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16. 竜馬がゆく(その8) 新婚旅行編  




 寺田屋で負傷した竜馬は伏見薩摩藩邸に運び込まれた。そこには、救助を求めに行ったおりょうが待っていた。
 おりょうは、懸命に看護をした。
(これはかなわぬなあ)と竜馬はおもった。おりょうの甲斐しさや心づくしが、一つ一つ竜馬の心にしみ入るように入ってきて、ツンと鼻の奥が痛くなるような感情の発作をおぼえてしまう。
 人間関係はカラリとしたほうがいい。
 とおもっている竜馬には、にが手な感情である。口では冗談で、
「おりょう、そう優しくするな。おれは惚れなおさざるを得んわい。」
とか、
「おりょう、もっと手を抜け手を抜け。こうもべたべた看病されるとおれはやりきれん。」
とかいっているが、真実、竜馬の心はおりょうに対して急に濡っぽくなっている。
(男などは、えらそうにいってもよわいものだ)
と竜馬がおもうのは、身のまわりのことであった。体が、不自由になっている。厠へゆくにも、おりょうの支えがなくては、ひとりで歩ききれない。鼻水がでてきても、
「おりょう、洟だよ。」
と、情けないが言わざるをえない。おりょうが顔に布をあてがって、ツンとかんでくれるのである。
 それが看病というものだとは言え、もはやおりょうが居なければ竜馬は日常のこともできないようになってしまった。それが竜馬のおりょうへの気持ちを、寺田屋事変の前とは質的に変化させることになった。
「此竜女が居ればこそ、竜馬の命は助かりたり。」と、竜馬は兄権平へ書き送っている。幕吏襲来を告げた彼女の果敢な行動とその後の看病が、竜馬の心情を深めさせた。 

 おりょうは台所の土間で、竜馬の包帯をあらっていた。
「おりょう、京の薩藩邸に移る。」
と、竜馬はかまちに立って言った。
「京へ?」
「顔をあげ、じっと竜馬をみつめた。両眼に涙があふれたのを竜馬はみた。おりょうにすれば竜馬は京へ去る、自分は伏見の寺田屋に残る。せっかくここ十日ばかり一緒にくらせたのに、という想いが一瞬胸をかけめぐったのであろう。
 竜馬はおりょうの涙をみてあわてた。というより、この男はこの男なりに感動した。大いそぎで、
「おまえも、ゆく」
と、言い、行くだろうな、と念を押した。おりょうは顔を伏せ、
「うん。」
とこっくりうなずいた。あとは伏せたっきりでいる。

(中略)

「坂本様」
と絶句して、おりょうは泣き出した。着物などのことより、連れて行ってやる、という言葉が、泣くほどうれしかったのである。
「泣くな。」
竜馬はあわてて立ち去ろうとし、二、三歩行ってから、
「おりょう、一生だぜ。」
「えっ」
「ついて来いよ。」
 気恥ずかしかったらしい。捨てぜりふのようにいって、そそくさと立ち去った。
 おりょうは、両手に水をしたたらせて立ちあがり、ぼう然と立ちつくした。
(一生。・・・・・・)
 男女のあいだで、これほど重い言葉はないであろう。
「坂本様、一生ですか。」
 おりょうは、小さくつぶやいている。
 

 幕末、西郷は、幕府が勢いをもりかえした二つ(安政の大獄の時期と蛤御門ノ変のあと)の時期に、島にいた。もしこの時期に島にいなければ、西郷は、おそらく殺されていたであろう。
 それを思うと西郷は、
 なにごとも天だ。
 と、大きなものから受けている恩恵を思うのである。天が、西郷の命を温存させるために、かつその命を歴史の中で有効に使うために遠島の運命をあたえたのであろう。
 西郷は、そう感ずるようになっている。
 (だから竜馬も)
 と思うのだ。幕府の追及がはげしいのをいわば「天意」とみて、薩摩の山奥に身をかくさしめるほうがよいのではないか。
 一方、竜馬は別のことを考えていた。
 新婚旅行
 である。この男は、勝からそういう西洋風俗があるのをきいている。いっそのこと、風雲をそとに、鹿児島、霧島、高千穂と、おりょうを連れて新婚旅行にまわるのも一興ではないか。
 そうきめた。
 早速、おりょうを呼び、そのことを宣言した。なあ、おりょうよ、と竜馬はくすぐったそうにいうのである。
 「縁結びの物見遊山だぜ。」
 この風俗の日本での皮切りは、この男であったといっていい。

 
< 坂本竜馬 新婚の旅碑 >
 竜馬とおりょうは、宮崎県の高千穂や、鹿児島県の塩浸温泉に出掛けており、新婚旅行の碑が鹿児島市に立てられている。それほど大きくはないミニ銅像である。

坂本竜馬 新婚の旅碑
鹿児島本線西鹿児島駅
甲突川沿いに歩くと結構かかる。
鹿児島県鹿児島市

 ずいぶん長く引用した割には、写真が一枚しかなくて恐縮である。
 好きな場面なので、つい引用してしまった。プロポーズの場面などはきっと司馬遼太郎の創作だろうが、それでも竜馬ならこんな風に言ったに違いない。こんなかっこいいプロポーズに憧れる、31歳独身の春。

 

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