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鹿島鉄道の最期


エル・アルコン  2007年3月1日

ひとり野を越え(八木蒔−浜)



※この作品は「交通総合フォーラム」とのシェアコンテンツです。

特記なき写真は2007年1月撮影

2007年4月1日 補筆
補筆の写真は2007年3月撮影


●いま消えようとする鹿島鉄道
常磐線石岡から分岐して、鉾田へ向かうローカル私鉄、鹿島鉄道。
1924年に区間開業した鹿島参宮鉄道であり、1965年から1979年までの間は関東鉄道の一員として、関東鉄道常総線、龍ヶ崎線、今はなき筑波鉄道と合わせて、日本最大の非電化私鉄として君臨した時期もありました。

関東鉄道の経営合理化に伴い、不採算路線であった同線は再分離されて鹿島鉄道になりましたが、1987年に早々に廃止された筑波鉄道と違い、意外なまでに生き延びていました。
しかし、収益の柱であった航空自衛隊百里基地への燃料輸送が2001年に廃止され、さらに親会社の関東鉄道が、2005年、つくばエクスプレスの開業に伴い、ドル箱だったつくば、常総地区への高速バスが一気に衰退したことから、鹿島鉄道への内部補填が困難になったことから、2006年に廃止を打ち出し、2007年3月限りでの廃止が決まっています。

キハ431(石岡)


●鹿島鉄道に乗ってみる
今から20年ほど前に鉾田から石岡まで乗って以来、乗る機会がなかった路線ですが、この年始に乗ってみました。

時間の関係で石岡口のみですが、常陸小川から石岡に出て、行きつ戻りつで桃浦に出て、常陸小川に戻る行程。
非電化私鉄というと、国鉄転換の第三セクターが主で、そうでなくとも最近のレールバスや軽快気動車が主流ですが、ここは軽快気動車もあるものの、戦前製や戦後しばらくといった古豪が現役で走っており、それも人気に火をつけています。
ただ、どちらかというと見て楽しむ存在なのか、沿線の「撮影ポイント」には多数の「撮り鉄」がいましたが、廃止まで3ヶ月を切った正月休みと言うのに、肝心な列車の利用は少なめというのが厳しい現実をさらに厳しくしています。

常陸小川駅

常陸小川駅はP&Rが出来るという触れ込みですが、駅舎に向かって左側、昔の貨物上屋の前のスペースに適宜停めるだけ。「ご同輩」っぽいクルマが何台かいましたが、それでも3台程度です。この日は学校や一部企業は正月休みとはいえ平日扱いゆえ、1日乗車券もなく、個札で乗車しましたが、硬券が出て来たのには驚きました。

留置されていたDD901

駐車場の裏手、昔の貨物扱い線には百里基地の燃料輸送など貨物輸送で活躍したディーゼル機関車が留置されています。特段の掲示もなく、展示なのか留置なのか理解に苦しむ格好でした。(その後廃線を待たずに解体された模様)
構内を見た後、イベント対応なのか、車内外に電飾の飾りつけがあったKR-500系軽快気動車で石岡に向かいましたが、鉾田から直通なのに、マニア向けで無い車両ゆえか車内は閑散としています。次の四箇村からR355に並行していきますが、道路のほうも空いていました。もっとも、R355はR6との合流を先頭に激しく混む事で有名で、何度かはまったこともあります。

常陸小川に到着するKR-500

信号所から駅に昇格した玉里で有名なキハ07を改造したキハ601とすれ違いました。キハ07といえば丸い前頭部と無骨な狭窓ですが、切妻化され、アルミサッシを光らせた3ドア車となると、都市近郊の通勤車両のような雰囲気です。

キハ601の原型であるキハ07の現役時代
(国鉄→同和片上キハ702)(柵原・1988年撮影)
同じくキハ07と同設計の車両(2扉改造後)
(夕張鉄道→岩手開発キハ301)(盛・1992年撮影)

