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「伝家の宝刀」を錆びさせるのは誰か
危険運転致死傷罪の「立法趣旨」を忘れた判決を憂う
2009年5月17日 補筆
●危険運転致死罪適用が回避された
2006年8月に福岡市で起きた飲酒運転による幼児3人死亡事故は、危険運転致死罪などの罪で懲役25年を求刑した検察に対し、2007年12月、福岡地裁が結審後に業務上過失致死を訴因に追加するように命令し、2008年1月、業務上過失致死で懲役7年6ヶ月の判決が言い渡されました。
福岡地検は1月22日、福岡高裁に業務上過失の適用を事実誤認として控訴しましたが、訴因追加命令以降、危険運転致死傷罪の適用に関して、世間一般の認識と法曹界の認識に大きなずれがあることが浮き彫りになっています。
なぜこれが危険運転でないのか、という批判に対し、専ら法曹界からは、法律上での危険運転と一般的な危険運転が違うことを指摘しており、ゆえに立法段階での不備を指摘するケースが多いように見受けられます。
●立法を促した意識との差はなぜ
しかしこの法律はなぜ立法されたのか、ということを考えた時、1999年の東名高速での飲酒運転の大型トラックによる追突死亡事故や、2000年に神奈川県で起きた無免許、飲酒運転のクルマによる歩道乗り上げ死亡事故といった悪質な運転による交通死亡事故に対し、業務上過失致死傷罪の法定刑が軽すぎると言う世論が立法を促したことは明白な事実です。
でありながら飲酒運転による追突事故で本法の適用が見送られると言うのはなぜか。立法を促した世論は明らかに今回の事故のような「悪質な」事故における適用を想定していたことは火を見るより明らかです。
にもかかわらず司法府がそれを認めない判決を下すと言うことは、法曹界が言うようにそもそもの法律に何かしらの不備があったのか。
法律を運用するのは裁判所、検察庁、警察などの司法機関ですが、その道具、規範となる法律を定めるのは立法府です。国、地方とも主権者である国民が直接選出する立法府が法律を作ると言うことは、国民主権の根幹でもあり、法律は国民の意思の体現でもあるわけです。それが国民の意識と齟齬をきたしたのはなぜでしょうか。
●立法趣旨はどうだったのか
立法府はなぜこの法律を制定したのか。仏作って魂入れずのような法律を意図したのか。
2001年11月の改正案可決に先立ち、国会(第153回国会)の衆議院法務委員会におけるこの刑法改正案に対する質疑を見ると興味深い事実が浮かび上がります。
参考人である明治大学の川端博教授の説明を見てみましょう。
「これは、危険行為ということで新たな犯罪類型を立法化しようという形で御審議されていることと理解いたしております。 (中略) 理論上はこれは立法権の行使の問題でございまして、こういった観点で、やはり重大な危険行為というのをここで犯罪性をお認めになって、そしてそれに対してより重い刑を科していくのだということで、国民意識をもとに先生方がこの点についてその必要性をお認めになれば、この点で新たな犯罪類型としてここで刑法典に規定される、こういう趣旨でございます。そのように理解しております。」 |
ここから読み取れることは、危険運転致死傷罪というものの本質的性格です。
危険行為という新たな犯罪類型の立法化であり、それを犯罪として認めていこうという立法府の意思の具現化です。それを踏まえると足元の議論は既存の法体系や法理論にあまりにも拘泥した感があります。
●制度趣旨の核心
そして今回の「齟齬」に対する回答とも言える部分です。
本国会で先生方が御審議していただいて、そしてそれに基づいてこの法律案が成立いたしますと、立法化されますと、これはやはり重要な犯罪類型であるということで、我々も国民一般としてこれに対する心構えが全然違ってくると存じます。そういった中で、こういったのを見逃していいのかという声が強くなってまいりますから、当然それについては十分な捜査がなされ、そしてそれに基づいて適正な起訴がなされ、そして裁判官もその条文に則した、その制度趣旨に即した適用、運用をするであろう、このように考えております |
