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岐阜・福井県境、「酷道」三昧の一日


「酷道」と呼ばれる国道にもいろいろありますが、岐阜、福井県境の「酷」ぶりが群を抜くR157の誉れはひときわです。

この岐阜、福井県境のエリアの味わい深い「酷道」としては、西側に並行?するR417も捨てがたく、この両巨頭をどうやって攻めるかあれこれ考えてきましたが、西日本とはいえ山深いエリア、冬季閉鎖であることはもちろんですが、自然災害による通行止も多く、現にR157のもっとも「コア」とされる区間は長期閉鎖中で、林道を迂回するお約束になっています。

関西を拠点に巡れる最後の夏となった2008年8月に、ようやく訪れる機会を得ましたが、両巨頭を二度に分けて楽しむといった時間的余裕も無く、かといって酷道で往復という余裕も無いことから、R417のほうは県境までの区間に限定するなどのテクニックを使ったプランニングとなりました。

お気づきの方もいるかもしれませんが、実はこの酷道探検は 先にご紹介した石榑峠 を「前菜」にしました。
いや、石榑峠も十分メインディッシュを張れる酷道ですから、R421、R417、R157の「三本立て」でしょうか。神戸から八日市に出て、石榑峠、いなべ、大垣を経てR417で揖斐川源流の冠山峠へ。そこから樽見に山を越えて、林道を迂回してR157に入り、温見峠を経て越前大野に出て、福井から帰神というプラン。
朝から夕方まで酷道三昧でおなか一杯の一日だったのです。

長きにわたる不通区間(根尾能郷)



特記なき写真は2008年8月撮影
(*印の写真は2006年10月撮影)


●はるかなる徳山郷
石榑峠を下り辿り着いたのはいなべ市。R306に入りしばらく走ると三岐鉄道と交差します。ちょうどセメント列車でしょうか、貨物列車が走ってきました。
R365に入り、北勢線の終点である阿下喜の町外れをバイパスで通過するうちに見えてくるのが石灰岩の採掘で山容が変わった藤原岳。以前北勢線などを乗りに来たときに見るのとはまた別のアングルで山や街を見ることになりましたが。

三岐鉄道がその名の通り「岐」阜を目指して進む予定だったルートを辿り、小さな峠を越えると岐阜県大垣市。かつての上石津町域です。
山峡をトンネルで抜けて関ヶ原に向かう道は非常にのどか。関ヶ原に至り、時間も押しているので名神に入ると、下り線はお盆間近とあって大渋滞。本線の渋滞がインターにまで影響している、と思ったら、関ヶ原で事故があったようでその影響。下りは養老SAの先まで数珠繋ぎでした。

次の大垣で降りていよいよ北上。中心市街地に向かうR258はありがちなロードサイド銀座。手元不如意で郵便局を探したが不首尾で、東に大回りした格好でR21バイパスへ出てほどなく、今日の目的地へ向かうR417に入りました。

東海道線のヒゲ線である美濃赤坂の街を経て北上し、池田町に入ると近鉄養老線改め養老鉄道に沿って北上します。
ようやく郵便局を見つけて軍資金を補給。カードはもちろんありますが、これからの道中、カードが使える店があるかというと甚だ疑問です。

揖斐川町から徳山ダムへ

養老鉄道の終点揖斐駅の手前で揖斐川町に入ります。最も揖斐川町の中心街は粕川、そして揖斐川を越えた向こう側。かつて名鉄揖斐線の終点であった本揖斐駅があったエリアです。
本揖斐の街中はちょっとした市街地。そしてここから山に挑むのですが、かつては久瀬村、藤橋村、徳山村と自治体が続いていたのですが、徳山ダムの建設に伴う村の主要部分水没による離村で徳山村が廃村になり、残る2村も平成の大合併で揖斐川町になったということで、延々と揖斐川町域が県境まで続きます。

●徳山ダムへ
まず最初のポイントは徳山ダムです。公式には2008年10月の完成となっているということは、この2008年8月の時点ではまだ「完成前」なんですが、既にダム堰堤を含む公園の公開も行われており、なみなみと水を湛えるダム湖は「完成前」とは思えないものがありました。