そして石岡南台は、住宅開発とともに開設された新駅で、一時期は石岡から1駅のみ運行の列車が多数設定されていましたが、今は玉里折り返しになっています。

玉里で交換するキハ601。有効長に注目

石岡に着くと、構内の機関区が見渡せます。
手前の緑色の金太郎塗りのキハ431を見ていると、おもむろに今着いた車両が入庫して、機関区から別のKR-500系が出てきました。
これは驚きで、1面1線の棒線構造の石岡駅ですが、機関区に取り込むことで車両をまめに入れ替えているようです。

石岡機関区(奥)石岡機関区(手前)

今度の下りは常陸小川止めなので、行きつ戻りつして次の鉾田行きに乗り、桃浦で降りてさっき玉里ですれ違ったキハ601を迎え撃つプラン。石岡行きと大差ない車内の気動車を玉里で捨て、R355を歩き、新高浜の先で常陸小川まで行って戻ってきたKR-500系を撮影、そして四箇村から新高浜まで、鉾田から帰ってきた赤色の金太郎塗りのキハ432に乗車しました。

キハ432(四箇村)

新高浜で降りて前方の玉里を見ると、これは驚いたことにKR-500系ではなくキハ431がいます。
時刻表を見ると、単純に折り返しているように見えて、石岡に着く度に車両を入れ替えていることになります。車両が多いからできる技とはいえ、ここまで来ると趣味的には楽しくとも、その真意を疑いたくなるような取り扱いです。

車内は先程のキハ432ともども座席定員の半分程度ですが、マニア系が多いです。常陸小川を通り越して霞ヶ浦のほとりに出て桃浦へ。駅から霞ヶ浦までは少し距離があります。集落から離れた駅には保線基地の名残りがあり、貨物扱いの名残りもあります。

常陸小川と言い、どちらかというと貨物輸送のために開業当初から存在していたことをうかがわせるような、集落との位置関係と構内の作りです。実際、交換駅の有効の長さは特筆物ですし。

鉾田からやって来たキハ601

折り返しのキハ601はさすがに目玉商品だけあって、結構な乗車ですが空席もあります。驚いたのはキハ431、432が非冷房なのに、キハ601は冷房付き。キハ07改造ですから車体は大きく、3扉ということもあり、輸送力列車用に重宝しているのでしょう。

キハ601車内。冷房改造、ドアはステンレス

そして常陸小川に戻りましたが、2時間程度の行ったり来たりで、乗った5つの列車は石岡での入れ替えもあって全て違う車両というのも、趣味的には楽しいですが、効率という意味、さらには新しい軽快気動車を休ませて旧型車をフル回転させている様子は疑問符がつきます。もっとも、廃止が視野に入り、各車の走行距離を平準化して「その日」まで検査周期を伸ばす意図や、ファンサービスという側面があるかもしれません。

●鹿島鉄道は生き残れないのか
そもそも関東鉄道の分割時、茨城県南の主要都市土浦を基点に、茨城県有数の観光地である筑波山を抱えた筑波鉄道と比べても、単純に沿線状況を見れば経営基盤の弱さが指摘できるところでした。

石岡へ...(新高浜−四箇村)

それが分割後8年で力尽きた筑波鉄道より20年も長生きしただけでも奇跡かもしれません。
ただ、種明かしをすれば、沿線にある航空自衛隊百里基地への燃料輸送という、一私企業の経営事情を超越した大役が影響したことは想像に難くありません。百里基地は関東地方で唯一戦闘機の運用を行っている首都防衛の要で、燃料輸送はまさに基地の生命線ですが、鹿島鉄道にとっても終点に近い榎本まで運行される燃料輸送列車は経営の生命線だったことでしょう。

さらに、筑波鉄道が廃止された1987年に運行を開始した東京駅−つくばセンターの高速バスが大当たりとなり、さらに東京−鹿島線をはじめ、常磐道、東関道方面に展開する高速バスが軒並み大ヒットと言う神風が何度も吹き荒れるような幸運がありました。
関東鉄道本体が、それまでは鹿島鉄道、筑波鉄道といい勝負だったメインの常総線や龍ヶ崎線、さらにおんぼろバスだったバス事業の体質改善を急ピッチで進めるきっかけになりましたし、その収益は当然グループ会社への内部補填の原資になったからです。

関鉄の高速用車両(つくばセンター)つくばエクスプレス(流山おおたかの森)

