このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください





復旧ならずして消える岩泉線
流動に合わない鉄路の退場



2011年の東日本大震災で被災した路線が3年経っても未だ復旧しない現状はいろいろな問題や議論を呼んでいますが、JR東日本管内にはその大きなテーマに隠れる格好で自然災害による長期運休区間が存在します。

2010年7月に発生した土砂崩れとそれに乗り上げた脱線事故により運休している岩泉線、そして震災を挟んで翌2011年7月に発生した新潟・福島豪雨による橋梁流出などで越後川口−只見間が運休している只見線の両線ですが、岩泉線は結局復活ならずして、2014年3月末日をもって廃止されることになりました。

その岩泉線代行バスに、2013年の年末に乗車してみました。

3年9ヶ月の休眠の果てに



写真は2013年8月、12月撮影


●被災路線の影で「廃止」される岩泉線
2011年3月の東日本大震災と原発事故による被災で、JR東日本は2014年3月の時点でもなお岩手、宮城、福島の3県で6線7区間の運休区間を抱えています。

しかしそれらはBRTによる仮復旧を含めて、復旧待ちという建前であり、条件が整えば復旧することになっていますが、同時期に自然災害で長期運休に追い込まれた岩泉線と只見線は震災による運休路線と比べても影が薄く、岩泉線に至っては3年8ヶ月の運休の果てに廃止となるのです。

山田線との分岐部

岩泉線が長期運休に入ったのは2010年7月。押角−岩手大川間の押角峠の北側で発生した土砂崩れに列車が乗り上げた脱線事故が契機でした。
乗客が負傷すると言う事故でしたが、JRは現場のみならず同様に危険がある箇所の改修が必要であり、そのための設備投資が収入に全く見合わないとして運行再開を断念し、バス転換を主張しました。

復旧を念願していたが

地元自治体は当然のように反対しましたが、最終的に、旧国鉄時代の特定地方交通線の廃止から免れる原因ともなった押角峠の道路改修として、鉄道トンネルの転用整備を行うことで合意を見て、2014年4月1日付の廃止、すなわち3月31日の運行を持って廃止されることが決まりましたが、長期運休中のため、代行バスが廃止になり、代替バスになるという格好です。

茂市駅の案内

既にバスになっているということもあるのでしょうか、代行バスとはいえJR各社の企画券が使え、別料金ですが小本や盛岡などにも抜けられるというのに、「葬式鉄」すらあまり訪れない現状は寂しいというか厳しい現実です。試乗時も岩手刈屋→押角で秘境駅探索らしい人が乗った程度ですから。

●何とも中途半端な開業区間
「106急行」に全く歯が立たず、存在意義すら問われている山田(山)線の茂市から分岐し、水系を越えて北上山中を岩泉まで向かう岩泉線は、一見何が目的なのか分からない路線です。

終点の岩泉は龍泉洞という有名な鍾乳洞がありますが距離がありますし、さらに下れば海沿いには三陸鉄道の小本駅があり、同じ岩泉町内ということもありそこまでつなげれば、と思いますがつながっていませんし、建設も岩泉駅付近のごく一部を除いて手がついていません。

一押しの龍泉洞のポスターが並ぶ岩泉駅

そもそも1972年に浅内から岩泉まで延伸開通した時点で「岩泉線」と改称されるまでは「小本線」であり、三陸海岸を志向していたはずでしたが、延伸と同時に沿岸を目指す意図を感じる路線名が「内陸志向」になったわけで、この時点でもうかなり怪しい状況でした。

それでも1972年の段階では三陸沿岸の鉄道網、今の三陸鉄道北リアス線は宮古−田老の宮古線が岩泉線延伸の3週間後に開通したに過ぎず、1975年に久慈線が久慈−普代間を開通させたような段階であり、内陸にありながら沿岸の小本を町域に含み、内陸の安家経由で久慈を結ぶ路線も含めて国鉄バスの拠点だった岩泉に鉄道が達したというのは少ないながらも意義がありました。

陸中海岸の玄関口だった名残

一方で岩泉線の延伸に先立つ1967年には盛岡から直通する国鉄バス早坂高原線が開通しており、急行「龍泉号」として観光ビデオ放映のデラックスバスとして、バス急行券を徴収するスタイルが長く続いており、岩泉へのメイン交通機関は、町内と周辺に路線網を広げる国鉄バス→JRバスでした。

ただし三陸海岸へのアクセスという意味では「龍泉号」は直通せず、北山崎など北三陸の海岸線へのアクセスという意味では田老と共に岩泉も重要な始発駅であり、宮古へ向かう際の交通機関としても機能していました。

