう。後に当の運転士は「独り言が大きくなってしまった」と言っています。実はその後東西線の先頭部に乗車してみたことがあるのですが、平日の21時半頃の同区間はかなりの混雑であると推測されますが、そういう中で客室にはっきり聞こえると言うことは、かなりの音量であったわけで、通常の声出し確認の域を超えた声量で意味不明の内容では、独り言の域を超えているわけで、乗客に不安を抱かさせるに足るといえましょう。

このケースでの問題は、西葛西到着後の対応になります。
乗客が運転士の行動に不信や不安を抱いている状況で、助役が運転継続を了承していますが、これはどうでしょうか。先の東武野田線のケースでは、運転士自身が問題行動を起こす可能性は微塵もなく、安全に問題があるかどうかの段階ですら疑いがあるのにもかかわらず、その具体的危険性を判断することなく、運転継続を咎めたわけです。

西葛西駅(葛西駅方面を望む)


一方でこちらは現実に運転士本人が問題行動を起こしているわけですが、精神面、心理面では素人である助役の判断一つで運転継続を判断しているわけです。よしんば継続するにしても、妙典まで助役が添乗するというような措置すら取られていません。具体的危険性という意味では、次の葛西駅進入時に制限速度をオーバーして副本線に入った時、揺れ幅が大きくなってホームに接触すると言うような事故発生の危険性はなかったのでしょうか。東西線型のATCではいかなる場合でも制限速度の超過はありえないのであれば話は別ですが、そうでなければ速度を超過した列車によるポイント通過時の異常振動でのホーム接触と言う事故は、旧国鉄時代に西明石駅で寝台特急が引き起こしており、可能性がないとは言えないのです。

本件は当の運転士本人の「奇声」という「奇行」に注目が集まってしまっていますが、それよりも、その後の助役と言う「管理職」が下した判断が問われなければいけなかったのですが、それが問われた形跡がないのは問題でしょう。

●新京成のケース
津田沼に向かって走っていた電車の車掌が、八柱駅手前で便意を催し、運転士に連絡して駅の便所に駆け込んだところ、同駅にいたホーム監視員のOB職員が、車掌資格を持っていたため昔取った杵柄とばかり乗り込み、4駅先のくぬぎ山駅まで「乗務」したものです。

八柱駅のトイレ


このケース、OBはダイヤを乱してはいけないと言う危機感で乗務したといっており、有資格者と言うこともあり、危機を救ったヒーロー現る、と言った事件のように取り上げられていた感があります。
まあ車掌のほうは八柱駅到着時点で運転手に断って駅のトイレに走ったようですから、指令に言わなかったというミスはあるものの、まあこれは仕方がない話でしょう。指令を呼び出して判断を待つ間に八柱に着いて発車してしまいますし。
正規の取り扱いに準じてトイレに行った車掌がホームに戻ったとき電車がいなかった驚きはいかばかりかとは思います。「ちゃんと運転士に連絡したのに」って。
ただ、昨今は水無しで1錠服用で便意が止まると言う便利な薬もありますし、また、交代要員がいるくぬぎ山まではあと8分、そこまで切羽詰っていたのか。もしそこまで我慢できないほど切羽詰まっていたのであれば、逆に6分前(八柱到着前に決断していたら5分弱か)の松戸で既に何かしらの便意を感じていたはずです。冒頭にも言ったとおり私もこの手の経験は多々ありますが、最初の「衝動」から10分までならは何とかなるのでは、と思いますし、だからこそ正規に準じた取り扱いとはいえ、折り返し乗務時の「確認ミス」は問われる余地はあります。

八柱駅を出る新京成電車


問題はOB職員(嘱託でしょうね)と運転士です。
OB職員は正直言って論外です。会社に無断で列車に乗務したことと、八柱駅のホーム監視という業務を放棄したからです。運転士も、遺失物捜査で発車待ちをかけるときなんかは、通常とは違う時間で電車を停めているので、発車時には停車事由が解除になっていることを通常は確認します。今回の例で言えば車掌がトイレから戻ってきて車内電話で連絡を入れることになります。
その確認を怠り、さらに車掌でない人間が乗務しているのに気が付きながら、指令の判断を仰がず、さらに常盤平で確認もせず運転を続けたわけです。運転士が声だけ聞いて「OBの有資格者だ」と確認したのでしょうか。

ダイヤを守ると言うことと比較する具体的危険性の判断にしても、もしOBが持ち場を離れた八柱駅で転落事故が起きていたらどうするつもりだったのか。師走の21時頃と言う忘年会帰りが多い時間帯、ホームが曲がって見通しの悪い同駅での「可能性」は低くありません。実際、なぜホーム監視員がいたかと言うと、ホームのかさ上げ工事中でホームに段差があったり(ビニールシートで覆われてでこぼこになっていた)、資材が置かれていて危険だったがゆえの監視員だったのです。また、OBが乗り込んだ電車でトラブルや事故があったら適切に対応できたのかどうか、という「可能性」は無限に膨らむわけで、かなり危険性が高いと言うしかありません。