これは評価的要素を含んでおります。この評価的要素を含むといいますのは、これは理論上は規範的な構成要件要素と申しております。この規範的なと申しますのは、裁判官が判断しないと中身がわからない、そういう意味で規範的なという言葉を使って説明をしております。したがいまして、今回の評価的部分、これはかなり規範的な要素が入っているということは正直に私も認めております。 これは、できるだけあらゆる行為態様を含み、そして適切な処理をするという意味では、言葉が抽象化せざるを得ないという面がございます。それで、漏れがありますと、せっかくこの機会に立法いたしましたのに重要なのが漏れてしまう、こういう事態を避ける必要がございますので、そういった意味で評価的要素というのが入ってくるのが現在の刑事立法の一般的な傾向でございます。 そういった意味からしますと、この評価的要素というのは、実際上は最終的な判断を示すのは裁判官でございますので、そこで現実の裁判になって、そして具体的な状況を前提にして、法の適用、解釈がなされていくわけでございます。その積み重ねによって、より明確に、国民一般にもわかるような形でその実績が積み重なっていく、こういうことになります。そうしますと、それをもとに捜査機関も、そういう状況になればこういう判断を受けるのだということになりますから、当然それに即した形で厳密な捜査がなされる、こういうことでより明確な基準が設定されていく、こういうことになります。 |
規定が曖昧、という批判もこうして見るとどうでしょうか。あらゆる行為が列挙されることを要求した場合、形式上そこから外れたものは処罰できない。麻薬等の取締りがまさにそうであり、合成薬物は組成をちょっと変えただけで摘発できなくなるのです。
できるだけあらゆる行為態様を含み、そして適切な処理をするという意味では、言葉が抽象化せざるを得ないという面がございます。それで、漏れがありますと、せっかくこの機会に立法いたしましたのに重要なのが漏れてしまう、こういう事態を避ける必要がございますので、そういった意味で評価的要素というのが入ってくる。 |
罪刑法定主義、類推適用の排除という刑法の大原則はありますが、裁判官が評価する部分を完全に排除すると「適切な処理」が出来なくなる危険性があるわけです。
そういう意味で、この法律もいかに適切に処理するかということに関しては、裁判官の運用次第、つまり、立法府は司法府に対して適切な処理を期待しているため、司法府が適切に処理して初めて立法趣旨を満足する法律になるのです。
●立法府による信託
では立法府が期待する司法府の対応というのは何か。
こういったのを見逃していいのかという声が強くなってまいりますから、当然それについては十分な捜査がなされ、そしてそれに基づいて適正な起訴がなされ、そして裁判官もその条文に則した、その制度趣旨に即した適用、運用をするであろう。 |
司法警察官、検察の対応はもちろん、裁判所もまた制度趣旨を踏まえた適用、運用を期待されています。
そして新しい法律においてそういう信託を受けるということは何を意味するのか。
現実の裁判になって、そして具体的な状況を前提にして、法の適用、解釈がなされていくわけでございます。その積み重ねによって、より明確に、国民一般にもわかるような形でその実績が積み重なっていく。 |
適用、運用を積み重ねる一種の判例法として機能させることでしょう。
しかし同時に司法府はあくまで制度趣旨を踏まえると言う大原則に縛られるわけです。
そういう意味では個別の裁判の持つ意味が重大なことは分かるかと思います。
そこでの解釈が、敢えて空けられた法律の隙間を埋めることを想定しているわけですが、もし立法趣旨と解釈の間に齟齬があった場合、立法府が期待した効果を得られない法律に堕するわけです。
●道交法と刑法の間
もちろん、裁判官の主観で総てが決まるわけではありません。
それから、もう一点つけ加えさせていただきますが、この評価的要素という場面ですが、例えば、著しいとかそういうことが出てまいります。それは通常の場合と比較して著しいというようなことになりますので、この部分はあくまでも客観的な事実でございます。通常の場合と比較して本件においてどうであったかというのを事実認定した上で、ではそれが著しいに当てはまるかどうかというのを判断する、こういう構成になりますので、その部分は、客観的な証拠、そういったものに基づいて認定がなされていく、こういうことでございます。 |