往時の栄光を偲ばせるのが岩泉駅の駅舎であり、観光協会が入居している大きな駅舎は1970年代に建設された観光地の拠点駅によくある意匠であり、ちょうど1975年に開業した久慈線普代駅も同じような感じです。

立派な駅舎は当時の期待


●今は昔の寂しさ
1984年に三陸鉄道が開通すると三陸海岸へのアプローチは三陸鉄道利用が一般的になりました。宮古と久慈を高規格の路線で結ぶ三陸鉄道は速達性もあり、改修が進んではいるものの隘路も多いR45経由のバスは太刀打ちできませんでした。

観光地も三陸鉄道のフィーダー輸送となり、さらにはモータリゼーションの進行と、岩泉を拠点とした国鉄バス、JRバスの路線網は見る影もなく、早坂高原線も盛岡直通は残りましたが、急行バス扱いは無くなり、自治体補助を受けている旨を停留所に掲出する生活路線としての意味合いが強まっています。

それ以外の路線は小本までに岩手県北バスが残るほかは地元のバス、タクシー会社による運行になっていますが、流動という意味では早坂高原線経由で盛岡か、小本経由で宮古という二者択一状態で、岩泉線経由という選択肢は皆無に等しい状況といっても過言ではないです。

茂市が起点では厳しい

そう、茂市からの山田(山)線は本数が少なく、106急行を使うにしてもならば乗り換えなしの盛岡行き早坂高原線バスです。
宮古も小本経由で三陸鉄道の方が早く、本数も確保されており、茂市に出て、という岩泉線を使うインセンティブがありません。

末期の利用実態は岩手和井内までが大半ですが、宮古からの岩手県北バスが並行していました。

●代行バス、代替バスの事業者は
岩泉線自体は四半世紀前の1988年2月に乗車していますが、八戸から三陸海岸沿いに宮古まで南下した後に岩泉までの往復というありがちな乗り潰しパターン。おまけに冬の夜便の往復で、しかもそのあと宮古から山田(海)線の最終で釜石に向かい投宿、ということで、唯一の乗車記録が闇の中という負い目があります。

ちなみに山田線は1987年6月に「E・Eきっぷ」で盛岡から朝の山田(山)線で宮古に出て、山田(海)線から釜石線経由で盛岡に戻る急行「陸中」というコースで時計回りに一周していますが、その次が岩泉線のあとに乗った最終列車であり、今般震災後にバスで2回沿線を訪問したことで皮肉にも初めて丹念に沿線を見たことになります。

代行バスから代替バスへと続くわけですが、バスの運行は沿線で路線バスを運行する岩手県北バスではありません。岩泉町内でJRバス廃止代替の岩泉町民バスを受託する岩泉運輸や小川タクシーでもなく、貸切専業の東日本交通です。

東日本交通のマイクロバスを使った代行バス

確かに岩泉町内が本社で、沿岸と盛岡、そしてなぜか宇都宮に営業所を構えていますが、既に路線バスを受託している会社ではなくこの会社に白羽の矢を立てた理由は何でしょうか。他の会社が余力が無いと断ったのか。いずれにしてもバス転換後の代替バスも同じ東日本交通が運行するのですが、既存の岩泉町民バスと並行するため、並行区間での乗車券類の共通化を図るそうですが、ならばいよいよ既存2社でない理由が見えません。和井内以南の並行を考えると、宮古から小本経由で岩泉に路線を持つ岩手県北バスでもいいはずですが。

駅より上手にある和井内の集落


●代行バスに試乗する
2013年の年末、旅行記に記した「北三陸」紀行を終えて宮古に投宿した翌日に回ってきました。

夜の街、大通の一角にあるホテルに入り、フロントで教えてもらった居酒屋でドンコなど地元の味と酒を堪能した翌朝ですが早起きせざるをえません。というのも代行バスは茂市発が早朝の2便と午後と夕方の計4便。岩泉発が朝の1便と夕方以降の2便の計3便。わずか3.5往復です。

バスのうち2往復は宮古まで運転して直通の利便性を担保していますが、その早朝1便は宮古5時25分発となんとも早く、宮古発6時35分の列車から乗り継ぐ3便で岩泉に向かったのです。

宮古で発車を待つ633D

その633Dはキハ110の単行。乗客は私の他に1人だけ。地元なのか観光客なのか不明ですが、川内までしか行かないだけに、廃止が発表された岩泉線に向かうのかな、と思いましたが、茂市では降りませんでした。

