このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

1. おくのほそ道(序章)  

 日本を代表する紀行文といえば、何と言っても「おくのほそ道」である。旅行好きの大先輩に敬意を表して、このコーナーは「おくのほそ道」から始めることとしたい。


< 上野 >
 松尾芭蕉は、現在の三重県上野市に1644年に生まれた。上野市には芭蕉関連史跡が多く残されている。

芭蕉像
近鉄伊賀線 上野市駅前
三重県上野市
芭蕉翁生家跡

伊賀上野城俳聖殿
一層目八角形、二層目円形という個性的な形をしている。

くのいち電車
上野市駅



< 序章 >
 松尾芭蕉が門人曾良を伴って江戸を出発したのは元禄二年(1689)の三月二十七日のことであった。それから東北から日本海側に出て、北陸を歩き、終着地大垣に着いたのが八月二十日。五ヶ月間で2400キロを歩き通したこととなる。
 執筆開始が元禄四年十月、原稿が完成したのは芭蕉が没する元禄七年と言われている。「おくのほそ道」を400字詰め原稿用紙に直すと、40枚程度らしい。芭蕉はこの40枚と、「五・七・五」の十七文字に、約三年の月日を費やした。その間、何回推敲したのだろうか。不朽の名作とはこれだけの時間と労力を掛けて生み出されるものなのかもしれない。

 「おくのほそ道」の冒頭の文章を、ここで確認しておきたい。

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。船の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂白のおもひやまず。海浜にさすらへて、去年の秋江上の破屋に、蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関こえむと、そゞろがみの、物につきてこゝろをくるはせ、道祖神の、まねきにあひて取るもの手につかず。もゝ引の破れをつゞり、笠の緒付けかへて、三里に灸すゆるより、松島の月先づこころにかゝりて、住める方は人に譲りて、杉風が別墅(べっしょ)に移るに、

草の戸も住み替る代ぞ雛の家

面八句を庵の柱に懸け置く。


< 深川 >
 芭蕉は当時深川に住んでいた。大正6年(1917)の大津波の際に「芭蕉最愛の石の蛙」が出土し、大正10年にこの地が「芭蕉庵古池の跡」と指定された。現在「芭蕉稲荷神社」となっている。江東区は芭蕉の業績をたたえ、すぐそばに芭蕉記念館を設立し、関連資料を展示している。

芭蕉庵史跡展望庭園
東京都江東区
都営新宿線・都営大江戸線 森下駅
採茶庵跡
東京都江東区
都営大江戸線 清澄白河駅



 参考文献:「おくのほそ道 永遠の文学空間」 堀切 実 NHKライブラリー


 

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