本揖斐からしばらくR303との併用区間。ひたすら揖斐川を遡上して、旧藤橋村域にようやく入りました。
道の駅「星のふるさと藤橋」があり、延々と走った疲れをリフレッシュします。ここは天然温泉が併設されており、さっそくひと浴びして早朝からのドライブと石榑峠の第一ステージの疲れを落としました。

道の駅にて

このあたりは実は2006年秋に2回ほど来ています。神戸からまっすぐ来るのであれば北陸道木之本ICからR303となるわけで、その時もそうしたのですが、R303も滋賀、岐阜県境の八草峠こそトンネルが出来ましたが、前後はまだ改良中の酷道でした。

R303を分岐していよいよ徳山ダムに向かう分岐にあるのが1964年完成の横山ダム。R303はダム堰堤を木之本に向かい、R417はこのダム湖沿いに徳山ダムを目指しますが、徳山ダムという新しい観光ポイントを控え、冠山登山のアプローチに加え、「酷道」ブームでもあるこのエリア、けっこう交通量が多く、ツーリング中のバイクの集団に追い抜かれたときは大変でした。

横山ダム湖が揖斐川に戻り、しばらく進むと藤橋村の交流施設などがある公園への分岐があります。これがダム建設で付け替わるまでのR417です。公園へのメインアプローチは実はこちらではなく付け替えられたR417の途中から分岐するルートですが、この旧R417には往時をしのぶ「おにぎり」がひっそりと立っていました。

*往時を偲ぶ...

付け替え道路に入ると高規格な2車線道路。トンネルで山を抜け、高度を稼いで堰堤のラインまで登ります。そのダム堰堤はトンネル群を抜けて、というのではなく、トンネル群の中間に分岐があります。通常ならダムの堰堤まで登れば後はダム湖畔の快走路となるのですが、堰堤を過ぎてもしばらく山腹にトンネルを穿たないと進めないと言う険しい地形も、ダムの大きさから来た制約なのでしょう。

「揖斐の防人 濃尾の水瓶」

「揖斐の防人、濃尾の水瓶」と自然石に刻まれた碑が出迎える徳山ダムサイト。駐車場に停めてまずは堰堤の下流側から谷を埋めるように築かれたロックフィル方式のダムを見ます。
そして堰堤を歩き対岸に出たりして見学できますが、谷側の堰堤の途中にデッキが設けられ、堰堤にある階段を下れるのは面白い仕掛けです。

ロックフィルの堰堤


●試験湛水の思い出
木之本側から訪問したという話をしましたが、その時に見たのが試験湛水の様子です。
無駄な公共事業の象徴のように扱われ、最後の巨大ダムと言われ、日本最大の容積を誇るダム湖となる徳山ダムの堰堤が完成し、試験湛水が始まったのは2006年9月のこと。廃村となりダム湖底に沈む運命を待つ旧徳山村の中心街の様子などがネットでも取り上げられていました。

*下流側から見た堰堤

それに心惹かれて訪れるチャンスをうかがっていましたが、2006年10月に交流施設そばにあった「徳山ダム建設パビリオン」(現存せず)が見学ツアーを受け入れていることを知り、もうこのような機会は無いと思い家族で訪れました。
先着順に何回か実施されるツアーですが、何とか空きがあり参加。パビリオンから建設現場見学シャトルバスに乗り、まず今のダムサイトにある展望台(現存)へ。ここで堰堤を見てから、少し先の作業用道路から「谷底」に降りたのです。

*今は湖底の「展望台」から

今は湖底に沈んだその場所は、山の中腹にある展望台で、堰堤を見上げる位置にありましたが、今では湖水の底で見えません。この段階でもかなり水を湛えていたように見えましたが、堰堤まではまだまだ高低差があり、見上げる対岸の山腹には「満水になったらここまで来る」と説明された赤い浮きが並んでいましたが、その浮きが今は湖面に浮かんでいます。

*木々が刈られた山腹が今の水面に

見学終了後、ほぼ完成してオープンを待つ格好の徳山会館へ。館内には入れませんが公園は入れました。
建物も取り壊されて整地された村の中心部はほぼ水没してましたが、唯一残った建物である小高い丘にある小学校の校舎だけは水面に出ており、「ダムに沈む村」を象徴する光景でした。

*沈みゆく徳山村中心部ちなみに現状はこういう風景


●徳山会館でのブレーク
なみなみと水を湛える徳山湖の静かな水面からは、このような変遷の片鱗すらうかがわせません。

今は青々とした湖面が...