茂市の接続は5分。岩泉線ホームにキハ110がいましたが、どういう運用なのか。5時53分に宮古から着いて9時7分発で宮古に帰る車両ですが、岩泉線が運転されていれば線内を運用していたはずの車両です。

岩泉線ホームで待機する車両

駅舎内を見てから、と思っていたら、代行バスのお客さんは早く早く、と追い立てられるように駅舎を出され、駅前のマイクロバスにご案内。運転手に断ってバスと駅舎の2ショットを何枚か撮ってバスに落ち着きます。

茂市で発車を待つ代行バス

やたら張り紙というか注意書きが多い車内ですが、料金箱のようなものはなし。乗車券を購入していない場合は備え付けの紙に区間を記載して運賃と一緒にお渡し下さい、というユニークなシステムでした。

やたら張り紙が多かった...

廃止間近の年末休暇中とあって、何人か「ご同業」がいるのではと思いましたがいません。列車代行なので青春18などの企画券も使えるというのに淋しい話です。

茂市を7時1分に出ると、国道になかなか出ません。雪の隘路を通ることしばし、ようやく国道に出ましたが、正式にバス転換されてもこのルートなんでしょうか。停留所を置くでもないのに、少々遠回りでも広い道を行くべきでしょう。

岩手刈屋に到着

国道に合流したのにすぐ脇道へ。岩手刈屋駅に寄るためですが、驚いたことにここで2名乗車。1名はどう見ても「ご同業」ですが、中途半端な乗車はおそらく朝の1便に乗って、岩手和井内か中里で折り返してきたのでしょう。載り通すだけではなく、駅にも寄ってみる、というのは私もやりますが、12月7日からの冬ダイヤで宮古発が5時台前半となっては手が出なかったコースです。

中里は国道沿いに

国道に戻り、中里と岩手和井内は国道沿いに駅があります。

鉄道時代から折り返しもある岩手和井内

国道の道路事情は未改良区間もありますが、改良区間もあるという感じ。

改修区間が終わると旧道へ

中里と岩手和井内はバスベイがあり、国道の通行を阻害せずに停車できます。

改良された区間にさらにバスベイがある岩手和井内

岩手和井内のある和井内集落までは岩手県北バスの路線もあり、集落がそこそこ見えますが、和井内を出ると一気に人里離れた光景になります。

和井内の集落を出ると山あいの隘路に

押角峠までの間には秘境駅の誉れも高い押角駅がありますが、代替バスでは停留所の設置が見送られてしまうほど利用が無いのですが、岩手刈屋から乗ってきた「ご同業」が押角で降りました。
75分ほどで茂市、宮古行きの代行バスが来るので、注目の押角を含めて途中駅3駅を訪問できるという夢のような?コースを実践しているようです。

雪原にポールが立つ押角

車内は地元の方でしょうか、中高年の女性が1人です。思い立っての利用には見えませんが、押角−岩手大川間の押角峠区間は代行バスの土休日の平均利用人数が2人台とあり、ひょっとしたらこの人の往復が総てなのかもしれません。

代行バスの押角駅は国道上。駅は林の向こうの雪原に埋もれているのでしょうか、よく見えません。バス停を出て少し行くと線路が見えてきましたが、高度を上げる国道に対し、そのまま山腹にトンネルを穿って消えましたが、これが押角トンネルでしょうか。このあと経由した国道の押角峠を考えると、このトンネルを走れたら相当な改良です。

線路に別れを告げて高度を上げる

いよいよ押角峠にかかります。谷筋に沿って徐々に高度を上げていきますが、谷を挟んだ反対側の山腹に道路が見えており、ありがちな谷を上り詰めて対岸に移って戻ってくるパターンのようです。

右下から奥まで行って折り返してきた

そして案の常の状態で戻り気味に高度を上げると、谷筋の入口で峠に向かってターンを切り、最終コースです。稜線の鞍部を通る峠のトンネルにようやく辿り着きましたが、峠を挟んで押角から岩手大川までの所要時間が28分というのは実は1駅間の所要時間としては稀有の長さでしょう。

峠の雄鹿戸トンネル

峠のトンネルは「押角トンネル」と思いきやさにあらずで、「雄鹿戸トンネル」といいます。
当て字なのか、押角が当て字なのかは不明ですが、由来が知りたいところです。
峠の向こうは岩泉町。北向きの谷あいということで路面は圧雪状態で、バスは慎重に下って行きます。

