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橋は眺めるものなのか
日本橋の景観と首都高移転問題


日本橋から見た首都高都心環状線




「お江戸日本橋七つ発ち...」とコチャエ節に歌われた日本橋は言うまでもなく日本の道路元標がある我が国の道路の「起点」です。
この歴史的なポイントの景観が空を覆う首都高速に奪われて久しいですが、地元が景観の保全、さらには首都高の移設も含めた主張や取り組みをしてきた中、2005年の年末に小泉首相が首都高移設を柱とした検討会設置を指示しました。

重厚な歴史的建造物である日本橋の景観を首都高が台無しにしていることは誰もが認めることですが、景観を理由にして首都高を移設することが果たして是なのか。
おりしもお隣りの韓国では首都ソウルで、かつては都心を流れていて、埋め立てられて高速道路になっていた清渓川の復元事業に取り組んでおり、こちらは高速道路を撤去して再生していることから、「日本橋再生」とセットで語られることも多いようです。

●日本橋とは
この「日本橋」という橋は、徳川家康が江戸幕府を開くのと前後して1603年に初めて架けられ、現在の鉄製の橋になったのが1911年ですから今年で95年になります。
日本の道路網は、江戸幕府が参勤交替の制を定め、諸大名を領国と江戸との間で行き来させた官道、見方を変えれば外様大名などに叛意があった際には幕府により動員された軍勢が使う軍道が今の道路網の直接の原点と言えます。その根幹となったのが「五街道」で、東海道、中仙道、日光街道、奥州街道、甲州街道という基本となる五つの街道は総てこの日本橋を起点にして駅逓の制度が定められていました。
これら五つの街道は近代になり国道として指定され、今も国道1号、17号(高崎から18号、142号など)、4号(日光街道は宇都宮から119号)、20号として主要な国道として存在しているように、政治、経済、軍事など交通のあらゆる面での基本となっています。

この日本橋が架かった日本橋川は、かつての神田川の本流ですが、家康の江戸入府に際して、江戸城北側の防衛線として飯田橋付近から駿河台を切り通して浅草橋で隅田川に合流するように付け替えられました。この日本橋川に内堀、外堀をはじめとする水路や溜池に代表される沼沢地、さらに築地川など様々な小河川が江戸城の防衛線になると同時に、生活・産業用の水路として機能していました。

余談ですが、冒頭の「コチャエ節」は、実は明治初年の作となっています。そもそも大名が京都に上ることは「参勤交替」の制度下ではない話ですし、大名行列が高輪大木戸を通り東海道に出る設定で、日本橋を通ることは、江戸屋敷が室町や小伝馬町方面にあったという設定になってしまいます。日本橋地区の大名屋敷は浜町や蠣殻町方面に集中しており、史実を敷衍したというより、江戸市中を出た、というイメージを、大名行列が見られなくなった明治初年に歌ったものでしょう。

道路中央にある道路元標


●首都高の登場
混雑を極める都心部の交通をバイパスする目的で、日本初の本格的都市高速道路として首都高速の計画が発足したのが1957年。2年後には首都高速道路公団が設立され、都心環状線と放射路線からなる首都高の建設がスタートしたのです。
公団設立の5年後、東京オリンピックの開催が迫り、首都高は羽田空港と都心、そして会場であった外苑や駒沢を結ぶ幹線道路として突貫工事で建設されました。そのため、既に戦災の跡にビルや低層住宅がひしめいていた都心部においては、直上に築く用地がある幹線道路が無い場合、かつての河川を埋め立てたり、河川を覆うように高架橋を立てて完成させたのです。

日本橋では羽田方面から銀座を通り、江戸橋から外苑、駒沢へのルートが通ることになりました。
汐留から銀座裏を通る河川を埋め立て江戸橋に至り、日本橋川の上空を覆い竹橋に至り、内堀をかすめて三宅坂、谷町へはトンネルと言うルートは、用地買収を極小化した反面、細かいカーブやアップダウンが多いルートを宿命付けました。

この時、日本橋川の用地を使って東西に首都高が伸びたことで、日本橋川を渡る「日本橋」は必然的に首都高の下になりました。この時1963年。以後43年にわたり、「日本橋」は首都高の高架の床板を見上げることになりました。

日本橋川と首都高


●なぜ日本橋か
首都高建設で日の光を奪われた、それどころか埋め立てられた河川はそれこそ初期の開業区間のほとんどといえます。日本橋川からつながる神田川も、竹橋からさらに首都高5号線が飯田橋、大曲を経て江戸川橋の早稲田ランプまで続いていますし、意外と知られてませんが、7号小松川線も両国JCTから江東区と江戸川区の境まで竪川の上や埋め立て跡を通っています。
結局、「日本橋」は日本の道路原標があり、知名度が抜群と言うこともあり、シンボル的な存在だったことや、江戸期からの老舗の旦那衆と言う発言力、影響力がある住民がバックにいると言うことが、「日本橋」を別格として扱うようになったのだと推測します。

