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「弱者」を使い分けたツケ
自転車に対する規制強化を考える



ブレーキ無し自転車「ピスト」の横行を機に、にわかに自転車の交通マナーが注目されています。
震災後、エコな移動手段として注目を浴びているはずだった自転車になぜ逆風が吹いたのか、そしてそれは言いがかりなのか、必然なのか。
道路交通における「自動車批判」の旗頭の「実態」と言う面を考えてみたいと思います。




●「エコ」を追い風に
風を切って走る自転車。爽快なサイクリングも格別ですが、通勤通学などの日常の移動手段としても重宝しています。特に駅などからの端末交通機関としては有効であることから利用する人は多いですが、一方で放置自転車の問題など陰の面が常に付きまといます。

そうした自転車がさらに注目されたのが東日本大震災です。
原発事故とそれに伴う節電モードやエネルギー問題への意識の高まり、さらには震災での「帰宅難民」問題などが浮き彫りにした交通機関へ依存しきった通勤通学のリスクが、自転車での通勤通学に切り替える人を増やしています。

いよいよ「エコ」を重視する傾向が高まる中、自転車と言うのは移動におけるエコの優等生と言うこともあり、まさに追い風に乗った格好ですが、思わぬ落とし穴が待っていました。

●ファッション重視で
震災に関わらず自転車はブームでしたが、ブームになるとやはりファッション性、スタイルも問われてきます。無骨な業務用車やママチャリで良しとするわけもなく、スタイルを重視したり、機能を重視したり、いろいろなこだわりの中で「進化」してきていました。

そうした自転車の一つが「ピスト」でした。
ロードレーサーと違い、トラック用、まあ端的に言えば競輪で使用されるような自転車です。ペダルとチェーンが直結で、制動はペダルの逆こぎのみ。ブレーキはついていません。
原理としては幼児が乗る三輪車と一緒なんですが、それが流行したのです。

限界までシンプルになったピストにファッション性を見出したことで「ブレイク」したわけですが、最大かつ絶対の問題として、ブレーキがついていないのです。
「プロ」がトラックで走るから「有り」なシステムを路上で走る。考えただけでもおかしく、かつ危険なんですが、街中にそうした自転車が増えてきたのです。

●事故が契機で
しかしファッションだからなんでも許されるはずがありません。制動距離が決定的に劣るピストが事故を引き起こすことは火を見るより明らかであり、そして歩行者をはねる死亡事故の発生もあり、警察も取締りに乗り出しました。

ただし、ブレーキのない自転車はそもそも道交法違反の存在であり、事そこに到るまで取締りをしてこなかったこと事態がおかしいわけで、瑣末な「違反」をネズミ捕りと呼ばれる行為で摘発する一方で、故意による保安装置の撤去という積極的な法律違反を放置してきた初動ミスは問われるべきでしょう。

ようやく取締りに乗り出した中で、お笑い芸人が検挙されたこともあり、ノーブレーキのピストに対する関心が高まり、警察による摘発も頻繁に行われるようになり、それまでの自転車ブームが一変して「街の邪魔者」視されるような事態になっています。

●おかしな言い分
これまでの「お目こぼし」が転じて積極的に摘発され、また、自転車の走路自体もこれまで容認されてきた歩道から追い出されて車道を指定されるようになりました。

そうなるとおさまらないのが自転車ユーザーであり、車道では安全に走れない、クルマの規制が先、と言うような主張も聞こえてきます。

しかしおかしな話であり、もともと道交法では自転車は「軽車両」としてルールが定められています。
ちなみに歩行者のルールも定められていて、歩行者からクルマまでルール違反には相応の罰則も規定されています。
そのルールを守るのは当然であり、それが守れていない状態でルールがおかしい、他人が悪いと言い募るのはいかがなものか。もちろんルールがおかしいと言うことは自由ですが、その前提としてルールを守っていることがあるのです。

おかしな言い分と言う意味では、練習中の競輪選手が検挙された際にでた、自転車競技の練習場所がない、という声もその一種です。
どんなスポーツであっても、公道上は練習場所ではありません。練習するのであれば公道を走る際に必要な対策が必須であり、かつ要求される注意義務を払う必要があります。

「なでしこ」を輩出した女子サッカーチームが、練習場所がなくて、神戸を名乗りながら練習は神戸から離れた県北の丹波市で行うなど苦労していますが、自転車競技は練習場所がないからといって自前で整備、確保することもなく、公道でノーブレーキピストを運転していいのでしょうか、違いますよね。