この二つの「柱」が相次いで「折れた」のです。
収益を下支えしてきた貨物輸送が消え、親会社が苦しい状況では支援もアテにならない、となると、「常総筑波鉄道」と合併する前の「鹿島参宮鉄道」の昔に戻ったようなものです。その状態で沿線を見ると、霞ヶ浦に沿った田園地帯で、終点の鉾田には県都水戸へ直通する鹿島臨海鉄道が通っているという状態での全線存続はさすがに非現実的というのが衆目の一致するところでしょう。

キハ432車内

途中の玉造町はかつてここから水運で鹿島神宮に向かった拠点ですが、現在そのような流動があるよしもなく、潮来行きのバスがあるものの、本数は少ないです。かつ、桃浦あたりからは合併で鹿島線に近い麻生を中心とする行方市になっており、鹿島市などとともに「鹿行(ろっこう)地方」に属しています。
鹿島鉄道を撮影するとなると、霞ヶ浦沿いの枯れた風景が人気ですが、それだけ人口集積が無いと言うことの裏返しです。
そういう意味でエリア的に違い、県都へも遠回りとなる石岡と結ぶ意味が薄いのです。

背後に霞ヶ浦(桃浦)

美野里、玉里と合併して小美玉市になった常陸小川から石岡間の存続を訴える声は多いです。
特に存続運動の主力となった「かしてつ応援団」を抱える小川高校の存在が「せめて小川まで」の声を大きくしているようにも見えます。

四箇村駅

しかし、沿線を見てみると、石岡から玉里までは住宅も目立ち、四箇村までは沿線に集落も見えますが、ここで途切れるのです。
常陸小川は町の中心ですが、駅は実は街外れ。中心街はやや離れていますし、小川高校も次の小川高校前が最寄りとはいえ、見た感じ距離が少しあります。
しかし、皮肉なことに駅に近い国道沿いにスーパーマーケットがあり、「中心街」よりも出入りがあるようにも見えますが、鉄道利用とはリンクしている様子もありません。

石岡駅ホーム

この状態で手堅く残すなら玉里でしょうが、そこまでのミニ路線でやっていけるのか。
本数は比較的多いとはいえ、親会社の関東鉄道龍ヶ崎線と比べてみても、佐貫なら首都圏の通勤圏ですし、龍ヶ崎はそれなりの街ですが、石岡はどうか、そして玉里や常陸小川はどうかという話になります。

P&Rの活用にしても、そもそも石岡駅の東側に大規模な駐車場があり、直接石岡駅に乗り付けて常磐線を利用しているわけです。石岡の拠点性といっても、特に駅周辺は地盤沈下がありありとしており、小美玉市合併時に石岡との合併話が流れてこじれたように、関係が深いとも言いがたい状態のようです。
そして行方市方面からは無料化された霞ヶ浦大橋もあり、土浦に直接向かう流動が多いようです。

石岡南台

駅前住宅街である石岡南台にしても、商業関係は石岡駅ではなく駅の東北、南台から見たら北の旭台に集中しており、逆に石岡駅周辺の衰退が目立つだけに、鹿島鉄道利用に結びつく要素が無いといえます。

ついでに言うならば、上でも挙げた車両運用の不合理、また、ダイヤ編成上は有利ではあるものの、交換施設が比較的多いことは設備面で有効活用をしていないことにあります。その設備を生かすためか需要があるのか、ダイヤパターンが一筋縄でいかないことも、効率とともに利便性という意味でも疑問が残ります。

レトロな縦書きの時刻表(四箇村)


●廃止後を展望する
鹿島鉄道の路線が中途半端であるため、流動の志向から水戸や鹿島方面へのバス路線がフォローしていましたが、そうしたバス路線も関東鉄道の運営であり、分社化の末に削減という流れになっています。

駅前にバスはいるが(常陸小川)

こうしたバス路線自体が無くなっている中でバス転換を危ぶむ声には一定の理解は出来ますが、そもそも鉄道としての存続を無理に続けるよりは、早い時期に広範囲をカバーするバス路線として存続することで「地域の公共交通を守る」ことを重視すべきではなかったのではないでしょうか。

