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中国(杭州・紹興・上海)−4 岳廟編

10時05分 : 岳廟
 
 平湖秋月から岳廟にはすぐ着いたように記憶していたのだが、メモを見ると40分もかかっていたようだ。岳廟は西湖十景には含まれていない。

 岳廟とは、南宋の武将である岳飛(1103−1141)の墓である。大学受験は世界史だったのだが、岳飛という名は全然記憶が無い。そこで、宋の時代を用語集等で調べてみた。以下概略である。

907唐滅亡。五代十国に分裂する。
960宋(北宋)が統一。
1126靖康の変。金(女真族)に滅ぼされる。
1127靖康の変を免れた高宗が南宋を建国。首都は臨安(現杭州)。
1141岳飛、秦檜(しんかい)にとらえられて獄殺される。
1142秦檜、金と屈辱的和議を結ぶ。
1234オゴタイ=ハン(チンギス=ハンの第3子)、金を滅ぼす。
1271フビライ=ハンが元を建国。首都は大都(現北京)。
1274フビライ=ハン、日本に遠征(元寇)。
1279フビライ=ハンが南宋を滅ぼして中国を統一。

 岳飛は、勇猛果敢な武将であった。農民の出身であるが、南下してきた金軍との交戦や国内の反乱軍鎮定に功をあげて、しだいに昇進した。金も彼の軍の精強を恐れたといわれ、また学問を好み武将としては異色の存在であった。しかしこれが軍閥たちの反感を買い、金との講和の成立を推進していた秦檜に邪魔者視され、1141年に無実の罪で獄死した。

 岳飛の冤罪は後に晴らされ、1221年に廟が建てられた。

岳廟の入口

 岳飛の像は、彩色された大きなものである。この像の素材は何か、いつ頃作られたものなのかは、インターネット等で調べてみたが不明である。

岳飛像

 別の建物には、岳飛像がもう一つある。「民族の光」と称えられており、岳飛が漢民族に敬愛されているのが分かる。

岳飛像

 岳飛とその息子の墓は、お参りする人が絶えない。写真には写っていないが、墓の両脇には武将像が並んでいる。

岳飛と息子の墓

 岳飛の墓の向かいには秦檜と秦檜夫人、家臣2名の銅像ならぬ鉄像がある。銅は高いので、値段の安い鉄にしたに違いない。

右 : 秦檜
左 : 秦檜の夫人
秦檜の家臣2名

 4体の鉄像は鉄格子の中でひざまずき、手を後ろで縛られ、岳飛に向かって謝罪している。その姿は、一国の宰相としてはあまりにも惨めである。秦檜と家臣2名はともかく、秦檜夫人に何か罪があるのだろうか。
 この像もそれなりに文化的価値があり、「つばを吐きかけるな」という掲示はあるものの、観光に来た中国人は手で像の頭を叩いていた。秦檜はいまだに憎まれているようだ。

 秦檜(1090−1155)は、有能な官僚として出世した。靖康の変では捕らえられて皇帝と一緒に金まで連行されるが、3年後に帰国。その後宰相となり、和平派の代表として主戦論者と対立する。1141年に岳飛を獄死させた後に1142年に金と屈辱的な内容の和議を結ぶ。その後1155年に死ぬまで宰相を務めた。

 つまり、秦檜は勇猛な武将である岳飛を無実の罪で獄死させ、異民族と屈辱的な内容で和議をしたということで売国奴扱いされているのである。極度に金を恐れ、戦う前に異民族に降伏した弱虫といったところか。

 しかし、このような像を見てしまうと、秦檜に同情したくなってしまう。
 秦檜は現実主義だったのかもしれない。彼は金に連行されたときに、「これは戦ったら負ける。」と身にしみて感じたのではないだろうか。岳飛が勝ったのはあくまでも局地戦で、全面戦争ではとても勝てないと悟っていた。戦って国が滅びるよりも、屈辱的(南宋の皇帝は「臣」と称した)でも和議を結んで国が残るほうを取った。この和議のおかげで南宋は100年以上も生き延びた。金よりも生き延びた。
 
 死してなお辱めを受けるとは秦檜も思っていなかったに違いない。


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