このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

アンコール遺跡−13 アンコール・ワット編(7・十字回廊)


<十字回廊>

 第一回廊の壁画を見終わると、十字回廊である。その名の通り、通路が交差しているわけだが、「田」という方が正確である。アンコール・ワットは西向きなので東を上にすると、田の上の横線が第二回廊、下の横線が第一回廊だ。
 十字回廊の柱には彩色が残っている。下の写真は、「田」の縦線下部である。

十字回廊

 デバター(女神)は、当時の女官がモデルになったと言われている。妖艶な笑みを浮かべたデバターはアンコール・ワットの壁面の至る所に彫られている。

デバター

 「田」の空白部分は、沐浴場と考えられる4つの聖なる池である。中央祠堂も同様の構成になっているが、地球の歩き方によれば、中央祠堂は天上の聖池、十字回廊は地上の聖池を表しているという。
 スコールがあったものの、第一回廊の壁画を観ている間に晴天に変わり、沐浴場は強烈な日差しで乾いてしまった。もう少し早く行けば水を湛えた姿を目にすることができたのかもしれない。

沐浴場第二回廊の上に中央祠堂が見える。

 十字回廊の柱には、江戸時代の日本人の落書きが残されている。「田」の真ん中の横線右側である。写真では見にくいが、落書きは確かに漢字で書かれていた。
 森本右近太夫は、寛永9年(1632)に、 加藤清正 の家臣だった父の菩提を弔うために四体の仏像を奉納したという。ちなみに第一次鎖国令が1633年で、1639年にポルトガルの来航を全面的に禁止する鎖国令が出された。森本右近太夫は鎖国令の前に来たことになる。当時は朱印船貿易を行っており、東南アジアには日本人町が有った。カンボジアは「柬埔寨」と呼ばれ、プノンペンにも日本人町があったという。タイのアユタヤで山田長政が活躍したのもこの頃だ。
 江戸時代の船で、今ほど正確な海図や情報も無い中で、何ヶ月も掛けてアンコール・ワットまでやってきた勇気には敬服する。当時の日本人はここを「祇園精舎」だと信じて疑わなかったとのことである。インドとカンボジア、仏教とヒンドゥー教の違いはあるけれど、あまり細かい(?)ことは気にしないでいただきたい。
 僕が推測するに、当時の日本の一番大きな建造物は城である。城といえば石垣の上に木造建築である。日本の武士と町人が、これほど巨大な石造建築を目にしたのはおそらくは初めてである。彼らはその大きさに驚き、感動し、ここを聖地と考えたのだろう。

由緒ある落書き


<第二回廊>

 十字回廊の「田」の上の横線が第二回廊である。第二回廊は内部に壁画もないためか、観光客も少ない。

第二回廊

 第二回廊をぐるりと一周すると、いよいよ中央祠堂である。登るのを拒絶するような、急勾配の階段が人々を待ち構えている。

中央祠堂と西北の祠堂



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