このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
ベビーカー挟まれ事故の背景は
無理解では解決しない事故の連鎖
●なくならないベビーカーの挟まれ事故
2007年9月に南海高野線萩原天神駅で、ベビーカーを持って降りようとした際にドアが閉まり、ベビーカーの脚部分がドアに挟まれたまま電車が発車し、ベビーカーに乳児を乗せたまま宙吊りで140mほど走り、構外の踏切で停車するという事故がありました。
ベビーカーの挟まれ事故は5月に山手線神田駅、2002年には山手線秋葉原駅、京葉線東京駅でも起きていましたが、この手の事故が起きるたびに声高に言われてきたのが「ベビーカーによる駆け込み乗車」と「母親の責任」でした。
しかし、今回の事故は普通に電車から降りようとして発生した事故であり、ベビーカーの挟まれ事故は利用者の無理が原因ではなく、通常の利用でも十分発生するということを改めて示したといえます。
神田駅の事故の際に明らかになったのですが、床面から一定の高さ以上では挟まれ対策のセンサーの感度が鈍くなっており、ベビーカーの脚を挟んでも感知しないということです。
南海の場合は全体的に感知する幅が大きかったようですが、いずれにしてもある程度のものは挟んだまま動くという前提が正しいのかどうか、同様の事故が相次いでいる以上はその思想が正しいかどうか根本から見直すべきでしょう。
●「挟まれる」メカニズムへの無理解
さて、上でも述べたとおり、ベビーカーによる事故が起こると必ず起きるのが「ベビーカーによる駆け込み乗車」と「母親の責任」です。
しかし、実際に駅頭で見ている感じ、また、実際にベビーカーで利用した経験から考えると、これははっきり言って濡れ衣であり、ベビーカー利用者(乳幼児連れでの利用者)に対する無理解そのものといえます。
ベビーカーがなぜ「戸閉め時に」挟まれるのか。
これは実際に利用した経験があれば簡単に判る話です。電車が駅に到着して、ベビーカーを押して我先にと乗降することはまずありません。他の乗客が乗降する中に乳幼児を乗せたベビーカーを敢えて突っ込ませるような大胆な人はまず見ません。
ではベビーカーの乗降はいつ発生するか。それは他の人の乗降がひと段落ついた時点です。しかし都市部の電車は停車時間が短いですから、その時間帯はドアが閉まる寸前なのです。
つまり、ベビーカーの乗降は常にドアが閉まるタイミングに近接している、そう考えれば、なぜ挟まれ事故が発生するのかがわかるはずです。
この「タイミング」の問題ですが、よくしたり顔で言われる「余裕を持って利用すれば」という意見が的外れなものであることを意味しています。つまり、到着する電車を余裕を持って待っていても、乗降が多ければ必ずドアが閉まる直前になるからです。
また、南海線の事故のように、ホームとの間に段差がある場合、ベビーカーを担ぐ格好になるわけで、そうなると時間もかかります。乗降に時間がかかるという構造的な問題が本質であり、目視やモニターでそういう利用者を確認して乗降時間を確保することが正解なのに、なぜか利用者の責任を問いたがる風潮というのも困ったものです。
こういう「無理解」は決して「外野」だけでなく、この手の事故が起きると事業者は決まって利用者に自重を促すポスターで「啓発」しますが、ドアセンサーの問題やホーム監視の問題に意を尽くしているとはいえません。(JR東日本は神田駅事故の後さすがにセンサー改良に乗り出した)
特に2002年の事故を受けて貼り出されたポスターは話にならず、乳児でも特に首が据わらない時期に使用する「A型ベビーカー」で駆け込み乗車しているというまず有り得ない状況をイラストにしたという、そもそも事業者がベビーカーそのものを全く理解していない、利用者=悪という思い込みとしか言いようがない状況でした。
こうした無理解をそのままにしていた場合、現状は駅員の介助があるから十分かつ万全な時間をとっている車椅子の乗降でも、将来的にバリアフリーが進み、車椅子利用者のみで乗降するのが当たり前になった際、タイミングという意味ではベビーカーと似た特性を持つだけに、同じように挟まれ事故が続出する危険性があります。
●周囲の無理解
ベビーカーの事故に関するもう一つの問題は周囲の無理解です。
ベビーカーを押しているのを見ると確かに威圧感があることが「駆け込み」に見える側面は否定しませんが、実際には歩くスピードと同等かそれ以下であり、そういう誤解や思い込みをまず解消していく「啓発」のほうが大切です。
しかし、最も問題なのがベビーカーでの外出に対する無理解です。
育児期間中は母親は公共交通機関での外出は論外、といわんばかりの論調が目に付きます。確かに混み合う首都圏の電車やバスでベビーカーを使われたら邪魔なことは確かです。しかし、「公共」交通機関である以上、あらゆる階層、年代の利用が想定されるわけであり、いかな理由をつけたとしてもそれを排除する方向は有り得ません。
例えば定期健診などの病院通いは乳幼児には必須ですし、また、買い物その他での外出は当然有り得ます。そうではなく、母親が自分の楽しみで外出しているだけでは、というもっともらしい批判もありますが、では母親は一切の娯楽も排除しないといけないのか、それを自分の母親や細君、また子供に真顔で主張して理解を得られる常識論なのか。よく考えたいものです。
●おんぶ、だっことの比較
一方、外出は止むなしとしても、おんぶやだっこのほうがいい、ベビーカーは畳むべき、という主張もあります。
一見もっともらしいですが、実際の行動を考えたらどうでしょうか。
乳幼児連れでの外出の場合、子供だけを連れて行けばいいというものではありません。ミルクにおむつは複数回分必要ですし、冷暖房に対応したり、粗相に備えた着替えも必要です。
それらを入れたベビーバッグに、買い物袋などの通常の荷物も加わるわけで、子供はおんぶ紐やだっこ紐で両手が自由とはいえ、畳んだベビーカーを持つとなると、それだけで荷物は3つです。
人間、手は2本しかありません。それなりの嵩のある荷物が3つ、それに子供をおんぶかだっこして、何かあったら子供に手をやることがこなせると主張する人に手は何本あるでしょうか。
千手観音様のありがたいお言葉かもしれませんが、人間は真似できません。
また、おんぶやだっこの場合、重心より上に子供の位置が来ます。子供がいなくて想像がつかない人に例え話をすれば、胸の前や背中に10kg程度の米袋を括りつけた状態です。
こうした状態では母親の安定性は非常に悪くなりますが、万が一の時の「手」は荷物に塞がれているわけで、「不安定行動」そのものといえます。
●ユニバーサルデザインへの一里塚
確かにベビーカーの本質は「母親の楽」です。
しかし、だからといって「楽をするのはケシカラン」というのでは、「私たちの若い頃は洗濯板で洗濯をしてたのに、全自動洗濯機で楽ばかりして」とネチネチ嫁イビリに精を出す姑のレベルであり、それを社会の規範として語るのであれば非常に低レベルな議論ですし、それを自分の家族に真顔で主張できるかどうかをまず考えたいです。
家事や仕事のあらゆる局面で日進月歩の「改善」が進み、我々は昔とは比較にならぬ「楽」を享受しているのに、育児だけは「苦」であらねばならないという理由がありません。
逆に、社会全体としていかに子育ての負荷を下げていくか、日常生活におけるバリアを除去していくかということを考えるべきであり、そういう一環として公共交通機関におけるベビーカーの利用に対し、社会が理解を示し、事業者が利用への障害をなくしていくことが重要です。
ユニバーサルデザインの本質も、障害者などの利用をアシストするというような弱者保護ではなく、誰でも気軽に「楽に」利用できる、という話であり、ベビーカーに対する無理解とバリアの除去はまさにユニバーサルデザインを我々がいかに理解しているかの試金石といえます。
ユニバーサルデザインというと唐突のように感じるかもしれませんが、ベビーカーで気軽に利用できるという社会は、車椅子でも特別な介助を必要とせず気軽に利用できる社会です。
●メーカーの責任
ベビーカーによる公共交通機関の利用が当たり前になる世界が、ユニバーサルデザインの一つの象徴ですが、実はここに大きな障害があります。
当のベビーカーメーカーが、ベビーカーでの利用を想定していないばかりか、未だに「畳んで乗車を」と訴えているのです。
メーカーの大半はベビーカーだけでなく、チャイルドシートやベビー用品などをラインナップに揃えており、乳幼児や母親のニーズに応えた商品開発を謳っているはずです。
しかし、なぜベビーカーでの公共交通の利用に関しては、「無理解な」事業者と意見が一致するのか。いわば車椅子メーカーが、電車やバスでは使えません、という製品しか作っていないようなものであり、本当にニーズを理解しているのであれば、そのような商品は既に淘汰されているはずです。
公共交通機関でベビーカーが「解禁」されたのは関西で10年以上前、首都圏でも98年ですから10年近くたつのに、未だに「畳んで乗車を」というのは「木で鼻をくくった」としか言いようがない対応です。
畳む利用から畳まない利用へシフトした現在、軽量化、小型化も大切ですが、必要な部分は太くする、大きくするというような対応が必要なのに、それに関しては立ち遅れが目立ちます。
例えば脚部の太さを確保してセンサーに感知されやすくするとか、点字ブロックや踏切などの溝に嵌ってネコ車のようにひっくり返る事を防止するために前輪の口径を大きくするとか、改良すべき点は多いです。
●10年ひとむかし、そして未来へ
首都圏の鉄道各社がベビーカーを「解禁」したのは10年近く前のことです。
実は事業者に積極的に要請したグループが活動の拠点にしていたのが船橋市であり、当時船橋市在住で、人の親となったばかりの私もその運動は見聞きしており、その成果には感謝しています。
ただ当時は利用は出来てもエレベーターなどの対応が追いつかず、事業者によっては使えると言っても空証文のような状態でしたが、やがてそうしたバリアが徐々に解消されてきています。
そうしたハード面での対応と同時に、周囲の理解も進んで欲しいのですが、親になってそれまで理解どころか想像も出来なかったことがあれこれ見えてくるように、こればかりは我が事でない限りなかなか理解しづらいものがあるわけで、そうした「無理解」を解消するような「啓発」が無いままにきたというのが実情です。
そうした「無理解」による萎縮が公共交通機関の利用を躊躇わせてきたのも事実であり、一方で商業施設などは子連れの利用に意を配ってきたことから、クルマにシフトすれば移動から目的地までストレス無く子供を連れていけるとあっては、特に乳幼児のいる家庭での公共交通離れを深度化させてきたといえます。
もっとも、移動手段のシフトだけでなく、社会の「無理解」から育児自体を負担に感じるようになって昨今の少子化につながっているということもいえるかもしれません。
一方、約10年前に「解禁」を勝ち取ったグループは、ただ闇雲に権利を主張するだけでなく、利用者側にもマナーを求めており、
1)ラッシュを避ける
2)切符購入はあらかじめ離れた場所で料金の確認と小銭の用意
3)人の流れを妨げないよう端による
4)急な方向転換はやめる。立ち止まる時は広いスペースや邪魔になりにくい所へ
5)周囲にぶつからないように気を付ける。ぶつかったときは「すみません」の一言を
6)電車内では前輪を内側へ引っ込める
7)電車内ではストッパーをかけ、ベビーカーに手をかけておく
8)グループで場所を広げるのはやめる
9)傾斜しているホームもあるので、ベビーカーから目と手を離さない
10)困ったときは1人で抱え込まないで、誰かに手伝ってもらう勇気を持つ
という「10箇条」を公表しています。
中には3のように「人の流れを妨げない」ように配慮すれば勢い乗降は後になる、ということを理解していれば挟まれ事故の「KY」(危険予知)になるはずのものもあるわけですし、利用者もこうしたマナーを守っているかというと、6や8のようにまずそうした配慮がないケースもあるわけです。
事業者やメーカーに厳しいことを言いましたが、利用者の側もこうした心配りをすることで、はじめてお互いに理解しあう社会になる事を忘れてはいけません。
誰彼がではなく、誰もが欠けているのが現実なのです。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |