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道路交通の目的に調和した規制を
改正道交法という手段の目的化が招く矛盾と問題




民間の駐車監視員の導入など駐車違反の摘発方法が大きく変更された改正道交法が6月1日から施行されました。
これについては、摘発方法の不備や不公平を指摘してきましたが、施行から10日余り、取り敢えずは混乱も無く順調に推移しているようです。まああれだけ言われていたのに漫然と摘発されるクルマが多いのには呆れますが。
逆にこれまで駐車違反に苦しんでいた幹線道路や繁華街の路上から違法駐車が一掃されて、走り良くなったという評価の声が高まっており、今回の改正法の施行をポジティブに捉える流れになって来ています。

しかし、ここで敢えて異を唱えたいと思います。
もちろん悪質な違反の取締りにまで異を唱えるつもりは毛頭ありませんし、現下の取締りではまだ手緩いともいえます。しかし、全体的に見ると、短期的には確かに道路が走り良くなるという効果は出していますが、中長期的に見てその副作用ともいえるマイナス面が避け難いと言うこと。公平性を疑わせる事象が出ていること。取り締まりがエスカレーションするであろうと言うこと。そして現行法規との平仄があっていないということ。さらに言えば、道交法が交通そのものを無益化してしまいかねないということがあるからです。

●公平性の問題
初日の取り締まりの様子を伝える映像で、大阪で「その筋」と思しきクルマから「これは『停止』じゃ」と罵声を浴びせられるシーンがありました。結局そのクルマはスルーでしたが、銀座など夜の繁華街の違法駐車は案外とそのままと言う声もあり、「手心」の存在を疑わせます。
また、身近なところでも、違法駐車は減ったとは言えず、マイクロバスが路駐しているような呆れたケースもそのままですし。

●取り締まりのエスカレーション
施行後1週間ほどして、駐車監視員も手馴れてきたと言う報道がありました。
そもそも施行前は、監視員が所定の手続をする時間=「停止」と「駐車」を分ける5分程度ということで、実態として「駐車」の摘発であるという説明がどこからともなく出ていました。
ところが実際は、処理スピードを上げる方向にあり、即時摘発に近づいています。また、駐車監視員制度を導入していないエリアを含めて警察官による摘発も同様になっており、こちらはまさに即時摘発となっています。

初日の報道で、自車の荷下ろしをしているクルマを摘発しようとしていたシーンがありましたが、どう考えても運転者がすぐに移動出来る状態の摘発は、「停車」の概念を骨抜きにしていますし、これが「運転者が離れている」の構成要件を充たすのであれば、デジカメの写し方を工夫した「悪意の摘発」すら考えられます。

また、摘発数の増加を見込んだ予算を組んでいると言う話もあるだけに、運転者の意識が向上して違反の総数が減少に転じた時、減ったらそれで良し、となるのか、甚だ疑問です。

●現行法規との平仄
先日大阪で交差点内での客待ちタクシーの摘発がありました。運転者がいれば駐車監視員が手が出せないと言うのはおかしいと言う声に押されたとのことです。
交差点内は駐停車禁止箇所ですから、この摘発は正しいので、文句をいう筋合いはありません。

と、言いたいところですが、その根拠となる道交法44条、これを厳格に適用して「停車」を摘発したらどうなるでしょう。
1項で指定されている勾配の急な坂や、坂の頂上で停車出来ないとしたら、そういう条件の家の前には一切停車出来ないのでしょうか。2項では交差点から5m以内、3項では横断歩道の端から5m以内を駐停車禁止にしていますが、表通りに対して背割りで家が並ぶ路地が接しているような市街地だと、前後の路地から5mずつ取ったらどこに停めるのでしょうか。また市街地で、横断歩道部分しかガードレールや植え込みが切れていないところはどうするのでしょう。厳格に適用すると乗り場は確保出来ても降りられないのでは、タクシーと言う事業そのものが成立しません。

また、警察官や監視員が、停車しているクルマに対して即座に移動するように求めている映像も流れていましたが、例えば携帯電話への対応のように、停車しての対応を法が要求しているのに、停車すら出来ないとなると、本来禁止行為の代償として用意したはずの行為を、成立後に別項で否定すると言う騙まし討ちのような話になるわけで、法の制定として好ましくない事象といえます。

●二輪車の問題
ETCの時に引き続いてこの存在を端から無視したような感があります。
そもそも路側に停車することを前提にしているのが現実ですが、その二輪車を容赦無く取り締まっている映像が流されています。

二輪用の駐車場というものはなかなか存在し無いわけで、最近急増している平面式のコインパーキングも、そもそも有効に作動するかという問題もあるうえに、さらに都市部では主流の機械式駐車場の場合、二輪車の駐車は不可能です。
駐車違反として摘発するのであれば、駐車場があるということが前提のはずですが、足りないと言う声もある四輪車はそれでも駐車場が「ある」という建前で交わせても、二輪車の場合はもともと「無い」のです。

●大型車の問題
こちらも問題です。
大型車が入れる駐車場と言うものはよほどのことがない限りありません。それどころか市街地を外れた街道筋のコンビニでも「大型車お断り」のケースが目につきます。
二輪車と合わせて、駐車場が整備されていない、明らかに不足しているものをターゲットにすると言うのは、二輪車や大型車の存在自体を否定してるとも言えます。