その認定においては、
道交法のそれぞれの行為をそのまま取り入れたのではなくて、その中でもさらに悪質なものという形で、刑法典の中に入れるに当たって基本行為を絞り込んでおります。 |
という説明はありますが、道交法の体系に直接リンクしていないわけで、必ずしも道交法の基準をさらに厳格に適用する必要はないわけで、立法趣旨を踏まえた適用をするうえで、こうした「著しい」の判断を行うことは可能です。
こうした部分において、政府委員の法務省の古田佑紀刑事局長は、
酒酔い運転とか信号無視でありますとか、そういういわゆる道路交通法違反の中で特に重い類型を絞り込んで、そういうのを前提行為として刑法の中に取り込んだというふうなことになるわけで、 (中略) 刑法上は道路交通法の各罪をそのまま持ってきているわけではございません。しかし、そこに掲げられている行為は、道路交通法に当てはめてみますと、先ほど申し上げたようなものの中の非常に重い類型ということになるということで御理解をいただきたいと思います。 |
と説明しており、道交法の規定を直接適用していないのだから、道交法においても重い類型に分類されるといっても、一切の矛盾も認めないということではないと解することで、立法趣旨に即した適用をすることを排除できるでしょうか。
飲酒運転に対する危険行為の認定が抽象的であるというのも、本来は上記の通り評価的要素に委ねることで、立法趣旨を歪める事態を排除する目的であり、そこをどう規範していくのかは司法府の責任と言えます。
そこにおいて、酒気帯びはOKというような単純な基準に拘泥されるのは、立法趣旨を考えない理論であり、立法府からの信託を無にするものです。
なお、唯一例示されている事象としては、
例えば目がかすんでちらちら前方がよく見えなくなっているとか、そういうような困難な状態に当たる事実の認識があれば、故意としては十分であろうと考えております。 |
とあるわけですが、本件ではこれに該当すると思しき原因行為をもって業務上過失致死の成立を認定するなど、評価そのものを疑わざるを得ない面があります。
●重い結果に対する重い罪
なお、今回の事故はたまたま橋の上だったので水没して死に至ったが、平地ならということを考えたら、事故の形態に対する罪が重いのでは、という意見もあります。
しかし、前述の川端教授の説明では、
客観的な観点からしますと結果発生の蓋然性は高いということで、それを踏まえた上で運転をしている、その点がまさに危険行為なんだということで、それをベースにして発生した結果についてはこれを重く処罰するのだ、こういう法律の性格になろうかと存じます。 |
とあるように、結果について重く罰すると言う趣旨を考えたら、3人死亡という重大な結果に至った段階で、その結果に対する刑の加重を受けることは法律の想定内です。
●判決を読む
そういう視点で、
判決要旨
を見てみましょう。
■【総論】
危険運転致死傷罪が成立するためには、単にアルコールを摂取して自動車を運転し人を死傷させただけでは十分でない。同罪に当たる「正常な運転が困難な状態」とは、正常な運転ができない可能性がある状態でも足りず、現実に道路や交通の状況などに応じた運転操作が困難な心身の状態にあることを必要とする。 |
→要件をここまで厳格化する必要性はあるのか。「可能性」という「予想」を排除するのなら、単純に正常な運転をしていなかった、という「事実(の推定)」で足りるわけで、殊更に条件を列挙する必要に乏しい。
■【事故状況】
(原文では実名)被告は事故直前に前方を走行していた(原文では実名)運転者の多目的レジャー車(RV)に気付き、急ブレーキをかけて衝突を回避しようとしたが、RVの右後部に衝突した。被告は「海の中道大橋」の直線道路に入った辺りから、右側の景色を眺める感じで脇見を始め、前を振り向くと突然目の前にRVが現れたと供述し、十分信用できる。 RVを直前まで発見できなかったのは、脇見が原因と認められる。被告はこの道を通勤経路として利用し通り慣れており、終電が終わる前にナンパをしたいと思っていた被告が、午後10時48分という夜間に、車を時速80−100キロに加速させたからといって、それが異常な運転であったとまでは言えない。 |
→飲酒した状態での高速走行は異常な運転ではない。とする根拠が不明。