以前幕張新都心で自転車競技の練習中の学生が路駐車両に激突して死亡するという痛ましい事故がありましたが、これとて見通しが非常に良い片側3車線の道路で追突事故を起こすということは、よほど前方を見ていないと言うような注意義務の根本がなっていなかったわけで、そういう練習をしたいので公道走行を解禁して、というのであればお門違いも甚だしいです。

●自転車という存在
こうなった時に考えると、これは自転車と言う存在の曖昧な立ち居地が招いたものと言えます。
しかもそれは歩行者とクルマの狭間で肩身が狭い存在、というのではなく、歩行者とクルマのいいとこ取りをしていることで謳歌した自由が招いた「自業自得」の面があります。

しかも道交法の本則である罰金刑(赤切符)のほか、反則金制度などの行政罰(青切符)と罰則制度が整っているクルマは、ルールを破ると罰を受けるという牽制が健全に機能しているのですが、自転車(及び歩行者)の場合は、本則の罰金刑を課すと法律違反の程度の割に刑罰が重くなることから(罰金は死刑、懲役、禁錮の次であり、「前科」として扱われる。ただし道交法事案では禁錮以上を前科としている)、運用として「お目こぼし」になっています。

こうなると「検挙」しても厳重注意が関の山とあっては抑止力が叩かないわけで、クルマであれば余程の無謀運転やぼんやりでない限り起こさない信号無視も、自転車(及び歩行者)では日常茶飯事です。しかもクルマではまず故意に起こさない違反なのに、自転車などの場合は明らかに故意です。

そうした単独での「違反」であればまだしも、そうした無法状態が原因で死亡事故になるケースも特に最近増えているようで、歩道で歩行者をはねた、出会いがしらに衝突した、というような、クルマであれば余程悪質な危険運転か重過失か、と言うような事故が続出しています。

●政策の見直しが必要
そうしてみると、ピストの摘発が機に沸き起こった「バッシング」と言うものの本質は、ファッション性重視で違法行為をする、といった局地的な話ではなく、自転車そのものの「無法」「無謀」ぶりに対する不満の表れともいえます。

それだけマナーが問われる現状である以上、安全教育の徹底見直しなど、抜本的な政策変更が必要な時期に来ています。
昔のように徒歩に毛が生えたようなスピードではなく、クルマに匹敵するようなスピードも出せる時代です。事故発生時の「破壊力」も段違いになっている中、自転車と言うツールを入手すれば誰でも乗れると言う現状を見直すべきではないでしょうか。

クルマ(自動二輪、原付を含む)の運転には免許証が必要です。これは技能の確認と同時に交通法規に対する理解の確認でもあるわけで、それを理解した上で路上に出ているという建前になっています。
ところが自転車の場合は、幼児が親に押さえてもらって補助輪なしの自転車に乗れるようになる時くらいでしょう、他人が技能の確認をするのは。あとは自己確認に過ぎません。

いわんや交通法規に関する確認はなく、それゆえにルールを知らないで路上に出ているという状態になっているのです。
これは実は恐ろしい話であり、クルマの側はルールを認識して行動しているのに、自転車は認識していない。ルールは交通における相互間の調整を行うものですが、ルールを知らない存在が路上に出てくるということはその調整が出来無いことを意味します。そしてルールに従って行動しても安全が担保されないのです。これは非常に危険なことです。

●自転車に必要な最小限の自覚
自分たちは軽車両であり、クルマと同様に交通信号その他の交通法規に従う義務があるということでしょう。
そして空きスペースがあれば走っていいというような自分勝手な考えの放棄と、他の邪魔をしないという譲り合いの精神です。

二言目にはクルマが邪魔、クルマ優先社会がおかしい、と言う前に、道路交通において本来必要な譲り合いをいちばん守れていないのが自転車であると言うことを自覚すべきです。
譲り合って右左折や合流をしているクルマの真ん中に割って入って来る自転車の多いこと。なぜクルマが止まっているのか、それを理解するのが譲り合いですが、現実はお構いなしなうえに、事故を起こしてクルマに責任をおっかぶせることが多いのです。

クルマに幅寄せされた、と言う話も、クルマの側から見れば、道路の脇を走るべき軽車両が道の真ん中をよたよた走っていたからといわれるかもしれません。限られたスペースで自転車を交わし、対向車とすれ違うには、自転車の側も弁えた走りが必要であるのですが、ブレーメンの音楽隊よろしく後続車を引き連れた車列に何回なったでしょうか。