湖水に沿ってまずは徳山会館へ。お昼時と言うこともあり、食事にするつもりです。
水底には徳山村が眠っているのですが、いまや人工物のかけらも見えない湖面を望む徳山会館は、旧徳山村の思い出をつなぎ、旧村民が集うための交流施設。思い出の写真などが展示されています。

*徳山会館

あまり人気の無い様に、徳山ダム本体と同様にありがちなハコモノ批判の俎上に上るんだろうなと同情しながらこれも空いているレストランに入りました。
せっかくだからと名物らしきメニューを探すとけっこうなお値段です。1200円の天ぷら定食にしましたが、この鄙びた地でこの値段は強気に過ぎるだろ、と呆れたのも事実です。実は山峡のドライブ行ということもあり、食事事情もチェックしていたのですが、ホームページもあるこの徳山会館、レストランのメニューとその写真にあまり期待をしていなかったのです。

ところが出てきたお膳を見て驚きました。さらに食べると前言撤回です。
案内やメニューの写真だと1200円は酷すぎる、と言う印象だった貧相な天ぷらの皿がにぎやかなこと。在り来たりでない葉物の山菜をふんだんに使った天ぷらは野趣があって美味しく、写真だとメインとして座っている海老天は葉物の影で小さくなっているくらいで、海老天などなくとも十分と言う感じ。

自家製を謳う豆腐も美味しく、天ぷらともども焼き塩が添えられているのも乙で、ここの鄙びた地でこの料理が食えるとは、という意外感もあり、美味しかったです。

徳山会館付近からダム方向*試験湛水時の風景


●冠山峠へ
すっかり満足して再びクルマに。
徳山湖に架かる徳之山八徳橋を渡り、左岸に移動してさらに遡上します。磯谷ベロリ橋とかみょうちきりんな名称が橋やトンネルについていますが、地元の伝承を題材に付けたそうで、このあたりその由来をまとめたパンフレットでも徳山会館あたりに用意してあれば、と思います。

磯谷ベロリ橋

冠山峠からの帰りに湖畔に何箇所か展望台がある中の一つに立ち寄りましたが、そこは湖底に沈んだ旧集落、というか徳山村の中心街だった本郷地区の思い出を偲ぶ場所として整備されていました。
往時の家並図ということで、住宅地図が刻まれた石碑もありましたが、バイパスが山腹を穿って直進する中、ここまで来てくれる人がどれだけいるのか。人里離れすぎた山中とはいえ、この手の駐車場、小公園にありがちな末路としての走り屋の巣とかになって閉鎖されないことを祈ります。

展望台から徳山会館方面本郷地区家並図


トンネルの連続が終わると徳山バイパスの終点。人里離れた山奥だけあってか、簡易へリポートがある広場となっており、その一角から冠山峠に向かう林道がスタートします。

徳山バイパスの終点

R417は両県を結ぶ国道ですが、なぜか冠山峠の区間だけは国道指定がされておらず、冠山林道と言う扱い。しかも岐阜県側はしばらく徳山ダムの管理用道路と言う扱いになっています。

管理用道路と林道区間の境界付近

この区間はダムの管理用道路というわけで、狭隘区間ながら交換所が定期的に設けられてスムーズに進みますが、林道扱いになったとたんに牙をむきます。
舗装されてはいますが落石が落ちたままとか、泥水がたまって深さが分からない穴が開いていたりとか、まあ林道らしい光景です。

細かい落石が残る冠山林道

さて、8月の暑い盛りの昼日中とはいえ、だいぶ高度も上がったのでさわやかな高原の風を期待して窓を開けたはいいんですが、風こそ生暖かいとはいえ平地より格段にさわやかなのに、胴体が親指以上の大きさとなっているお化けアブが数多くクルマに付きまとうように飛んでおり、車内に侵入しかけるので、せっかくの高原の風を断念せざるを得ません。

峠は間近

交通量は格段に減ったのはいいんですが、クルマもさして通らないと高をくくったのか、路肩にクルマを停めて道路上でお弁当を広げているグループには参りました。
そうこうするうちに冠山の威容が間近になり、稜線の切れ目に道が吸い込まれていくあたりが峠でしょうか。