バス路線にまだ力があった時に、バスに経営資源を集中して、スケールメリットを活かした運用を行っていれば、モータリゼーションが進んでいても、それなりの本数を確保していれば、不便だから削減という負のスパイラルに落ち込むタイミングを相当遅らすことは可能だったでしょう。
逆に現状は、バスが漸減して磨り減った状態で代替バスを投入と言う、兵力の逐次投入と言うあまり感心できない状態といえるわけです。
代替後の行く末すら懸念されるのであれば廃止しないほうがマシと思いたくなりますが、ランニングコストを考えるとバスのほうが「まだマシな赤字」と言う消極的選択をせざるを得ませんし、鉄道は残ったがバスは消え去ったという状態にまで至った場合、沿線、特に鉄道が利用できない駅間の住民にとって本当に良いのかという疑義があります。

新高浜付近のR355

そのバス転換においてはR355などの渋滞が懸念されていますが、南台から石岡市役所を経由して石岡駅東口に出るルートであれば、R355やR6を通りません。R355やR6との交差点改良を併用しても渋滞が不可避なのか、気になるところです。

また、バスになることで旭台周辺の商業施設を経由するというようなルートも考えていいわけですし、石岡駅を通り、常磐道石岡BSまでアクセスするというルートも考えられます。
こうした鉄道では出来なかった「小技」を活かして、少しでも息長く公共交通を守っていくという方向性を早く打ち出さないと、結局は鉄道に固執しただけで、公共交通そのものの維持まで考えていなかった、と将来禍根を残すかもしれません。

●付記・「かしてつ応援団」に思う
国土交通省からも「ベストプラクティス賞」を受賞した「かしてつ応援団」にも同じことが言えるわけです。
「かしてつ応援団」は地域における高校生の活動としては出色のものですが、鹿島鉄道の維持のために訴え続けたものは、鹿島鉄道廃止で終わる一過性のものではないはずです。
鹿島鉄道の存続運動から昇華して、地域の公共交通維持をテーマにすることで、運動の永続性となるのです。

かしてつ応援団のペインティング(常陸小川)

沿線を駆け足で回って思ったのは、駅や車内の飾りつけなどはいかにも高校生の作品と言う感じで微笑ましくもあり、また良く出来ていますが、そこをワンマン列車が行き交うだけというところに何か寂しさ、いや、冷たさすら感じるのです。
同じことが行きかう列車にも言えるわけで、旧型車両は存在だけでも目を引き、また新型車両にはあれこれ装飾がなされていますが、突き詰めて言えば列車が淡々と走っているだけの等閑な感じが拭えないのです。

活気の無い車内(KR-500)

これがもし駅や列車でボランティアとして案内をする、というような、活動している人が見える取り組みを中心にしていたらどうでしょうか。今回の訪問は正月休みですから学校も休みのはずですが、各駅には人影もない状況です。廃止が決まって力が抜けたのかもしれませんが、エアポケットのような各駅の状況にはやるせなさすら感じました。

新高浜駅

もちろん駅の清掃などの活動もしているようですが、廃止の危機にある地方ローカル線の取り組みというのは、どちらかというと無人駅で地元の、近所の人が一肌脱いでサポートする、というような目に見える活動が多いだけに、鹿島鉄道の様子は気になりました。

もちろん「かしてつ祭り」のようなイベントで鹿島鉄道に目を向けさせるような取り組みも必要ですが、多くの赤字ローカル線における「地元の取り組み」は、人の顔が見える、地道かつ永続的なものが多いです。例えば鉄道が使いづらくても、駅を地域の拠点にして、地域の人が集う、というようなケースがあちこちで見られる話です。

小奇麗だが人気の無い桃浦駅

「かしてつ応援団」は、相当な成果を確かに残しました。
しかし、今後第二、第三の「応援団」を立ち上げる沿線には、ここから学ぶべきことが多いことともに、反省点とすべきところも多いこともまた大きいことを知るべきでしょう。


【2007年4月1日 補筆】
2007年3月31日、鹿島鉄道は最期の日を迎えました。

この10日あまり前に最後の訪問をしてみましたが、前回とはうってかわって大勢の人出で、鉾田行きの列車は2連になっているなど、時ならぬ混雑を見せていました。

キハ714と600の「豪華」古豪2連(玉里)