●スムーズに走れることは良いことなのか
確かに渋滞に悩んでいた道路がすいすいと走れると言うことは嬉しいことですし、それに対する好評も分からないではありません。
一方で運送業などの事業が立ち行かなくなると言った批判に対しては、違法行為を前提にするほうがおかしい、と言う批判があることも確かです。
しかし、そもそも交通と言うものは何か、と言う点に立ち返ると、すいすいと走れることを手放しで喜ぶべきではないのです。

交通とは何のためにあるのか。それはあくまで人が移動するため、物を輸送するためにあるのです。そもそもクルマは停まらないとその機能を果たし得ないともいえるのであり、その「停車」「駐車」の規制は、本源的にクルマの存在意義と対立します。
その目的を大いに損なってまで交通を円滑化することに何の意味があるのでしょうか。あまりに手段の確保が目的化してしまい、目的の達成が無視されているのではないでしょうか。
すいすいと走れても、荷物は積み下ろし出来ない、人は乗り降り出来ない。そのような道路に何の意味があるのか。逆に言えば、道路として有効に機能しているからこそ混み合っていると言うことすら言えるわけです。走ること「だけ」が順調で何のメリットがあるのか。走ることが目的ならば効果はあるにしろ、それは見方を変えれば廃棄物を出すだけであり、資源の無駄です。

もちろんバスや路面電車は思わぬ恩恵を受けた格好になり、好評の声ももっぱらこのサイドから出ていますが、もし受益者が公共交通だけに限定されるのであれば、道路の整備は特定の事業者のみが受益者になるため、道路財源などの公費で賄う理由が無くなりますし、事業者が応分の負担をすべきです。

●手段と目的を取り違えると...
利用者は交通に何を求めているのか。
駐車場が無い「中心街」に背を向けてロードサイド店舗に向かうのはなぜか。
目的を果たし得ない対象は無視されるのであり、目的が第一だからこそ、目的を果たすための対応がなされているところに向かうのです。

幹線道路沿いの駐車場を持たない商店は今回の法改正で壊滅ではという予測を目にしますが、まさにその通りでしょう。しかし、駐車場完備の店舗でもない限り、公共交通機関の徒歩圏(これすらよほど利便性が良くないと無視される)を離れたら例えそれが重要な幹線道路であっても街が寂れてしまったとき、消費者の目的は他所で充たされても、為政者としてそういう形での商業集積の再編は「目的」に適うのでしょうか。

「目的地」が消滅してしまい、集約された商業地に公共交通がすいすいと走る。それが理想なのか。
公共交通を利用すれば良いという意見を目にしますが、ロードサイド店舗に走るだけです。また違法駐車で成り立っていたと批判される店舗は、その実公共交通利用のお客も御得意さんだったわけです。手段のために目的を一掃した時、自らの乗客も「目的地」を失うのであり、目的が無くなった公共交通は用無しとして後を追うのが関の山で、その時になって悔いても後の祭です。そしてロードサイドの利用すら規制して中心市街地の利用を強制するというのであれば、もはや統制国家です。

●法は何のためにあるのか
道交法の駐停車禁止を厳格に取れば、タクシーは商売にならず、自分の玄関先で乗降すら出来ないというようなおかしな規定がなぜあるのでしょう。
法律は解釈次第で玉虫色になるべきではないとは言え、その状況に応じて柔軟に適用される前提で存続している面もあるのです。
その際たる例が憲法第9条で、字義通り捉えれば一切の戦力は持てないはずですが、だからと言って非武装を貫けば、フセイン政権に蹂躙されたクウェートのようにならないとも限りません。だから自衛のためという「目的」のための戦力という「手段」を所持しているのです。

制度趣旨に基づいた常識的運用をすることで、一見無茶な規定でも成立しているのが道交法です。
何がなんでも摘発すべきと言うのではないことは、1967年8月の警察庁依命通達で、「交通指導取締りにあたっては、いわゆる点数主義に堕した検挙のための検挙あるいは取締りやすいものだけを取締る安易な取締りに陥ることを避けるとともに、危険性の少ない軽微な違反に対しては、警告による指導を積極的に行うこととし、ことさら身を隠して取締りを行ったり、予防または制止すべきにもかかわらず、これを黙認してのち検挙したりすることのないよう留意すること。」とあり、また「交通規制に伴う違反に対する指導取締りの適正を期するには、交通規制が常に適応し、かつ国民に納得されるものであることが必要である。このため、交通規制についてできるだけ民意を反映するよう、審議機関の設置等について検討すること。」とあるように、そのバランスが問われています。

今回の改正は、直接的には駐車禁止の指定との見直しがセットのはずだったのに、それがなされなかったことがそのバランスを大きく失わせているところが問題であり、かつ、状況に応じた運用を前提にしたとしか考えられない規定だったものを厳格に適用することにより根源的な矛盾を露呈しています。
これでは短期的な効果はあっても、中長期的に見て、まさに「交通規制が常に適応し、かつ国民に納得されるもの」でない状態における「取締りのための取締り」に堕する危険性が大きいと言えます。

重ねて言いますが、交通は何のためにあるのか。目的に資することの無い手段が存在する意義は無いのです。今回の改正法は、交通の目的を達成するための最低限の矛盾や不合理を改正しない状態で存在すべきではありません。






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