もっとも、スピード超過に関しては国会でもある程度のスピード超過が実態化している現状もあってか、適用を殊更に限定するように求めていたので、止むを得ないのかもしれない。
■【飲酒状況】
被告は2軒の飲食店で飲酒後、運転を開始した時に、酒に酔った状態にあったことは明らか。しかし、その後の具体的な運転操作や車の走行状況を離れて、運転前の酩酊(めいてい)状態から直ちに「正常な運転が困難な状態」にあったという結論を導くことはできない。 被告は事故直後、ハザードランプをつけて降車したり、携帯電話で友人に身代わりを頼むなど、相応の判断能力を失っていなかったことをうかがわせる言動にも出ている。飲酒検知時も千鳥足になったり足がもつれたりしたことはなく、現場で警察官は、呼気1リットル当たり0.25ミリグラムという検知結果や言動などを総合し、酒酔いではなく酒気帯びの状態だったと判断した。高度に酩酊した状態にあったとする検察官の主張には賛同できない。 同じ量のアルコールを摂取しても、得られる血中アルコール濃度には個人差が相当大きいので、鑑定などを根拠に事故当時の被告の血中濃度が1ミリリットル当たり0.9−1.0ミリグラムだったと認定するのは合理的な疑いが残る。また血中濃度がその程度になれば、前頭葉などが抑制され前方注視及び運転操作が困難になるとした鑑定意見も、症状に個人差があると説明しており、正常な運転ができない可能性があることを指摘したにとどまる。直ちに前方注視及び運転操作が極めて困難な状態にあったとまで認めることができない。 |
→血中濃度ではなく呼気で、大量に水を飲んだことによる影響は本当にないのか。
また、被害者車両が海中に転落すると言う大事故を引き起こしたにもかかわらず、動転もせず身代わりを頼んだり各種の証拠隠滅行為を図ると言った、「人間の感情を持っていればありえない」行為を平然とすることがすなわち判断能力を著しく欠いていた証左ともいえる。
そもそもこれでは酒に酔った状態でありながら正常な運転が可能という結論になるが、後述するような社会正義の実現、また、道交法の規定などとの整合性はどうなのか。
■【総合判断】
(原文では実名)被告は事故現場まで蛇行運転や居眠り運転などをしておらず、その間に衝突事故も起こしていない。事故当時、状況に応じた運転操作が困難な心身状態にあったかどうかをみると、被告は2軒目の飲食店を出発して事故後に車を停車させるまでの約8分間、湾曲した道路を進行し、交差点の右左折や直進を繰り返した。幅約2.7メートルの車道でも車幅1.79メートルの車を運転していた。 また事故直前には(原文では実名)運転者の車を発見し、ハンドルを右に切って衝突を回避しようとし、反対車線に飛び出した自分の車を元の車線に戻している。これらの事実は、被告が状況に応じた運転操作を行っていたことを示し、正常な運転が困難な状態にはなかったことを強く推認させる。 事故直前に脇見運転を継続しているが、走行車線を大きくはみ出すことはなく、前方への注意を完全に欠いたとまでは言えない。事故の48分後に行った呼気検査では酒気帯びの状態と判定され、酒酔いの程度が相当大きかったと認定することはできない。 以上の通り、危険運転致死傷罪の成立は認めることはできず、業務上過失致死傷と道交法違反(酒気帯び運転)の罪に当たる事実が認められるに過ぎない。 弁護側はRVの(原文では実名)運転者が居眠り運転をしていたと主張するが、(原文では実名)運転者の供述の信用性に疑問はなく、失当である。 |
→もし途中で事故を起こしていればひき逃げ等でもない限りその先には進めず、別の事故の裁判を受けていたわけです。そこまで無事だったからこそこの事故になったわけで、事実上必然として付いてくるそこまでの「無事故」を評価することは正当かどうか。
最後の時点での脇見運転については、要旨には出てきませんが12秒あまりの間に亘ったとされています。認定された加害者側の速度である時速80〜100kmの場合、100kmであれば300m以上も脇見状態で走行しているわけです。これを「正常」というのかどうか。「前方への注意を完全に欠いたとまでは言えない」と言う裁判長の判断はその前段で対向車線にはみ出さなかったという理由であり、前車を発見できないようなレベルでは、全く見ていないに等しいわけで、前方への注意とはなんぞやの根本が分かっていない議論です。