冠山峠

そして辿り着いた冠山峠。下れば(といっても距離はかなりある)武生か鯖江に出るのですが、今日はここで引き返します。林道が通る鞍部を見下ろす高台には林道開設を記念する石碑がそびえますが、それを取り巻くのが両県側の自治体名を刻んだ石碑。
福井県側は池田町だけですが、岐阜県側は前にも書いたとおり廃村や平成の大合併もあり、本来1つのところ、徳山、藤橋、揖斐川の3つが並んでいます。

左が池田町、右に揖斐川町、藤橋村、徳山村


●「第3ステージ」への転戦
石榑峠、冠山峠とステージを順調にこなし、残るは今日一番の大物、R157です。
徳山バイパス建設中の頃はここからR157というと午前中に入浴した道の駅辺りまで下り谷汲を迂回しないといけなかったのですが、樽見に抜けるr270が通れるようになり、かなり楽になっています。

徳之山八徳橋の手前にある分岐を本巣市(旧根尾村)樽見方面に取ると、徳山湖を構成する小さな入り江の沢を詰めて高度を稼ぎます。立派な五平能舞橋など徳山ダム建設に伴う付け替え区間が終わるとR417からも一段落ちるような規格の小径となりますが、交通量はごく少なく、寂しい峠越えです。

峠の馬坂トンネルはすれ違いもままならない狭さ。前方からの進入車がないことを確認して警笛を軽く鳴らして進入します。もちろんライトを点けて存在をアピールしないといけません。
しかし困ったことに、このトンネルは前後の区間がトタン葺きで延長されており、しかも曲がっているのです。自動車交通が盛んでなかった昔のトンネルは、トンネル内への雨雪の吹き込みを嫌ってわざと出入り口を曲げたケースもあるやに聞いていますが、ここもそうなんでしょうか。佇まいを見るにかなり古そうです。

馬坂トンネル。微妙なカーブが難物

あとは淡々と下り、長峰でR157に合流します。ここから温見峠は左に進路を取るのですが、根尾能郷から根尾黒津の間が長期通行止なので、右に向かい樽見から迂回ルートを使います。
しかし、取り敢えずゲートまで進みたくてR157を進み、根尾能郷のゲートへ行くと、ありました、有名なあの看板。「落ちたら死ぬ!!」の強烈な看板です。

●長期不通区間を大迂回する
ここから先の狭隘区間、すれ違いもままならない断崖の悪路なのにガードレールなど無い恐怖の区間であり、このインパクトのあるキャッチコピーに何の誇張も粉飾もないことが、R157の酷道としての価値を押し上げています。
とはいえゲートのある場所は大型車にとっての最終転回所ですから、まだ地獄の玄関先。おそらくこの看板もこの先のどこかから「サービス」で持ってきたのでしょうか。草生す転回スペースの脇に立っている看板に凄みはありません。
見入っているとツーリング中のライダーがやってきましたが、「目的」は一緒でしょうね。ただ、見ていると大型バイクを停めようとしてコケており、大丈夫かな、と思いましたが。

ご存知「落ちたら死ぬ!!」

あまり長居をしてもいけないので今来た道を戻ります。
樽見鉄道の終点である樽見まで戻り、林道に取り付くべく進みます。R418を少し走るとR157迂回路を示す看板がある三叉路に出ました。心許ないですが案内があることに安堵して、r255を上大須ダム方面に向かいます。
意外と距離があり不安になった頃に小さな公園があり、そこが分岐点。トイレがあるのもありがたく、少し休みました。

迂回路の案内図

ここからは折越林道なる道。西側にそびえる山塊を越えるのですが、トンネルなどという気の利いたものがあるわけもなく、ひたすら登ります。
人家を見ない山中を走り、峠を越えて下りにかかると、なぜにこのようなところに、という感じで越波の集落がありますが、R157が長期通行止の現在、林道の峠を越えないと「街」に出られないわけで、大変のように見えますが、その道は「落ちたら死ぬ」ですから日常ルートが実は峠越えかもしれません。