峠の向こうは圧雪路

途中民家が見えてきたあたりが戦後押角トンネルが開通した段階で設置された宇津野駅のあったあたりですが、近寄るすべも無い上に、雪に埋もれています。
急速に高度を下げる国道に対し、線路は勾配を緩和するため左手の山腹に移り、さらに別の谷筋に移ってから大きく山を巻いて岩手大川に向かいますが、その山路で「致命傷」となった事故が発生しています。

線路は高巻きに大回りして岩手大川へ

T字路にぶつかるとバスは右手の岩泉ではなく左に曲がります。岩手大川に向かうためですが、集落へのアクセスも考えて岩手大川駅が設置されたのは勾配克服上の要請からも理に叶っていましたが、バス転換となると枝線のような格好になります。さらに代替バスは駅からさらに奥のサンパワーおおかわまで入りますが、岩泉町の公共交通としてはこっちのほうが王道であり、宇津野を経て押角峠から茂市というルートは脇道なのです。

岩手大川

岩手大川駅では岩泉町民バスと接続。岩泉駅まで入るバスを見送る人がいて不思議に思ったのですが、商店街も病院も役場にも行けない代行バスでは意味がないということに程無く気がつきます。
ちなみに代替バスでは、岩手大川駅より奥にあるサンパワーおおかわまで入るほか、岩泉町内でも他の町民バスのように役場や病院、高校を回り、旧JRバス営業所で町民バスのターミナルである岩泉三本松にも寄るので、利便性が向上します。なお、大川地区への町民バスを統合するようですね、さすがに。

アーチ橋が見える区間

茂市への三叉路まで戻ると程無く前方にアーチ橋が見えてきます。鉄が入手困難な時代に作られたコンクリートアーチ橋は沿線随一のビューポイントです。このあたりで茂市・宮古行きの代行バスとすれ違いましたが、鉄道時代であれば当然岩泉で折り返してくるところ、茂市側の時刻を固定すると、押角峠などで時間を食うため、岩泉で折り返す時間が取れないのです。

浅内で時間調整

1972年までの終着駅、浅内に着くと時間調整で5分ほど停車するとのことで、運転手に断って駅舎やホームを見に行きました。

浅内駅ホーム

終着駅だったということでしょうか、集落も比較的大きめで、久々の町という感じです。

岩泉方には給水塔も見えました

さらに進むと盛岡、沼宮内からの国道と合流。ここからは岩泉と「外界」を結ぶメインルートです。心なし程度ですが交通量も増えました。そして驚いたことに二升石で岩手刈屋からの女性が下車。「乗り鉄」でもなかなか真似が出来ない利用ですが、こんな流動があるとは思いませんでした。

二升石は早坂高原線などと共用

小本川に沿った平地が開けてきて、集落が途切れなくなったら岩泉の市街地です。
しかしその中心の少し手前でバスは右折して川を渡ります。正面には立派な駅舎が見え、ここが岩泉駅。代行バスの終点です。
茂市から1時間40分の長旅でした。

岩泉に着いた代行バス


●岩泉の駅を見る
前日に見た普代駅もそうですが、1970年代中盤に出来た観光地の駅というのは、無機質なコンクリート作りでありながらデザイン性も考慮されています。

人気のない駅舎内

観光協会や案内所が入居して賑わっていたと聞く駅舎に入るとがらんとしており、事務室から出てきた人にホームを見たい旨を断るとどうぞ、とのことでホームに出ました。

茂市方を見る

26年前の日没後にここに列車で到着し、改札を出て駅前を見て、また列車に戻ったはずですが、闇の中ということもあり、あまり覚えていません。

ホームと小本方に少し伸びるレール

龍泉洞、さらには陸中海岸への観光客で賑わっていた時代があったのでしょうが、広い待合室の片隅にあるスタンプ台はDiscover Japan時代のものであり、その後のエキゾチックジャパンやいい日旅立ちのキャンペーンにあわせた更新が無いあたり、昔から苦戦していたのかもしれません。

木々の合間に見える車止め

驚いたのは事務所と見えたのが窓口で、しかも現役のきっぷ売り場ということ。

時が止まったような出札と改札回り

代行バスの到着前に茂市行きが出ており、到着を受けて何も用が無いことを確認してから、ということでしょうか、12時まで窓口はお休みです。

「12時までお休みします」の掲示が現役の証

小本へのバスは1時間20分後。街外れの駅周辺では時間は潰せませんし、商店も無いのです。

DJキャンペーンスタイルのスタンプ台

駅の脇には消防署があり、署員による日課の基礎練習の真っ最中。代替バスになったら「駅」にはバスは入らず、国道上に「岩泉橋」バス停が置かれますが、ここを折り返し場にしている小本方面の系統は残るんでしょうね。東からの系統が市街地をカバーするためにも。

駅から橋を渡って国道につながる道路


●意外な拠点性を感じた岩泉
時間は十分にあるので、市街地を一回りしてみました。といっても三本松のほうまでは歩かず、役場近くの商店街を通り抜けてみただけです。

どんな美人が...