今度は前回見れなかった石岡口と、鉾田までの通し乗車。石岡から石岡南台まで歩きましたが、石岡駅近辺の駐車場は市営で、土曜日とはいえそこそこ埋まっていました。石岡までの道すがらで見た上りの「フレッシュひたち」は立客が目立つ盛況だけに、速達効果が高い常磐線指向が高い反面、常磐線の駅でP&Rという使い分けが主流で、本数や速達性に劣る鹿島鉄道をワンクッション挟む余地がなかったということでしょう。

上左に広がる市営駐車場

家並が途切れぬうちに、フローラルシティのサブタイトルを持つ南台に入ると、戸建中心のニュータウンが広がります。メインストリートをまたぐ鹿島鉄道の姿は、架線がないことを除けば廃止間際のローカル線には見えません。もっとも、そこにキハ600の単行が走り去るシーンには、えもいえぬミスマッチを感じました。

南台の住宅街を背景に進むキハ600

混み合う列車に乗り、鉾田へ。各駅の構内には立ち入り禁止のロープが張られていますが、それでも鈴なりの人。沿線の好撮影地も黒山の人です。中には何か勘違いしているのか、ドサクサなのか、モデルめいた女性を絡めた撮影をしている人もおり、もう何でもありの様相です。

榎本の百里基地輸送関係の遺構

玉造町を経て、百里基地の燃料輸送の遺構が残る榎本を過ぎ、鉾田へ。2面1線、乗降分離ホームと言う不思議な構造ですが、これがこの最期に活きたというわけではないですが、乗降客の輻輳回避に役立っていました。

乗降分離を徹底していた鉾田駅

野菜を配る地元の農家、切符やグッズを求める長蛇の列で混み合う構内を出た駅前は関鉄バスのターミナルも兼ねていますが、バス乗り場でひとり気を吐いていたのは麻生経由東京駅行きの乗り場。ローカルバスにも広告が掲出されているこの路線、1日6往復、2時間40分で2000円と、これでは鹿島鉄道ルートなど眼中にないということでしょうか。

東京行き高速バスの宣伝

タクシーで新鉾田に抜けましたが、狭く古い街並みの旧市街に対し、鹿島臨海鉄道の新鉾田駅は丘陵の反対側。ただ地形的事情なのか、大洗鹿島線開通から20年以上経つのに旧市街と一体化できていません。
というか、旧市街を迂回する環状道路めいたバイパスを整備することで旧市街が温存されていますが、それが逆効果だったのか、バイパス沿いに大型店舗が出店しており、商業はそちらがメインのようです。
このあたりはバイパスを作らないのなら旧市街を相当改良する必要があるわけで、一概に失敗と片付けにくいものです。

鉾田駅頭

さて、南台で代替バスの時刻とルートが掲出されていたのを見ました。
基本的にR355を行くルートですが、南台から東田中にかけては線路の南側を行く迂回ルートで、一部国道を行く短絡便や、国道〜南台の循環線が設定されました。

山王台交差点(小川方面からR6との交差点方向)

ここで気になったのは、R355きっての難所である山王台交差点を経由すること。しかも小川方面からは山王台交差点は直進すればすぐ石岡駅東口なのに、いったんR6に左折合流して、常磐線をまたいだ後に右折して石岡駅西口(表側)に入るルートどりです。

石岡駅東口

代替バスですから、南台を出たら石岡までどこを通ってもかまわないはずです。R355に入らず直進して、市役所の先で左折して東口に入れば幹線流動と無縁かつ走りやすい計画道路で、定時性の確保にも問題はないはずです。それがわざわざ市内きっての渋滞ポイントに進入し、その前後で右左折を繰り返すというのは、やる気そのものを疑います。

南台から来てR355との交差点
直進すれば市役所を経て石岡駅東口だが

ここに限らず、代替バスの運賃設定やダイヤなど、本来もっと利便性を高める方向で設定できるものを、いかなる理由なのか鉄道時代より落ちる方向にするケースが目立つわけで、こうしたことが「バス化は頼りにならない」という、本来感情論に属するような主張を裏付けてしまっています。
今回の代替バスがその轍を踏むのか、気がかりな部分でもあります。











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