もともと「日本橋」の問題は長年地元の懸案としてあったわけですが、そこに首相の「景観を損ねている」という「鶴の一声」があったと言うのが真相でしょう。

●現在のスケジュールと問題点
この指示を受けて、国土交通省は今夏までに地下化や迂回などの事業案をまとめ、2007年度予算に調査費を計上することにしています。具体案については有識者や東京都、中央区などで構成する「日本橋 みちと景観を考える懇談会」で検討することとしていますが、いかにスピード重視の小泉首相とはいえここまで急速に決まったのは、東京都が招致を表明している2016年オリンピックまでの完成を目指すと言う事情も見え隠れするわけで、1964年のオリンピックで作った道路を2016年のオリンピックで取り壊すと言う、なんだかんだと言っても根は同じということが言えます。

さて、1964年の時には飽和状態だった交通の改善と言う大義名分がありましたし、現在もそれが完了したと言う話は聞きません。その状態で現在の首都高都心環状線を取り壊すとしたら、それは異説意外の選択肢は有り得ません。ソウルの清渓川復元事業では、通過流動の利用も多かった高速道路(清渓高架道路)を撤去して代替は行わないと言う大胆な施策が注目を集めましたし、今回の事業でもそう言う声が上がってくるのは間違い無いでしょう。
こうした交通網確保の問題がまず考えられます。

また、この事業は当然タダではありません。数千億円にのぼると見られる事業費は道路特定財源で賄うと見られますが、道路特定財源が一般財源化されたとしても、環境・景観対策、それも首都東京におけるシンボリックな事業ということを大義名分として、国交省関連の予算確保の目論見があると言う見方もありますが、こうした財源負担や配分の問題もあります。

●首都高都心環状線移設の問題
日本橋川の上を覆う首都高に対し、地下にはごく浅い地下鉄銀座線に加え、深い総武快速線などの地下構造物があります。こうした構造物を交わすために、目下、大深度地下と、銀座線と総武快速線の間を通す浅い地下、さらに日本橋川の1本北側に並ぶビル街を改築して高速道路と一体整備するというプランが俎上に上がっています。

現在、このエリアは首都高でも慢性的な渋滞に悩まされている区間ですが、その主因として交通集中のほか、河川に従った細かいカーブや、JR線とのオーバークロス、八重洲線との神田橋JCT、江戸橋JCTの構造物に起因するアップダウンが挙げられます。
改築するのであれば、こうした都心環状線の「ガン」を一掃したり、車線増設による道路容量のアップというような抜本的対策のチャンスでもありますが、地下化となると、前後の高架線区間とのアップダウンがさらに激しくなるばかりか、トンネルという心理的圧迫感が招く減速による渋滞発生(湾岸線東京港トンネル)に、江戸橋まで地下化するとしたらトンネル内ジャンクションと言う非常に危険性の高い区間(三宅坂JCTを想像されたい)が生じることで、現実の事故発生が懸念されます。

地下化と引き換えに片側3車線というような円満解決策が取れればいいのですが、日本橋川の下だけでそのようなスペースは取れず、公道下との併用など、占有空間の拡大は不可避です。
また、高速道路を取りこんだビルと言うのも妙案ではありますが、おそらく上下線分離の二重高架を取り込んだ構造となるわけで、これも難工事が予想されますし、ビル権利者が総て承諾するかは甚だ疑問です。

あとは、元々計画があり、一部準備工事もある内環状線(仮称)を活用するか、江戸通りや1号上野線などを活用した別ルートを作るかですが、江戸通りには総武快速線の地下構造物があるため、それを受けて高架橋の基礎工事と言うのは相当困難ですし、1号上野線の活用となると江戸橋JCTの構造がさらに複雑になり、青空を取り戻した日本橋のわずかに東側ではさらに複雑な高架構造物と言うのはいかがなものでしょうか。さらに、内環状線の活用にしても、神田川の上空利用が前提ですから、これも日本橋の青空と引き換えに神田川の環境悪化という問題が出てきます。

●「日本橋」に割ける予算はあるのか
数千億円の予算と言われるこの事業、基本的には環境、景観「だけ」の話であり、それだけの巨費を支出する価値があるのでしょうか。言わんや、道路特定財源(の流れを汲む自動車関係諸税)として徴収して道路交通に何も資さない事業に投じる価値があるのでしょうか。一般財源と特定財源のそれぞれの納税者としてこの事業には全く賛成出来ません。

地元の見た目以外に経済効果が無いうえに、首都高の事情が悪化しかねないと言う非常に費用対効果が怪しい事業に貴重な血税を投じる余裕があるのであれば、同じ大都市圏の道路整備として巨額の資金が見込まれる外環や圏央道、さらに予算不足で暫定区間開業とその先の開業見こみが立ってない中央環状線の整備など、本当にその資金を必要としている事業がたくさんあるのです。

