このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

韓国−12 昌徳宮編(その3・楽善斎)

  昌徳宮ツアーの最後に見学するのが楽善斎である。装飾の多い他の建物とは違った地味な建物が、昌徳宮の隅にひっそりと建っている。

楽善斎

 ここに、平成元年まで、ある日本人女性が住んでいた。女性の名は、李方子という。恥ずかしながら、僕も昌徳宮に行くまで、李方子さんのことは知らなかった。もちろん、世界史用語集にも載っていない。ガイドさんの話を聞いて興味を持ち、インターネットで調べてみたところ、深い感銘を受けたのでここに紹介する次第である。

 李方子は、梨本宮方子(なしもとのみやまさこ)として誕生した。大正5(1916)年8月3日朝、新聞を広げた方子は、自分が朝鮮の皇太子である垠殿下に嫁ぐことを知った。垠皇太子は明治40(1907)年に日本に留学していた。明治43(1910)年に大韓帝国は日本に併合されたが、李王家は厚遇を受けていた。明治天皇も垠殿下を可愛がっていたという。
 方子は昭和天皇(当時は皇太子)のお妃候補の一人だったが、一説によれば、方子が子供を産めない体であると診断されたため、大韓帝国李王朝にピリオドを打つという策略があったともいう。二人の結婚は大正9(1920)年であった。
 子供が産めないとされた方子であったが、男子を結婚2年後に産む。しかし、一家での韓国(当時は日本だが)への里帰りの前日に、その子が急死。一説によれば、毒殺であるという。昭和6(1931)年に、方子は再度男子を出産した。
 昭和20(1945)年に日本は敗戦を迎え、李王家の財産も没収されたが、夫婦は日本に住み続けた。垠殿下は祖国で内戦が起き、38度線で分断されてしまったことに心を痛めていたという。昭和32(1957)年に垠殿下は脳血栓で倒れる。昭和38(1963)年11月22日、垠殿下と方子妃は大韓民国 に帰った。垠殿下が皇太子として11歳で故国を後にして実に56年が経っていた。ベッドに寝たままの殿下は、空港からソウルの聖母病院に直行した。
 当時の韓国は反日教育が徹底されており、方子もさまざまな嫌がらせを受けたという。頼りにするべき亭主の垠殿下は寝たきりで意識も無い状態で、昭和45(1970)年に亡くなってしまう。方子はその後も韓国にとどまり、障害児の教育に尽力した。方子が晩年を楽善斎で過ごしたのは確かなのだが、いつから住んだのかという点については、調べてみたものの残念ながら分からなかった。
 平成元(1989)年、方子妃は87歳で逝去された。葬儀には多数の韓国人が参列したと言う。

 日本と韓国の間で激動の生涯を送った一人の女性。このような女性を両国の歴史の授業で教えるべきであり、そうすれば両国の間にある相互不信や誤解が、完全には無くならないにせよ、少しでも低くなるのではないかと思う。



 

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