川の流れに従うとかなり南でR157に合流するのですが、一山越えてR157に短絡するのが猫峠林道です。
どうも新しい道のようで、林道開設記念碑がまだ新しく、その後もアスファルト舗装がまだしっかりしています。ゲートからの大迂回をすること2時間ほどでしょうか、根尾大河原でようやくR157に復帰しましたが、ここの写真を撮ろうとしたら、例のお化けアブの大群が襲来。写真もそこそこに退散です。

●温見峠へ
いよいよファイナルステージです。
まだ8月の16時台ですが山の陰に入っているせいかかなり薄暗く感じます。

「落ちたら死ぬ!」区間は既に去り、根尾川はR157の脇でおとなしくしています。
そのかわりに現れるのが「路上河川」こと洗い越しです。両岸を穿つ谷筋から根尾川本流に集まる小河川がR157と交差するのですが、通常の水量によってはいちいち小さな橋梁を架けるにも及ばないということで、谷筋との交差地点の道床を少し窪ませてそこを水が通るという、河川との平面交差ともいえる洗い越しになっているのです。

洗い越しが幾度も...

ですから水量は大したことが無い、と言いたいのですが、結構な水流が見られるところもあり、洗い越しの先でクルマを止めて現場を見に行ったら、運転席から見る以上に水量があり徒歩では濡れずに超えることが難しい、と思わしめる箇所もありました。

洗い越し区間を過ぎるといよいよ温見峠へのファイナルアプローチとなる勾配区間に入ります。
とはいえR417、というか冠山林道と違い、さすがにR157、1993年の大規模改変以前からの100番台国道ですから道はしっかりしています。「落ちたら死ぬ」や「路上河川」が名高いR157ですが、肝心な峠越えはさほど難しくもないようです。

やがて峠に到達しましたが、能郷白山への登山口ということで駐車スペースをクルマが埋めているくらいで、見晴らしが利く様子でもなく、ある意味名高い峠越えでありながら、峠のその瞬間にさほどの感動が用意されていないのが意外でした。

温見峠


●もう一つの廃村、そしてフィナーレ
大野へ向けて福井県側の道を下ります。下り側も標準に少し落ちる程度の峠道で、運転にそれほど神経を使う感じでもありません。
県境からは福井県大野市ですが、1970年までは西谷村という独立した自治体でした。

ここの大野市への併合は過疎化によるお決まりの市町村合併、ではなく真名川ダム建設に伴う村の主要部の水没に伴う集団離村が原因という特殊な例であり、先ほど訪れた岐阜県徳山村と同様のケースです。
徳山ダムは日本最大の貯水量である半面、その存在意義を問われているダムですが、こちらの真名川ダムは1967年に完成したあとはもくもくと稼働を続け、2004年7月の福井豪雨における流量調整により、下流で浸水被害を出さないことに成功し、逆にダム反対運動でダム建設が遅れたことで甚大な被害を出してしまった足羽川におけるダム建設が推進に大きく舵を切るきっかけとなっています。

そして旧西谷村でも最も奥にあるのが温見集落ですが、ここは廃村に先立つ1963年、有名な「サンパチ豪雪」により長に亘り孤立、さらに1965年の集中豪雨で甚大な被害を出したことで全集落が立ち退いています。

ふるさとの碑

温見の旧集落に入ると、いまでも地主の方々が農作業のために訪れるため簡素な小屋掛けが目につきます。小高い場所にある白山神社のお社を背負った広場にある「ふるさとの碑」のあたりが中心だったのでしょうか。苔むした石碑が時の流れを感じます。

温見ストレート

温見川を渡り返すと有名な「温見ストレート」
峠越えの隘路とは思えない直線道路がこれも山間部としては異例の草藪の平地を貫いて走っていますが、これはかつてここに温見の集落があった名残。そういう予備知識を持って見ると、何気ない直線区間からいろいろなものが見えてきます。

未改良区間にあった「チビおにぎり」

あとは淡々と大野へ向けて下るだけ。
雲川ダムの建設に伴う付け替え道路の区間だけ快走路になっていたりする区間を経て、上述の真名川ダムによって出来た麻那姫湖畔の美しい景色が事実上のフィナーレです。

大野盆地へ下り込むとこれまでの山道がウソのような平野の道。
大野市街に入る手前でR158に入り、福井へ向かい、さらに神戸に長駆帰ったのです。











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