こうした中で、「日本橋」事業を強行したとしたら、後世の評価を待つまでも無く、財政破綻のモニュメントとして永遠に残ると言えましょう。

●ソウルの事業に学ぶ点はあるのか
こうした問題点を一気に超越する格好で、首都高都心環状線のこの区間を無くしてしまうと言う発想もあります。まさに経済効果その他利便性は、環境や景観の前には二の次と言う強固な意思が無いと出来ない話ですが、実際にそれは可能でしょうか。

都心部の首都高が担う役割として、都心を目的地とした交通、さらに都心を通過する交通への対応が挙げられますが、都心環状線の機能を殺いだ状態でこれらへの対応が満たされるかどうか。
中央環状線、外環、圏央道のいわゆる「三環状」の整備により、都心環状線を通過するクルマを減らすと言う効果が謳われていますが、都心環状線が機能を事実上停止した状態で、総ての通過流動を「三環状」で賄うことが出来るのか。これを考えた時、都心環状線の存在をある程度前提にしている計画の破綻は容易に想像出来ます。

これは例えば、東京の下町が起点で東名や中央道、山の手が起点で京葉道や常磐道方面に向かうような流動の受け皿が無くなりますが、都心の一般道に流入するか、いったん中環に出て回ることになるため、一般道の交通量に影響したり、中環の交通量を必要以上に増加させてしまうということです。

確かに「日本橋」の環境や景観は良くなるでしょうが、事業内容次第では隣の江戸橋や常磐橋の環境が悪化したり、都内や首都圏の別の箇所の環境を悪化させる危険性が高いわけです。

●「日本橋」の存在意義
ここまでして「守りたい」という「日本橋」ですが、そもそも「日本橋」とは何でしょう。
江戸開府に際して、五街道の要として架橋され、のちに日本の主要国道の起点として、近世、近現代の道路交通、産業輸送の要として機能してきたわけです。
広重の錦絵でお馴染みの太鼓橋も、今の鉄橋も、道路交通を支えるために存在するのであり、眺めるために架かっているのではありません。

その道路交通の主力が高速化した時、「日本の中心」を走る都心環状線が奇しくも「日本橋」の上空を通ることについて、「日本橋」の主役が交替したという視点はあっても、「邪魔者」という視点で見ることが正しいかどうか。ましてやそういう視点で、首都高速の機能を殺ぎかねない事業を具体化させることが正しいのかどうか。眺めて楽しめて、街の見栄えが良くなる受益者である旦那衆が自腹を切って事業を進めるのなら文句は言いませんが、受益ではなく「被害」を受ける側の出費なのです。
江戸時代、大店の旦那衆は富を誇るとともに、その使いっぷりもまた見事でしたが、今回の「事業」はどうでしょうか。税金と言う他人の懐を当てにした道楽など野暮の極みです。

また、「日本橋」だけが復元すべき対象なのか。先述の神田川や竪川、また都心環状線の南側が覆う古川はどうなのか。「日本橋」にしても、首都高は悪くて、江戸開府前には無かった「日本橋」という人工物はなぜ良いのか。数少ない予算を極限られた区間に投入するのであれば、「日本橋」ではなければならない絶対的な理由が必要です。 

●本当に必要な事業は
清水章一氏の「首都高はなぜ渋滞するのか」に興味深い記述があります。

都心環状線の渋滞ポイントの一つに、神田橋JCTと竹橋JCTの間の輻輳とそれに伴う環状線と5号線の渋滞がありますが、この区間の用地は日本橋川と両岸道路の上空であり、現行の4車線を6車線に拡幅する事業計画があり、かなりの混雑緩和が見込まれるとしています。
しかし、わずか600mあまりの区間で誰憚ることなく可能なはずの改善が一向に進まないことを問いただしたところ、日本橋川の景観保護を理由とした反対に考慮して進めていないと言う当時の公団側の回答があったそうです。

現在、いや、もう何年もの間、簡単に対策して、あるいは6号線江戸橋上りの信号待ち渋滞のように昔語りになっていたかもしれない渋滞が、「景観」優先で等閑にされて恐ろしい規模の社会的損失を生んできたのです。
さらに今回の「日本橋」の事業は、改善があれば、という逸失利益ではなく、いま享受している利便性と言う利益の直接的な喪失につながるのです。

もちろん開通以来40年を過ぎた首都高の設備更新の時期が来ていることは確かであり、ソウルの清渓高架道路が撤去されたのもその老朽化対策と言う面があったわけです。しかし、それが理由であるのなら、「日本橋」の景観というオブラートに包むことなく、真っ向から世に問うべきテーマであり、首都高全体の問題として事業化していく必要がある話です。
そもそも本来、これだけの巨費があるのであれば、老朽化対策でなくとも、都心環状線の「円滑化」に資する形での改築こそ王道であり、その対象は日本橋地区に留まらず、上述の神田橋や竹橋、さらには南側の浜崎橋など、喫緊の箇所を選んで施工すべきではないでしょうか。

改善が終わって、余裕が出来てから、記念碑的事業と言うものはするべきであり、いまがその時期であるとは百歩譲っても言えないのです。

道路元標(日本橋北詰にあるレプリカ)




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