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カンチャナブリ


個人的なタイの観光案内


タイ国内観光のサポートとしての私の視点からの観光情報の紹介です。



私の視点からのアユタヤ観光案内
 カンチャナブリから自動車で2時間半で行けるカンチャナブリ県の2つお隣の県「アユタヤ」についての観光案内をしてみましょう。

 古都アユタヤは、カンチャナブリから北東に約190km、バンコクからは北に約76kmのところに位置します。1351年、ウートン(ラーマティボディ)王によってアユタヤ王朝(1350〜1767年)は開かれ、417年間で35代に渡って王が偉大な歴史を築いた都市なのです。16世紀半ばにはヨーロッパや日本との交易が盛んに行なわれ、首都のアユタヤは当時としては世界屈指の大都市でした。

 江戸時代には、徳川ニ代将軍の秀忠の頃に4度ほどシャム使節団が長崎に渡ったという記録が残されています。アユタヤは、チャオプラヤー川本流とバーサック川の合流点にあって、川を利用した貿易港として栄えました。現在のアユタヤは世界遺産に指定されており、観光のために5つの遺跡が19:00〜21:00までライトアップされています。5つの遺跡とは、「ワット・プラ・スィー・サンペット」、「ワット・プラ・ラーム」、「ワット・ラーチャブラナ」、「ワット・プラ・マハタート」、「ワット・チャイ・ワタナラーム」です。

 当初は「無敵の」という意味のサンスクリット語に由来する「クルンテープ・タワーラーワディ・シー・アユタヤ」という名前を地名に命名しましたが、一方でアユタヤとは平和を表す言葉でもあるそうです。観光に見えられる日本の皆さんはここを単にアユタヤと呼んでいるようですが、タイでの現在の正式名称は「プラ・ナコン・シー・アユタヤ」と言います。

 バンコクからアユタヤへ向かう途中のチャオプラヤー川沿いにバーン・パイン宮殿というのがあります。1637年、アユタヤ王朝24代王のプラサート・トォン王が建てた宮殿で、その後はアユタヤ王朝歴代の王の夏の離宮として使用されていました。

 アユタヤ滅亡後、バーン・パイン離宮は荒れ果てていましたが、ラーマ4世によって再建され、ラーマ5世の時代に宮殿が増やされました。現在、バーン・パイン宮殿にある建物はほとんどがラーマ5世の時代に建てられたものなのです。

 離宮にはパビリオンと呼ばれる5つの館が点在します。中央の池の中に建っている宮殿は、タイ風建築のプラ・アイサワン・ティッパート宮殿です。王宮の中にあるアーポーン・ピモーク館を真似て作られました。中には、軍服姿のラーマ5世の像があります。

 中国風の建物はプラ・ティナン・ウィハット・チャムルン宮殿で、ラーマ5世のお住まいとして使用されていました。中国人の官吏に造らせたもので、材料はすべて中国に注文して運んできたものだと言われています。その他、3つの館があります。6角形の形をした石碑がありますが、これは1880年にバーン・パインへの船旅の途中で船が転覆してお亡くなりになられたスナンター王妃の記念碑です。

 それでは、いよいよアユタヤの島の中の遺跡の紹介をしていきましょう。

 世界遺産となっているアユタヤは川の中の島であり、チャオプラヤー川とロッブリー川、そしてパーサック川で周囲を囲まれています。そして、チャオプラヤー川を下っていきますとバンコクを通って海へ注いでいるわけなのです。

 そのアユタヤの北東側の川向こうにあるのが「ワット・プー・カオ・トーン」です。1569年、ビルマのバイナウン王がアユタヤを占領した時に建てた高さ80mの寺院です。当初はビルマ様式でしたが、アユタヤ王朝を再興したナレスアン王がタイ様式に改めました。現在の塔は1956年に造られたもので、仏歴25世紀を祝って頂上に2.5kgの黄金の珠が付けられ、そのことから別名「黄金の仏塔寺院」とも言われています。

 観光客に大変人気の場所となっているのが、次に紹介する「ワット・プラ・スィー・サンペット」です。アユタヤの島内の中心部よりもやや西部に位置しています。1491年に王宮内に建てられた王宮専用寺院です。境内にあるセイロン様式の3つのチェディ(仏塔)は、歴代の3人の王様の遺骨が納められています。3つのチェディはもともとは15世紀頃に建てられましたが、アユタヤの街が破壊されたときに寺院もろともこれらのチェディは破壊され、現在のはチャクリー王朝初期の頃に再建されたものなのです。ここの本尊仏は、高さ16m、重さ171.6kgの黄金に覆われた仏像で、1500年にラマティボディ2世によって造られましたが、1767年のビルマ軍侵略によりアユタヤが滅んだとき、ビルマ軍がこの仏像に火をつけ、金を溶かして持ち去ってしまいました。銅像になった仏像は、現在はバンコクの涅槃仏寺院境内にある仏塔の中に納められています。なお、アユタヤの王宮は木造だったと言われており、現在ではその土台しか残っていません。

