このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
おもしろトピックの家
おもしろトッピク(16)
: 通勤電車と弁当
先日通勤電車の中で弁当を食ってる人を見た。平日の午後二時、京浜東北線の車内である。そのサラリーマン風の若者は、実にうまそうに食っていた。
私は昨年の春(2000年)に帰国し、電車(旅行用の長距離電車ではなく、首都圏の通勤用の電車である)の中で、飲み食いする人を何人か見た。非常に驚いた。缶コーヒーやジュースを飲むのは、もはや珍しい光景ではない。サンドウィッチやおにぎりを食べているお坊ちゃん、お嬢ちゃんもいる。そして、弁当を食べる若者を私はついに見たのだ。
別に通勤電車の中で弁当を食べてはいけないという規則はないから、とがめたり、文句を言ったりする人はいない。しかし、通勤電車の中でよく弁当が食えるなあとまず思う。これが普通の神経だろう。駅のホームのベンチでだって弁当はなかなか食えるもんじゃあない
。
更に言えば、衆人監視の中で、弁当をほおばるという神経がすでに異常なのだ。「ものを食う」というのは、「欲求を満たす」ことである。「欲求を満たす」ことは恥ずかしいことで、なるべく他人に見られないようにするものだと私は思う。堂々と「欲求を満たす」のは文明人のすることではなく、禽獣(きんじゅう)のすることなのである。現に、性行為や排泄行為を人前でする人はいない。これは元々隠し事なのだ。
したがって、人前で抱き合ったり、キスしたりするのは、禽獣の行為なのである。(禽獣ですぞ!)決して、教養ある文明人のすることではないのだ。子供は人前で排泄行為をするのが許されている。それは彼らが禽獣だからである。
川越線・川越駅にて
103系電車
昔、山手線を走っていた
なぜ通勤電車の中では飲み食いをしないのかと言えば、「場違い」だからである。通勤用の電車では飲み食いをしないというのが、暗黙の了解なのだ。
長距離の旅行用の電車では食事をしてもなんら違和感はない。食事の時間に電車の中にいるのだから、何か食べざるを得ないからだ。いやいや、これは旅行という大状況があるので、特に許されるのだと考えたほうがいいだろう。
通勤用の近距離電車や中距離電車の中は、やはり「場違い」であろう。中距離電車のクロスシート(向かい合いの席)などでは、夕方の帰宅時にビールや酒を飲んでる人がいるが、これもあまり感心しない。(酒を飲むだけなら許されるのかもしれない。)
「ものを食う」という行為も本来は家でひっそりとするべきものであった。ただ、これは社会が発展し、人の交流が盛んになってきて、家でひっそりというわけにもいかないので、堂々と人前で食べることも、許されるようになった。
しかし、それでも条件がある。「ものを食べていてもおかしくない」情況の中でものを食べるのである。食堂などがそれであろう。食堂だけが許された唯一の「禽獣の空間」なのである。ものを食べている時の顔や姿は醜いので、他人には見られたくないと感じるのが文明人である。その辺がきわめて鈍感になってきたのだ。
なぜ、こんなことになったのだろうか。
大きな理由の一つは「携帯電話」だろう。携帯電話は空間を破壊した。電話やテレビは空間や距離というものを著しく短縮はしたが、破壊はしていない。ところが、携帯電話は「空間の本来の役割」を破壊してしまったのだ。
一歩家の外へ出れば、そこは「公衆」の空間である。その「公衆」の空間は、必ず「本来の役割」というものがあった。道は歩くところ、バスの中は移動するところ、喫茶店は静かにお茶を飲むところ、というように。もちろん、何パーセントかの逸脱はあったにしても、原則は守られてきた。
しかし、携帯電話はまことに勝手に図々しく容赦なく「公衆」の中に「私用」を運んでくる。行き着く先は「公」と「私」の混在である。数年後には、通勤電車の中で携帯電話で話をするのは常識となるだろう。そして、通勤電車の中で弁当を食うのも、そのうち主流になるかもしれない。「通勤電車で食べる朝食メニュー」なんていう週刊誌の特集記事が花盛りになるかもしれない。また、「朝マック」ならぬ、「朝電マック」「朝電弁当」なんてものも出てくるかもしれない。
もう一つの大きな理由は、「ま、このぐらいはいいか」という安易な妥協である。日本という国は、宗教や道徳が個人の生活を縛るほどは強くないので、社会規範(下世話な言い方をすれば、「世間体」「世間の目」である)が崩れ始めると、人の行動は修正が利かず、一気に崩れていきがちである。このときの決まり文句が「ま、このぐらいはいいじゃないか」である。
これが出ると、概ね「許可・許諾・承認」という結果になる。電車の中で缶コーヒーを飲んだり、おにぎりや弁当を食ったりするのを見て、大勢の人が、「まあ、いいか」と思い始めているのである。
一見ものわかりがよさそうな印象を与えるが、実はこれが大きな落とし穴で、非常に危険な要素をはらんでいるのである。このまま放置すると、しまりのない社会、だらしのない社会になっていく恐れがある。(了)
八高線・高麗川駅にて
キハ102系(気動車)
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