立法府での議論では、飲酒による影響に視力に関するものが例示されているなかで、脇見、というか「見ていなかった」という事実を飲酒の影響と切り離して考える「評価」とは一体何なのでしょうか。
●判決の評価
立法府の立法趣旨、そして司法府への信託を考えた時、あまりにも「疑わしきは被告人の利益に」を強調しすぎています。
いや、被告人の利益になる事実認定は甘く、不利益になる事実認定は厳格というダブルスタンダードすら見られます。
こうした判決を積み重ねることで危険運転致死傷罪のガイドラインを決めていくことが妥当かどうか。また、将来の規範となるに足るだけの説得力があるのか。
言うまでもなく答えは否でしょう。
そして世間のこの判決に対する評価と、それに対する法曹界の批判を見比べた時、新しい概念の法律の運用において、立法趣旨と乖離した硬直化した法理論で正当化することは正しいのか。
法律というツールは厳格な適用が求められるとはいえ、あくまで「目的」のためのツールです。
そして「目的」の根底にあるのは「社会正義」の実現であり、弁護士法などにも「社会正義」が明記されているように、法曹界の存在意義、つまり「目的」でもあるのです。
ツールがいまいち目的にそぐわないのであれば、ツールに無理がかからない範囲で、目的を達成するように使いこなすのが通常の考え方ですが、法曹界の場合は、ツールの使い方から寸分たりとも離れないことを最優先して、目的が達成できなくても良しとする考えに見えます。
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1952年2月19日、最高裁は、有責配偶者からの離婚請求を認めない判決を言い渡しました。
不貞行為をした夫から不貞行為を理由とした離婚請求をすることは認められない、というものです。不貞行為は法律上の離婚請求理由ですが、例外事項は書かれていません。しかし、自作自演は認められないと言う原則がここで確定したのです。
これが有名な「踏んだり蹴ったり判決」で、判決文は「結局上告人(夫)が勝手に情婦を持ち、その為め最早被上告人とは同棲出来ないから、これを追い出すということに帰着するのであつて、 もしかかる請求が是認されるならば、被上告人(妻)は全く俗にいう踏んだり蹴たりである。法はかくの如き不徳義勝手気儘を許すものではない。」と厳しく断じています。
もちろん民法と違い、適用に厳格さが求められる刑法は違うのですが、それであっても司法府の評価、裁量を前提としたこの法律の解釈において、片言隻句に拘り過ぎて社会正義の実現から遠ざかることが正しいのかどうか、考えたいものです。
2009年5月17日 補筆
2009年5月15日、福岡高裁は一審判決を破棄し、危険運転致死傷罪を適用し、懲役20年の判決を言い渡しました。
25年の求刑に対し、5年を減じる根拠が不明ですが、危険運転致死傷罪の適用と言う根幹の部分が認められたということは素直に評価すべきです。
検察側は業務上過失致死となった一審の根拠ともいえる「脇見」が実際には不可能だったと立証し、これが容れられて「脇見」が否定されましたが、なるほど、道路形状が左右方向に傾斜していて10秒以上も脇見しての直進自体が不可能とのこと。そうなるとなおさら一審の事実認定は、上で批判した論理の破綻どころか、そもそもの部分でずさんに過ぎるものだったということでしょうか。
判決要旨を見ても、「相当量の飲酒」「時速100kmでの走行」という行為に危険性を認定し、脇見を否定し、アルコールの影響による前方不注意を認定と、法律の制度趣旨、法律の構成に矛盾することはないと言えます。
また事件直後から被害者にも落ち度が、と流布されていた事象についても明快に否定されているのも重視すべき点でしょう。
一審判決は高裁判決で「酒に酔った状況を軽視」とまで指摘されており、こうなると危険運転致死傷罪の制度趣旨を正しく理解していないと言われているも同然であり、今回の高裁判決でようやく「国民一般にもわかるような形でその実績が積み重なっていく。」正しいスパイラルに復帰したと言えます。
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