 次は、そのお隣にある「ヴィハーン・プラ・モンコン・ボピット」を紹介しましょう。近年に建て替えられた新しい寺院の中に、タイで1番大きいブロンズ製の仏像が安置されています。高さ22m45cm、幅9m55cmのブロンズ製の仏像の中は煉瓦で出来ており、その表面は厚さ8〜10cmのブロンズで覆われています。1591年の修理の際には、仏像の体内から何百体もの小さな仏像が発見されたそうです。ここは大変多くのタイ人の参拝客でいつも賑わっているところです。このブロンズの仏像をプラ・モンコン・ボピットと言うのです。

 次ですが、そこからすぐ近くに「ワット・ロカヤ・スタ」という寝釈迦像があります。1956年に復元された巨大寝釈迦(涅槃仏)像です。寺院は崩壊してしまい、大草原に涅槃仏のみが横たわっています。80歳で入滅した仏陀を表しているそうです。巨大寝釈迦像の大きさは、全長28m、高さ5mあり、涅槃仏の両足の指の長さはすべて同じです。徳の高い高貴な方は、足の指の長さはすべて同じと言われているようです。ここは寝釈迦像のみで囲いも何も無く、涅槃仏の像の後ろ側の寺院はすべて崩壊されて廃墟となっています。

 同じくワット・プラ・スィー・サンペットのすぐ近くに「ワット・プラ・ラーム」という遺跡があります。初代ウートン(ラーマティボディ1世)王の菩提寺です。1369年にウートン王が火葬され、その遺骨を納めるために2代目のラーメスワン王が建立しました。15世紀から幾度も修復されて来ましたが、1767年にビルマ軍の侵攻によって破壊されました。現在は4基のチェディと、巨大な塔室と、ナーガ、ガルーダ、遊行仏、仏立像などの壊れた石像が残っているのみです。ここのプラーン型のチェディは漆喰による仏像の彫刻が美しく、一見の価値があると思います。道路の向こう側、つまり北側の広場にはブロンズのウートン王像がありますが、これは1970年に建立されたものです。

 「ヴィハーン・プラ・モンコン・ボピット」や「ワット・プラ・ラーム」周辺は、アユタヤへの観光客で1番賑わう一帯で、路上でのゾウによる散策なども行われています。露店の屋台なども多く、終日、観光客の切れることはありません。

 次は、そこから少し東へ行ったところにある「ワット・プラ・マハタート」の紹介です。この遺跡は観光客に人気の場所の1つです。13世紀の重要な寺院の1つで、仏陀の聖骨を埋葬するために1374年に3代目ボロム・ラーチャー1世が建立した寺院とされていますが、2代目のラーメスワン王が建立したという説もあるようです。建立当時、黄金色に輝く中央のチェディは高さが44mでしたが、1633年にプラーサートーン王が修復し、50mの高さになりました。しかし、その後のビルマ軍の侵攻によって崩壊し、今では破壊された仏像が残っているだけとなっています。

 1956年の修復の際に大掛かりな遺跡の発掘調査も行われ、この寺院の地下から貴重な宝飾品が多数発見されました。これらは現在、アユタヤ都心部のチャオ・サン・プラヤー国立博物館に展示されています。

 入り口を入って左側奥の方の木の根元に、木に埋没するようになっている仏頭があります。この辺りは神秘的な雰囲気の空間となっていますが、ここには終日、観光客が絶えることが無いようです。仏頭が埋没した木の向かって左側で、仏頭よりも頭が低くなるように注意しながら座って仏頭と共に記念写真を撮っている人を多く見かけます。と言いますのは、近くに「仏像の頭部より上に立たないようにお願いします」と日本語による注意看板が立てられているからなのです。また、入り口近くの塀の上には大きめの仏頭が1つ固定されており、敷地内には至る所に頭の無い沢山の仏像などが見うけられます。

 次は、そのお隣の遺跡である「ワット・ラーチャブラナ」です。1424年に建立された寺院で、8代目の王が王位継承を争った兄2人へ建ててあげたものです。仏塔の跡もいくつか残っており、ビルマ軍の侵略によるアユタヤ陥落の際に頭や腕を落とされた仏像も敷地内には沢山見かけます。1958年の修復の際に沢山の宝物類が発見されましたが、これは現在、アユタヤ中心部にあるチャオ・サン・プラヤー国立博物館に納められています。

 この後は、アユタヤの島の外側の遺跡の紹介になります。

 最初に「ワット・チャイ・ワタナラーム」ですが、ここは島の南西側でチャオプラヤー川沿いにある大きな遺跡です。傷み方も比較的少ない大変きれいな遺跡群で、アユタヤでライトアップが行われている5ヶ所の寺院のうちの1つですが、外国人には比較的無名の遺跡のようです。しかし、私は多分、ここがアユタヤでは1番立派で巨大な遺跡ではないかと思っています。ここにある仏像のすべてが破壊されていて、首を切り落としたものや、肩からバッサリと切られたものなどが多かったです。ここは、一見の価値があると思います。

 次は「ワット・ヤイ・チャイ・モンコン」です。アユタヤの島の外で、東側に位置します。1357年、初代ウートン王がセイロン(スリランカ)留学中に、セイロンから戻った修行僧たちのために建立したアユタヤで1番古い寺院です。この寺院は、タイの人々の参拝でも大変な賑わうところです。ここには、アユタヤ最大級の仏塔である72mの戦勝記念の仏塔があります。アユタヤに独立をもたらした19代ナレスワン大王が、1592年にビルマの皇太子とゾウの上での一騎討ちで勝利したことを記念して建立されたものです。戦勝記念のチェディ(仏塔)を囲むように、何十体もの整然と仏座像が並んでおり、この様子は見ていて大変壮観です。

 この戦勝記念の仏塔を建てるときに、1569年にアユタヤを占領したビルマ王が建てたワット・プーカオ・トーンよりも高い塔を建てようと試みましたが、結局、わずかにおよばなかったそうです。現在、アユタヤでは2番目に高いチェディとなっています。この寺院は、別名をチャオプラヤー・タイ寺院とも呼ばれる、アユタヤ期最後の寺院でもあります。そして境内の一角には、巨大な寝釈迦像(涅槃仏像)が横たわっており、いつも人々のお参りで賑わっています。

 次に島外の南側には「日本人町」があります。ご朱印船貿易などで活躍した日本人が町を作って住んでいたところです。日本人町の中には、1990年にアユタヤ歴史研究センターの別館が建てられました。ここにはアユタヤ王宮の模型も展示されています。

 山田長政は、日本人町の頭領として日本との貿易を取り持ち、アユタヤ兵としてビルマとの戦いにも参戦したそうです。その活躍は、日本人町の町長であった山田長政が22代ソングタム王からオークヤー・セナビムックの爵位を与えられるほどでした。一説によりますと、山田長政は王位継承争いに巻き込まれてナコン・シータマラートに遠征して反乱軍を平定した後、同地で毒殺されてしまったと言われています。同地は、1941年12月8日の太平洋戦争での日本軍のマレー半島上陸地点の1つでもあり、何か奇遇を感じるのは私だけでしょうか。日本人町は18世紀の初め頃までは大変栄えており、最盛期には2千人から3千人位の日本人が住んでいたようです。徳川家光の時代に鎖国令が出されるまで繁栄していましたが、鎖国令が出た後はご朱印船貿易も無くなり、日本人町は自然消滅していきました。

 そのお隣にあるのが「ワット・プラチャオ・パナンチェン」です。アユタヤが首都になる少し前の1324年に建立された寺院で、ビルマ軍との戦いから奇跡的に残ったということで、縁起の良い寺院としてタイの人々の厚い信仰を集めています。高さ19mの黄金仏の座像がご本尊となっており、いつも大勢の参拝の人々がやって来ています。

 以上、簡単にアユタヤの観光ポイントのご紹介をいたしました。この中で私は、日本人向けの観光としては「ワット・プラ・スィー・サンペット」、「ワット・プラ・マハタート」、「ワット・チャイ・ワタナラーム」、「ワット・ヤイ・チャイ・モンコン」、「日本人町」の5つを特に推奨しておきたいと思います。時間を掛けて全部周られるのがベストですが、私の推奨の5つは特にあなたの好奇心を惹き付けるだろうと思います。

 カンチャナブリからはスパンブリ行きの路線バスが出ており、終点でアユタヤ行きに乗れば、路線バスでも合計5時間前後の旅でアユタヤへやって来ることができます。また、カンチャナブリから路線バスで水上マーケットへも行けますし、ラチャブリ行きのバスで終点まで行き、そこでチャアム、ホアヒンなどへ行く路線バスに乗り換えることもできます。

 カンチャナブリへ行ったらバンコクへ戻らないと何処へも行けないとお思いの方がいらっしゃるようですが、カンチャナブリバスターミナルからこのような近県行きのバスが出ており、ゲストハウス街からはタイ各地行きのマイクロバスも出ています。

 世界の宿場町であるバンコクのカオサンロードへは、カンチャナブリのゲストハウス街から毎日1便出ていますし、バンコクの南バスターミナルへでしたら朝4時から午後7時まで、15分おきにカンチャナブリバスターミナルから高速バスが出ています。カンチャナブリはそんなに不便なところではないのです。




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