八柱駅ホームの工事現場


●「対応はそれぞれ」と言えない
羹に懲りて膾を吹いている会社もあれば、羹を丸呑みしたような対応を取り続けている会社もあるわけです。とはいえ、同業他社が取った対応は、自分の会社においても亜rつ程度の基準になることとは確かです。そう考えた時、東武野田線のケースで、あの内容で懲戒解雇という処分を通してしまったことに付き、当の東武労組だけでなく、同業他社の労組も表立って異議が出ていなかったことは、将来に禍根を残す可能性があります。

逆に、安全面で疑義がある行動に対して、これまでは「なあなあ」で済ませていたり、情状酌量を比較的厚めに取っていた会社も、他社のケースと比較してその処分の甘さや厳しさを問われるようになっています。

そうした時、客観的な基準や合理性にかけた処分を下すことが、自社のみならず他社に対しても影響する可能性が出てくるわけで、企業の労務担当者に求められるものは、単なるコンプライアンスだけではなく、「量刑の妥当性」というバランス感覚も問われてくるのです。

●世論は移ろい易きもの
東武野田線のケースが報じられた後、懲戒解雇が重過ぎるという批判とともに、年端の行かない長男の行為で父親が馘首というのはあまりにも無慈悲では、という情に訴える批判がありました。
そもそも具体的危険性にかけるケースでもあり、情状酌量に訴える感情も十分理解できるところですが、そうなると情に訴えることに嫌悪感を覚えるのか、父親が乗務する電車に乗ること自体を咎めたり、2歳の長女にかかりきりのはずの運転士の妻が制止しないのは、という無理を要求したりと、東西線や新京成の乗務員に対して溢れていた事情斟酌とは正反対の世論が喚起されました。

中には朝日新聞の投書欄に出てきたような、昭和40年代前半に南海で起きた急行電車とトラックの衝突事故の犠牲者収容に従事した方による批判のように、具体例を挙げたもっともらしいものもありました。確かに運転士が自分の子供を運転台に座らせていた時に発生し、非常制動を掛けた後に客室に退避したと言う姿勢が問われ、運転室への第三者立ち入りが厳しく制限されるきっかけになってはいますが、子供が運転室にいることとトラックが踏切内で立ち往生していることに因果関係があろうはずもなく、かつ衝突自体は不可避と判定されていた事故ですから、危険性を正当化する理由にはなりえません。

問題の乗務員室の扉と内部


そもそも、長男とはいえ乗客です。南桜井駅の時点でむずかるのを蹴り出すなりつまみ出すなりしてしまえば一件落着だったのでしょうが、「乗客」に対してとりうる行動かどうか。酔客に殴られても反撃できないのが鉄道員です。そして、乗客ではなく長男と言う面を重視するのであれば、もし万が一長男が川間駅までの間で不慮の事態を引き起こそうとした時点で、それこそ乗客ではなく長男として遠慮会釈なく「父親」として制止することが可能なわけで、そういうことも具体的危険性の判断に際しては考慮すべき点でしょう。

東武野田線のケースで事情を斟酌すべきでないというのであれば、その後の東西線や新京成のケースも斟酌すべきではないですし、東西線や新京成で斟酌すべきであるというのであれば、東武野田線も斟酌すべきでしょう。
にもかかわらず世論は東武野田線に厳罰を求める層が一定数存在し、東西線や新京成はそれが少なかったわけです。世論の力は大きいですが、それが首尾一貫して正しいのかどうかを考える意味でも、興味深いケースではありました。

●そもそもこのようなケースはどう対応すべきか
具体的な危険が発生した、もしくは危険性が高かったと言うのでもない限り、事情を斟酌して穏便に取り図るほうが、現場の士気という意味でも厳罰主義に偏って萎縮したり、その判断基準の曖昧さが、乗務員に求められる自主的な判断に対する疑心暗鬼を呼ぶことを考えると、望ましいと考えます。

今回のケースで考えさせられたのは、東武野田線のケースが乗客からの通報ということ。また、東西線や新京成のケースも何らかのリークがない限りメディアが取り上げることもないであろうことが記事になったことです。
外部からの通報、また、外部に明るみに出た以上、悪い意味ではなく良い意味でのグレーゾーンを活用して「大岡裁き」をすることで再発防止と士気の維持、当該乗務員に対する教育効果を図れるものが、ある程度杓子定規としか言いようがない原則論での対応を取らざるを得ないと言う問題が生じます。

もちろん、通報者やメディアを通じて目にする読者にある程度の寛容さがあれば、対応が必ずしも原則に沿ったものでなくてもその妥当性というものを理解できるのでしょうが、どうも昨今、その寛容さがなくなり、原理原則にこだわる向きが多くなったように感じます。
そういう風潮において、裏付けを確認しづらい「通報」で対応するのが是なのか。原理原則論であってもそれが善意から出たものであればまだしも、そうでなかった時を想像すると、そういう「密告」に近いものを受け入れることに強い懸念を覚えます。





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