このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


中国−4 大連のビル編


 大連は清の時代には一漁村に過ぎなかった。街の開発に着手したのは帝政ロシアである。 前ページ の通り、1898年に清より遼東半島の租借を受けたロシアは旅順に要塞と軍港、大連に商港を建設する。その後、日露戦争後のポーツマス条約で日本が利権を継承することとなり、満鉄による鉄道整備などで街作りを進めていくのである。その後、大連は満州国に組み入れられたと考えていたのだが、これは大きな誤解で、遼東半島は第二次世界大戦が終わるまで日本領であった。戦後中国領となった大連は貿易港として発展し、現在では上海に次いで中国第二の貿易港だそうだ。現在では北方香港と呼ばれている。全市の人口は540万人。市街にはロシアや日本の遺構が保存されている。

 大連の空港から市街へタクシーで向かったが、高層ビルの多さに驚いた。僕は大学4年のとき(1993年2月)に北京・西安・桂林を旅行しているが、そのころは北京でもあまり高いビルはなかった。ビルがあってもやたら頑丈そうな作りで、おしゃれさのかけらもないようなものが多かった。首都北京であっても、路地に入ると、足で蹴飛ばしたら倒れそうな煉瓦作りの家に庶民が暮らしていた。紙幣は外国人用の兌換紙幣と中国人用の人民幣に区別され、観光地の料金も外国人は区別されていた。
 それから8年。香港や台湾には出張や旅行で何回も行ったものの、なぜか中国には行く機会がなかった。もちろん同じ都市ではないので単純な比較は出来ない。それでも、こんなに中国は変わったのか、と思わざるを得なかった。

 
大連駅

 大連での宿泊は駅前のホリデイ・インだ。鉄道マニアの僕としては大連駅の撮影をしなければならないということで、チェックインを済ますとまず大連駅に向かった。これが今回の旅行の記念すべき1枚目だ。これは僕のイメージ通りの中国と言っても差し支えない。駅の構内に入ってみたところ、節約しているのではないかと思うほど照明も暗く、中のベンチには人がうじゃうじゃ座っていて、これぞ中国と言う感じであった。
 ところがだ。道路を挟んで反対側が下の写真である。

大連駅前の勝利広場。午後3時大連駅前の勝利広場。午後9時

 こんなスペースが中国にあるとは思わなかった。夜9時を過ぎてもライトアップされ、音楽が流れ、店がオープンしている。分かりづらいが、右の写真の左のほうにある赤い光はケンタッキーである。広場の向こうはオープンカフェになっていて、ビールやコーヒーを飲むカップルや家族で賑わっていた。広場を歩いている人は少ないが、足元の階段には大勢の人が何することもなく座っていて、なんとなく不気味な感じもした。

 ここで、恒例となりつつある、変わったビルをご紹介したい。
中銀大厦(?) 人民路中華電信 解放路巴里之春(?) 上海路

 繁華街である天津街周辺の写真を撮り忘れてしまったが、たしかに「北方香港」という言葉が大袈裟には聞こえない。最初、「地球の歩き方」でこの言葉を読んだときには、中国人はオーバーなことを言うものだ、と思ったが、それは間違いであった。もちろん海を挟んで夜景が見えると言うわけではないけれど、港町であり、ビルが林立し、人が多いという点は香港に似ていた。

(続く)
 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください