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中国(上海・蘇州・無錫)−3 孫中山故居・周公館・一大会址編
国民党と共産党の歴史をまとめてみた。
西暦 国民党 共産党 1866 孫文、広東に生まれる。 − 1893 − 毛沢東、湖南に生まれる。 1894 孫文、興中会を組織。 − 1905 孫文、東京で中国同盟会を組織。 − 1912 1月1日、孫文が中華民国臨時大総統に就任するも、3月に辞任。袁世凱が臨時大総統就任。 − 1914 孫文、東京で中華革命党を組織。 − 1917 孫文、広東軍政府を樹立するが、内紛が相次ぎ3度断続。 − 1919 中華革命党を中国国民党に改称。 − 1921 − 中国共産党結成。 1924 第一次国共合作 黄埔軍官学校設立。校長蒋介石。政治部主任周恩来。 1925 孫文逝去。 − 1926 北伐開始(1928年12月まで) 1927 蒋介石の上海クーデタ(第一次国共合作の終焉) − 井崗山に紅軍設立 1931 − 毛沢東、中華ソヴィエト共和国臨時政府樹立。首都は瑞金。 1934 長征(内戦 : 1936年10月まで) 1936 西安事件(張学良が蒋介石を監禁) − 1937 第二次国共合作(抗日統一民族戦線成立) 日中戦争勃発 1945 日中戦争終結 国共内戦 1949 蒋介石、台湾に逃亡。台湾国民政府樹立。 毛沢東、中華人民共和国を建国。
< 孫中山故居 >
中国革命の父、孫文。彼は三民主義(民族の独立・民権の伸張・民生の安定)を唱えた。彼は1918年から1924年まで上海に住んでいた。1925年3月、逝去。遺言の一節にある「革命いまだならず。」という言葉は有名である。
孫文像 孫中山故居
ここは、「地球の歩き方」の整理によれば准海路エリアである。この下の周公館と一大会址は歩いていける距離である。孫文がここに住んでいたのは1920年から1924年までであり、下の一大会址で共産党が結成されたのは1921年である。つまり孫文家のすぐそばで共産党が設立されたことになる。
孫中山故居をを訪れたのは9月5日、上海2日目である。ホテルから徒歩15分ほどの距離なので歩いていった。外国人用に英語で説明してくれるということでスイス人医者夫婦(推定50代)と僕の3人で説明を受けた。
< 周公館 >
周恩来は1898年に江蘇省淮安で生まれている。祖父の代まで紹興というから、魯迅と同郷である。1917年から18年にかけて東京に留学し、1920年から24年まで欧州でも留学している。このころ鄧小平も欧州に留学していたというのだから、いかに鄧小平が長生きだったか分かるというものだ。ちなみに鄧小平は1904年の生まれであり、1924年にパリで撮影された旅欧中国共産主義青年団の写真に二人は一緒に写っている。
周恩来は1949年の建国時から1976年まで中華人民共和国の首相を務めている。彼は文化大革命の嵐が吹き荒れても、首相を更迭されることはなかった。そのために不倒翁(おきあがりこぼし)とも呼ばれていた。
周恩来像 周公館
周恩来が住んでいたのは1946年6月から47年3月までなので、孫文とご近所付合をしていたというわけではない。ここは孫中山故居から歩いて5分ほどのところにあるので、上述スイス人医者夫婦と一緒に歩いて探した。その際の旦那さんとの会話が実に印象深いので紹介したい。
旦那 : 「君は出張で上海に来ているのかい?」
虎羽 : 「いや、夏休みです。」
旦那 : 「夏休みは何日間?」
虎羽 : 「5日間です。」
旦那 : 「それは短いな。」
虎羽 : 「お二人は何日間?」
旦那 : 「3週間さ。」
夫婦二人で3週間の外国旅行。そのような生活が日本で有り得るのだろうか?
< 一大会址 >
1921年7月31日に中国共産党第一会全国代表大会がここで開催された。このとき中国全国の党員数は57名。その中から13名の代表が出席し、湖南省の代表として毛沢東が出席している。
毛沢東は1893年の生まれである。1949年に中華人民共和国国家首席を務める。大躍進政策が失敗して1959年に国家首席は辞任したが、共産党首席の座は維持した。1966年からの文化大革命では、紅衛兵の学園闘争を「造反有理」として支持し、国中を混乱に陥れた。毛沢東の死後、四人組が逮捕されて文化大革命は終結した。
一大会址
この内部に第一回会議で使用された部屋があり、テーブルや椅子も保存されている。中にはガードマンが座っていて、撮影禁止なのは残念である。
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