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中国(杭州・紹興・上海)−8 西湖十景編(その5)

< ⑨柳浪聞鶯 >
 15時10分 : 柳浪聞鶯
 
 柳浪聞鶯は西湖東岸の公園である。春に柳の芽がふいて、鶯(ウグイス)が鳴く様子からこの名が付けられたそうだ。鶯の声に心を奪われるのは、日中共通のようである。
 杭州市と岐阜市は「日中不再戦」の碑を園内に立てたらしいのだが、残念ながら発見することが出来なかった。

柳浪聞鶯
  
  前ページ の雷峰塔から東に南山路を歩いていくと、湖畔からは離れてしまう。湖畔を歩くためには、歩行者専用の道を歩かねばならない。下の写真をご覧になると分かると思うが、自転車も通れない。ここはのんびり歩くには最適の場所である。柳が風に吹かれると、何とも言えず美しい。
 ベンチでのんびりと夕陽が沈むのを見ていたい気もしたのだが、次の予定があるのでひたすら歩き続けた。

湖畔の道

 柳浪聞鶯を過ぎると、湖浜路である。ちなみに湖浜路も、湖畔は歩行者専用である。したがって、西湖の東岸はほとんどの場所が歩行者専用であり、自転車や自動車はちょっと離れた南山路を走ることになる。
 ホテルで入手した杭州のガイドブックを見ていたところ、湖浜路にマルコ=ポーロの銅像が有るらしい、ということが分かった。

 世界史用語集では、マルコ=ポーロは次のように紹介されている。

マルコ=ポーロ (1254〜1324)
イタリアのヴェネツィア出身。父・叔父にしたがって1271年出発、陸路を通り75年に大都(虎羽注:現在の北京)に到着、フビライに仕える。90年泉州を発し、南海をへて95年帰国。96年ジェノヴァで捕らえられ、獄中で「世界の記述」を口述、文人ルスチアーノが記述した。
「世界の記述(東方見聞録)」
マルコ=ポーロがジェノヴァの獄中で1296〜98年に口述、同じとらわれの身のルスチアーノが記述したもの。99年頃に完成。13Cの内陸アジア・中国・南海を詳細に記述。日本をジパングとして紹介した。西欧人の東方への夢をそそった。

 湖浜路は1KM以上有るのだが、具体的な銅像の場所までは地図に記載されていない。しかも、ガイドブックの写真をみると、左右に並木があるので、湖畔ではなさそうである。湖畔を歩きながら、ときどき一本隣の並木道を、銅像を探しながら歩くことになった。
 これが、なかなか見付からない。銅像を見つけて喜び勇んで歩いていくと、日中戦争時の中国軍人を称える銅像で、がっかりした。ひょっとしたら、通りすぎてしまったのか?疲れていることもあり、戻るのは御免である。とりあえずスタート地点までは歩いていこうと思った。
 何回目かに湖畔から右に折れて並木道に入ったときのこと。ついに銅像を発見した。700年以上前の、旅人の銅像がこれだ。

マルコ=ポーロ

16時00分 : ゴール

 昼食も取らずに歩き続けて約7時間、ついに一周歩ききった。感無量である。

夕暮れの白居易像夕暮れの西湖



< ⑩双峰挿雲 >
16時30分 : 双峰挿雲

 一周歩ききって休む間もなく、ホテルに急ぐ。レンタサイクルを借りて、霊隠寺に行くためである。「えっ、今から借りるんですか?」と言いたげなホテルマンの視線を無視して自転車を借りた。
 先程は歩いて1時間ほどかかった白堤も、自転車ではあっという間である。

夕暮れの白堤

 西湖を通り過ぎてさらに西に行き、霊隠路に入る。霊隠路を走っていて、偶然に例の石碑を発見したので、慌てて急ブレーキを掛けた。「双峰挿雲」の双峰とは、西湖の西にある南高峰と北高峰のことだそうだが、山がいくつか有るので、どの山か分からなかったというイージーなオチで申し訳無い。

双峰挿雲



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