このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください





道路交通量頭打ち予測の意味
整備は無用か必要か




2008年11月23日の朝日新聞(東京)の1面は、元厚生事務次官などの連続殺傷事件の犯人出頭のニュースがトップでしたが、その左肩に、「道路交通量 頭打ち予測」と題して、国交省が道路整備計画の基礎データを下方修正したことを報じています。
そこでは交通量の予測を下方修正するとともに、道路による費用便益分析の数値を見直すことで、過大との批判が多かった道路整備に関する見通しを変更するとあります。

これは21日に発表された 道路の将来交通需要推計に関する検討会の第8回会合の結果 を「意訳」したものと思われますが、記事はだから道路整備は無駄、という趣旨で書かれています。

しかし、検討会の趣旨がそうだとして、道路整備に対するスタンスをネガティブに捉えるだけの話でしょうか。

幹線道路、特に高速道路の整備においては、国土軸を形成する区間においては基本的な速達機能が問われる反面、亜幹線に分類される区間においては、輸送量が逼迫するといった事情もない限り、新しい予測と評価に基づき整備方法を見直す余地は大きいでしょう。
しかし、道路整備と言うものは高速道路だけでないわけで、特に都市部、また地方においても市街地におけるピンポイント的な渋滞個所の改善やバイパスの整備と言ったものもあるわけです。

そうしたケースにおいては、地方の高速道路に対する批判のように「需要への懐疑」というものは基本的に存在しません。なぜならそうしたケースの大半は、地元が渇望しているケースだからです。
代わりに出てくるのが、「改善してもクルマが増えるだけで無駄」というものであり、地方の高速道路整備への批判と合わせると、要は改善行為そのものを認めない、突き詰めればクルマの立場の改良を認めないというクルマ性悪説が根底にあると言いたくなるようなスタンスです。

しかし今回の「見直し」は、ある意味そうした批判を峻別するツールにもなりそうです。
需要が伸びない、と言う前提であれば、確かに地方の整備は厳選すべきと言う結論になりますが、地域のピンポイント改良において、改善すればするだけクルマが増える、と言う論理は成り立たなくなる余地が大きいからです。

つまり、総需要が伸びない、減少に転じるというのであれば、さすがに減少し切るのを待つというのは無しとして、改善すれば円滑な交通と言うゴールが見えるということです。
実際には改善してもそのうち元の黙阿弥、と言われて本当になったケースは少ないわけで、かつての酷い渋滞が昔語りになったケースが大半ですから、整備の効果は確実に出ているのですが、そうした「元の黙阿弥」的な批判を受ける余地を残していたのが、今後はその批判が自己矛盾となりかねないのです。

一方、この「見直し」の持つもう一つの意味は、道路交通量の頭打ち、というのは、ひとり道路交通のみに適用される話かどうかと言うことです。

交通需要全体が一定もしくは増加する中で道路交通量が減少する、ということなのか、交通需要全体が落ち込むということなのか。
すなわち、クルマ社会の終焉と捉えるべき話なのか、移動需要そのものが減退するだけと言う話なのか。
資料では道路関係の話ゆえ免許取得率や自動車保有台数の推計を中心に論じていますが、そこから公共交通へのシフトを推定するのは早計だと考えます。

取得率の鈍化、低下は自動車保有の成熟化にすぎない可能性もありますし、高齢者層の増加であれば、ドアtoドアでアクセスできない公共交通へのシフトよりも、外出機会の減退や各種輸送サービスの利用を推定すべきかもしれません。

そう考えると、道路交通量の頭打ちは、それと同時に移動需要そのものの減少を意味する可能性が強く、そうなった場合、公共交通へのシフトではなく、公共交通の利用減少も並行して発生する可能性があるわけで、クルマ性悪説的な考えで喜んでばかりもいられない「見直し」かもしれません。









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