2001年、韓国で「明成皇后」というドラマが放映され、年間最高視聴率を記録した。ドラマは、悪辣な日本公使・三浦梧楼が浪人をけしかけて朝鮮の王宮に侵入、救国の希望である明成皇后(閔妃)を無残に殺害する、というもので、ドラマだけでなくサントラまで大ヒットした。
それでは、事実はどうなのか。
かつて、韓国では「閔妃のような女」といえば女性に対する最大の侮辱であったという。それほど閔妃は朝鮮を滅ぼした王妃として人民の侮蔑の対象であった。
閔妃は王妃になって以来、高宗の愛妾たちをことごとく捕らえて拷問したり殺害したりした。国家の金を湯水のように使ったために朝鮮の国庫は破綻し、全ての公務員への給料が払えなくなった。そのために官吏はいっさい仕事をせず(給料を貰えないのであれば当然だが)、私腹を肥やすことに精を出した。
1894年、東学党の乱が勃発すると、その鎮圧を口実として清と日本が朝鮮に出兵。日本政府は、清と朝鮮政府に施政改革と朝鮮の独立を提案したが、清と朝鮮政府はこれを拒否。日本軍は朝鮮の王宮を占領し、改革派政府に交代させた。
日清戦争終了後の三国干渉で日本が朝鮮から撤収すると、閔妃はロシアをバックに再び政権を掌握し、改革派政府の成し遂げたあらゆる改革の成果を無にした。そこで、当時朝鮮革命勢力を率いていた朴泳孝は閔妃を排除することを決意した。彼は日本政界の実力者に閔妃除去の必要性を訴えるとともに、朝鮮に残っている同志に密使を送った。彼の説得により、日本側が軍事行動を受け持つこととなり、多くの朝鮮の革命家が参加した。
1895年8月20日、日本を中心とした革命軍は景福宮を急襲し、閔妃を殺害。時を同じくして、大院君(国王高宗の父)は次のようなソウル市内に次のような掲示をした。
「近年、閔妃を中心とする一派が善良なる者を排斥し、狡猾なる者を用いて維新の大業を中断した。ゆえに500年の宗社(国家)は一国の猶予もなき危機に直面している。余は宗臣としてこれを座視できない。したがって、このたび入闕して大君主(国王高宗のこと)をお守りし、邪悪な輩を追い出し、維新の大業をなして500年の宗社を守ろうとするものである。民は案ずることなく生業を守り、軽挙妄動してはならない。万一、民と軍人の中に余のゆくてをさえぎる者あらば、これは大罪ゆえ、後悔なきようにせよ。」
閔妃の死んだ数日後、国王高宗も、閔妃を非難する勅書を発表している。高宗以外の誰かが文面を考えたものかもしれないが、それでもその勅書は、当時の世論の支持を受けていたとのことである。 |