またよく経験することで言えば、道路に直角な車庫入れをしようとハザードをつけてバックしようとした時、クルマは止まるか、これからスペースが空く先頭側を通過しますが、自転車はそうではなく、これから車庫に向かって車体が塞ぐ後方側に突っ込んできて車庫入れの邪魔をするのです。

よくある話として、そうした自転車乗りもクルマを運転するようになると、今までいかに危ないこと、邪魔なことをしていたかを痛感することがありますが、そうでもないと「悔い改めない」うえに、事故を起こす主体になるケースが増えているのであれば、安全教育の徹底、ひいては免許制度の導入など、そのリスクに応じた「規制」が必須です。

●技術に応じた手段の選択
もちろんクルマの側も褒められたものではないことは事実です。しかしそれにつけても自転車のほうがひどいのでは、と言う話です。

そう考えると、自分の技量や法令の理解に分不相応なツールの使用を出来なくする、ということをより厳格にすべきでしょう。
自転車への免許制度導入もそうですし、あまりにも形骸化している免許更新時の「講習」の見直しも必要です。一定の技量がない人は更新させない、国家の技術ライセンスと言う面がある運転免許が、一回取ったら死ぬか返上するか取り消されるまで技量審査をしないで更新されると言うことがおかしいのです。

これには免許を身分証明書代わりに使っている層からの反発もあるでしょうが、ID代わりにライセンスを使うと言う現状がおかしいのであり、住基ネットなどを活用したID制度を導入し、運転免許とIDを分離すべきです。このあたりは国民総背番号制はどうのこうのというサヨクの残滓のような勢力の反発がありますが、そろそろ「大人」になるべきでしょう。

そして技量に応じて自転車からクルマまで免許制度にする。当然そこには交通法規への認識も確認される、ということになります。

現状から見たら不便だ、煩雑だ、コストはどうする、という声もあるでしょうが、その裏返しである利便性、手軽さ、低廉なコストと引き換えに事故やトラブルが目立つのであれば、それは犠牲になっていくしかありません。クルマの世界でも、かつては車庫証明は不要でしたが、青空駐車が問題化して、車庫証明が必須になりました。これも不便で煩雑で、警察の事務コストも嵩むと言うわけですが、導入しないことによる社会的損失と天秤にかけた判断でした。

今回、ピストの横行を機に自転車の問題がクローズアップされたのを契機に、自転車という「中途半端」な移動手段をどう扱うのか、抜本的な議論をしてもいいと思います。

●そして歩行者も襟を正す時期
自転車の諸問題を指摘した場合、避けて通れないのが歩行者の問題です。
古今東西、歩行者の交通マナーは必ずしも良くないにもかかわらず、それを実効性のある形で摘発することもまた困難でした。

各国で歩行者の信号無視などの摘発に乗り出したニュースは聞きますが、それが定着した、効果を上げたという話は聞かないのです。

しかし現実に歩行者による交通違反が日常茶飯事になっているわけです。そして自転車以上に「弱者」であることから、違反して事故になってもクルマが悪い、という責任転嫁が当たり前に語られる状態では、生半可な摘発ではかえって逆ネジを食うだけと言えます。

そういう点で参考になるかもしれないのが路上喫煙に対する罰金の即時納付制度でしょうか。
見つけたらその場で1000円、と言う制度を交通違反にも導入し、歩行者の信号違反を見つけたらその場で1000円、というようにしたら、相当違反は減る可能性があります。

●「弱者の驕り」を排除した真の弱者保護を
結局言えることは、クルマと言う強者に隠れて、「弱者」の少々の法律違反はお目こぼし、というゆがんだ弱者保護が元凶かもしれません。
それが昂じて、「何かあってもクルマが悪いんだから」「事故ってもクルマが100%責任になるんだから」といった、言葉は悪いですが盗人猛々しいと言うか、まさに驕りと言うべき発想で「違反」をする人もいるのです。

確かにクルマが「凶器」になることは多いですが、こんな発想で故意に違反するようなドライバーはほとんどいないと断言できます。
故意の違反と言えば飲酒運転ですが、それすら自転車の飲酒運転が今なお平然と行われていることを考えると、法令による処罰と言う抑止力を欠いた状態で「保護」だけすることの危険性をも感じます。

そして「公平な差配」の中で、改めて強者であるクルマは弱者である自転車や歩行者にどう振舞うべきなのか。守られた試しがない、信号がない横断歩道での横断者優先措置とか、まだまだクルマの側が横暴さを発揮している局面における摘発の強化や厳罰化など、お互いを尊重した公平な差配があって初めて成立する「規制」を進めて行くことで、譲り合いの精神を昇華させていくことが可能でしょう。




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