このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください





郷愁を好まない人もいる
SL復活運転に対する一石


務めを終えて(C55・吉松)



旧国鉄における蒸気機関車による旅客列車が消えて30年が過ぎました。その約4年後、山口線で「復活運転」が始まったのを皮切りに、国鉄からJRになって各地で「復活運転」が行われてきました。蒸気機関車を懐かしむ世代、見たことのない世代、そのどちらにとっても単なる機械という枠を超えたSLという存在は特別なものがあるようです。
しかし、その「復活運転」はみんなが歓迎しているのでしょうか。ふと思い直す出来事がありました。


1975年12月、室蘭本線での運転を最後に日本の鉄道からSLが牽引する旅客列車が消えました。同月、貨物列車の運行も終了し、日本の鉄道がいわゆる「動力近代化」を達成したのです。

営業運転から退いたSLですが、京都の梅小路蒸気機関車館で営業運転が可能な形で動態保存が実施され、実際に各種記念行事で本線上での「復活運転」も行われていましたが、消えてしまったものへの郷愁なのか、SLの人気はなお強く、特別な日のみの運転だけではない形での「復活」を望む声は大きく、1976年には大井川鉄道で動態保存として「復活」し、国鉄でも1979年に「SLやまぐち号」として復活しました。

大井川鉄道・C11(千頭・1987年撮影)

その後はイベントでの復活、観光の目玉としての復活を取り混ぜ、梅小路に保存されていたSLに加え、静態保存されていたSLも整備復活されるなど、今なお人気は衰えていません。
変わったところでは1987年のJRグループ発足時に汐留貨物駅で行われたイベントで、C56が記念の汽笛吹鳴に使われているように、「思い入れ」が強い存在であることは確かです。

運転台には最後の総裁・杉浦喬也氏(1987年撮影)

こうして「特別な存在」となったSLは、運行要請が引く手あまたであり、人気と集客力もあることから、走らせることにマイナス面を感じることはなくなっているようです。もちろん沿線での撮影者のマナーなどのマイナス面があることは確かですが、それが昂じた形で発生した1976年の京阪神100周年号における死亡事故を機に、運行自体を大都市圏ではやらないと言うように厳選するj傾向になり、これがまたSLの価値を高めているようでもあります。

さて、こうした人気のSLですが、この冬に道東を旅行した時に、線路際に立つ看板に目が釘づけになりました。

「タンチョウも住民もSLの煙は嫌いです」

タンチョウの飛来地として有名な茅沼の駅の手前に立っていたのです。
この路線、JR北海道によるSL運行としては定番化しているわけで、この冬も釧路−標茶、川湯温泉間に「SL冬の湿原号」として運行されており、地元も歓迎しているものばかりと思っていました。

SL運行の宣伝(標茶・2005年12月撮影)茅沼のタンチョウ飛来地(1991年撮影)

確かにSLの運行には煙と蒸気、そしてドラフトやブロー音は不可欠です。
実は重油併燃などにより燃焼効率を高めた場合、煙の排出も抑えられる(色が薄くなる)のですが、路線によっては状況に応じて「絵になる」走行にするために敢えて黒煙を出すと言うような「演出」をするケースもあるやに聞いています。

普段はキハ54の単行が軽やかに走る路線を走るSL。タンチョウの心理もさぞやというところかもしれません。
冷静に考えれば、「動力近代化」の名の下でSLの淘汰が進んだのはなぜか。エネルギー効率にあることは確かですが、その他、沿線や乗客への煤煙等による被害も大きかったわけです。
いまでこそSL牽引のイベント列車のほとんどが空調完備の近代的な客車であり、乗客は煤煙等に苦しむことなくSL列車を楽しめますが、沿線にとってはイベント時だけとはいえ往年の「被害」が蘇るのです。

吹き上がる蒸気と煤煙(大井川鉄道・1987年撮影)

実際には臨時列車1往復の運行がタンチョウに対する影響というものは無視しうるものとも聞いていますし、経済効果などを考えたら、無視するわけにはいかないとはいえ、意を尽くして運行への理解を求めて解決すべき問題です。

しかし、ノスタルジーの雰囲気の流れで、運行されること自体に何の疑いも持ってこなかったSLに対して、歓迎しない声もあるということは、心のどこかに記憶しておくべきことでしょう。その批判の声が、かつてSLを淘汰してきた理由に重なるのですから。






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