「美人多しわき見運転禁止」というありがちなベタな看板がある「うれいら商店街」という名前の商店街ですが、駅側の入り口はうらぶれており先が思いやられました。

駅側はうらぶれ感が強い

ところが歩くにつれて心配は霧消。年末ということもあるのでしょうが、人通りがそれなりにあります。

こんな建物も

商店のほか、趣のある造り酒屋とか、じっくり見たら面白いんでしょうね。商店街を抜けて国道沿いに戻ると、国道側にも商店があり、さらには国道からアクセスする専用駐車場もあり、クルマも結構停まっていました。

駐車場も賑わっていました

このエリアが岩泉上町。上り坂の向こうが下町と逆ではないか?という感じですが、小本川の流れで見れば上流下流の関係です。
岩泉病院、高校、三本松バス停は下町側にあり、若干の高低差がありますが、こちらにも商店、スーパーがあり、小本行きのバスにも三本松から乗り込み、町内で降車と言う流動が結構ありました。

バスの拠点は岩泉三本松

岩泉町は、微妙に表通りから外れた位置関係にあるように見える北上山中の小さな町、という印象ですが、実際に訪れた印象は、予想外に拠点性がある街だなということ。もちろん早朝から人里離れた押角峠などを堪能してきたので大きく見えるのかもしれませんが、商店街があり、各方面のバスも乗って10人とはいえ空気輸送ではないのです。

小本への岩泉運輸バス

このあとは小本への岩泉運輸バスに乗車して小本駅へ。

小本駅に到着

三陸鉄道の接続が悪く、結局岩手県北バスに乗り換えて田老に向かいました。試乗当時は暫定ダイヤとはいえ小本での三陸鉄道への接続に難があるケースもいくつかある(宮古発は午前の小本発の1本のみだが、宮古行きは朝方以外は全滅状態)のは残念でした。直通時代の名残で県北バスの宮古−小本線との接続はいいですが、鉄道が30分強なのに、バスは1時間10分かかるのに、バスが宮古先着となるのです。

ホテルを営業しながら一大仮設タウンになった

ちなみにその差異の大半は田老−小本間で発生しますが、いまや一大仮設団地になったグリーンピアへの立ち寄りなど、高台の集落を結ぶ使命もあるわけで、需要を拾うという意味では決して無駄ではなく、このあたりも今後の公共交通機関の制度設計が悩ましい部分です。
ただ、三陸北道路の整備で、三陸鉄道のアドバンテージの多くが失われる可能性が強いですが...

三陸北道路 小本IC(田野畑まで開通)


●岩泉の公共交通と岩泉線
自家用車でも運べそうな乗客を乗せたマイクロバスで延々と山越えをして、思ったより賑わっている岩泉の街を経て、隘路もない快走路を三陸鉄道に連絡する小本に出るというルートで沿線を見たわけですが、やはり訪れてみないと分からないことは多かったです。

まず感じたのは、採算云々をいうのは野暮としても、公共交通が機能する余地、活躍する余地が岩泉町には十分あるということです。

岩泉は盛岡から岩泉を経て小本(R45、北三陸道)に接続する横断ルートに位置するわけで、「外部」からのアクセスはこのルートになります。盛岡−岩泉−龍泉洞のJRバス早坂高原線と、岩泉−小本の岩泉運輸、岩手県北バス(岩泉運輸は龍泉洞経由)が軸となり、岩泉三本松を拠点とする町民バスがかつてのJRバスの支線をカバーしています。

盛岡駅で発車を待つ早坂高原線

小本川に沿った平地、というか谷あいに開けた街ということで、コンパクトな展開しか出来ないロケーションで、支流の谷筋の集落を結ぶ流動が発生するシチュエーションは、流動を集約して成立する公共交通向けの立地です。

観光という意味でも、出発から帰宅までクルマで総てを完結させるには距離があるわけで、新幹線の駅からレンタカーという選択肢なら、バスの出番もあるはずです。
また復興支援という名目もある三陸鉄道利用とのリンクもあるわけです。

