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10. 竜馬がゆく(その2) 土佐編  


 坂本竜馬関連の場所紹介の第一回は、やはり生まれ故郷の高知から始めたい。

< 高知城 >

 坂本家では、寛文年間、四代八兵衛守之が高知本町筋三丁目にうつり、酒造業を創業して栄えた。五代、六代と巨万の富を積み、ついに七代八平直海のときに稼業を弟にゆずり、郷士の格を買ってもとの武士にもどった。領知は百九十七石、禄高は十石四斗である。屋敷は本家の才谷屋と背中合わせになっている。
 坂本という、土佐にはめずらしい苗字は、家祖左馬助光春が、琵琶湖のほとりの坂本城に在城していたことにちなんだもので、紋所は、明智の桔梗である。

高知城
現存する十二の旧天守閣の一つ。残念ながら国宝ではない。
土讃線高知駅
高知県高知市


< はりまや橋 >
 お馬というのは城下きっての美人で、五台山のふもとで鋳掛屋をいとなむなにがしの娘だった。父が早世したために、母が、五台山竹林寺の諸僧房に出入りし、僧のために洗濯を請け負って日銭をかせいでいたが、お馬は、毎日僧房へのせんたく物をとどけにゆく。
 竜馬とは同年で、お馬の母がむかし坂本家の女中をしていたため、ときどき、屋敷にきたこともある。竜馬は、この評判の美女が意外に背たけがたかく五尺二寸はあり、髪は赤かったことをおぼえている。
 彼女の美貌は城下の若侍のあいだでも評判で、お馬が坂本家にくると、竜馬の友人たちは、どこかでかぎつけるのか、用もないのに屋敷にあそびにきた。
 城下の若侍だけではなく、五台山竹林寺の僧房の若僧もさわいだ。お馬と交渉をもつためにわざと白衣をよごしてせんたくに出す僧もいたし、つけぶみをする者もいた。
 純信という若僧がいた。
 かれはお馬の歓心をかうために、城下でもっとも人のにぎわう播磨屋橋のたもとの小間物屋「橘屋」で馬の骨のカンザシを一つ買った。当時、藩庁から奢侈禁止令が出ていておなじカンザシでも、サンゴは禁制品になっていたのである。
 これが、城下にひろまった。

92年9月5日のはりまや橋
その小ささから、日本三大がっかりにランクインしたのもうなずける。なにしろ、最初は見逃した。

2001年12月23日早朝のはりまや橋。
欄干が若干大きくなった。
しかも、橋の下に川が流れるようになっていた。

純信とお馬の電話ボックス。高知駅前に有ったと記憶しているが、2001年に行ったら無くなっていた。本人たちもこんなに長く語り継がれると思っていなかったに違いない。


< 桂浜 >
 竜馬は、酒に飽いた。
(寝るか)
 ムシロをかぶって横になった。宿の女中がふとんを用意してくれたが、それを用いるほどでもない。砂が、日中の熱を吸い込んでほどよく温かいのである。
 浜で寝ることには馴れている。砂上の宴は土佐の若侍のならいなのであった。日根野道場にいたころ、お盆や中秋の名月の夜には、なかまとよく桂浜に出掛けた。浜辺にムシロをもちだし、終夜、酒をのむ。
 おもいだすと、この月ほど、豪儀な月はなかった。
 東は室戸岬、西は足摺岬が、海上三十五里の太平洋をだきかかえ、月はその真中を茫洋と昇ってくる。竜馬がこのさきどの土地を転々しようとも、おそらく終生わすれられないものだろう。そのころ、道場の仲間が唄った。

 みませ みせましょ
  浦戸をあけて
   つきの名所は桂浜

坂本竜馬像
2001年12月撮影
はりまや橋からバスで30分程度

坂本竜馬像
1992年撮影

桂浜
1992年撮影
桂浜
2001年撮影

 僕が生まれて初めて、一人で宿泊有りの旅行に出掛けたときの目的地が、ここ高知県である。もちろん「竜馬がゆく」を読んだ記念である。このときに一人旅の面白さに目覚め、現在に至る。
 

 

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