1972年の開通を記念する運輸相による碑

一方で岩泉線はどうだったのか。三陸鉄道がない時代、宮古から改修半ばのR45のワインディングを辿ることを考えたらまがいなりにも鉄道の岩泉線も選択肢になりえましたが、三陸鉄道の開通で、地域の拠点である宮古へ岩泉線を使わなくとも小本乗り換えで早く着くのです。
盛岡なら早坂高原線があるわけです。だいたい、茂市から山田(山)線に乗ろうとしても、便がありませんし、106急行に乗るくらいなら乗り換えなしの早坂高原線でしょう。それと、岩泉線自体が本数がありませんし。

小本川に沿って下り、1956年から同じ岩泉町に属する小本との間には集落が分布している。広域的には同じ下閉伊郡市である宮古の勢力圏になる。という条件において岩泉線の出る幕は無く、逆に資源を小本経由宮古、という軸に集中することで生き残りを図るべきでしょう。

小本まで町域に含む岩泉町


●岩泉線「廃止」後のあるべき姿は
上記のように、東西の「幹線」と地域の集落を結ぶローカル路線のジャンクションとして機能する公共交通を維持することが大切です。

その意味では岩手大川−岩泉で中途半端に重複していた岩泉線が無くなることで、バスに一本化できるのは意味がある話でしょう。代替バスは停留所を町民バス同等に増やし、さらに岩手大川駅より奥に入りますから。
なお今回の代替バスが平井、宇津野集落にバス停を設け、さらに浅内からサンパワーおおかわ、宇津野まで自由乗降区間にしているのは宇津井集落までの公共交通が確保できたという意味では好結果と言えます。

ただ、宇津野を経て茂市方面への流動への対応をどうするかとなれば、宇津野集落までの提供がせいぜいでしょう。
岩手和井内以南は岩手県北バスの強化でカバーできますし、押角峠を越える流動数を考えたら、公共交通というメニューを提供する必要性をもう一度考えてもいいはずです。
さらに言えば、代替バスが和井内以南で旧鉄道駅しか停留所が無いのもどうなのか。駅から離れている和井内集落への対応も含め、県北バスへの統合を考えるべきでした。

ロープで線路側を封鎖されていた踏切

試乗時は仕事納め後という状況ですがマイクロバスですら空気輸送、という現実は厳しいです。
道路的には宮古市内で運行されている小型の路線バスなら対応できそうですが、それすら持て余すという状況でしょうか。
もちろん試乗時に出会った日常利用のような方もいるにはいますが、そこまで配慮する必要があるのか、という限界事例と言えます。

その意味では押角鉄道トンネルの改修も必要なのか。今の峠道だって通年通行可能ですし、「酷道」とは言い難いレベルです。押角峠のワインディング経由という時間ロスが大きく(押角−岩手大川で鉄道13分、バス28分)、鉄道トンネルの改修で所要時間が10分程度は短縮されるメリットはありますが、その受益者はどの程度なのか。盛岡なら早坂高原線ルート、宮古なら小本経由がありますし。

押角トンネル(茂市側坑口)

逆に東西の幹線ルートは死守すべきであり、利便性を確保して住民や観光客、用務客の利用を維持するのです。今の運行形態は盛岡からの急行バスと宮古(小本乗り換え)からのバスが岩泉で出会っている、という形態ですが、沿線の集落から盛岡へも宮古へも出やすくするような系統再編も考えるべきです。

そのとき、角を突き合わせているような早坂高原線と岩泉−小本線の関係はどうあるべきか。岩泉運輸と県北バスで龍泉洞の経由非経由があるのはどうなのか。特に後者は県北バスのバスカードが共通使用できるのに、微妙な差異があるのです。

岩泉で岩泉運輸と並ぶ県北バス

前者も106急行のように沿岸部と盛岡を結ぶという性格を持たせられないのか。三陸鉄道の利用に影響が出るかもしれませんが、逆に宮古経由より便利になることで入り込みが増えて、結果として小本以北の利用につながる可能性もあります。

まもなく三陸鉄道が全線復旧しますが、復旧なって観光入り込みの復活を図るまさにそのエリアであり、ある意味時流に乗った積極策も考えられます。
使われない鉄道の廃止を惜しむよりも、使われる公共交通をベースに街を盛り立てていくことが、「まちづくり」ではないでしょうか。




交通論の部屋に戻る


Straphangers' Eyeに戻る


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください