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17. 竜馬がゆく(その9) 第二次長州征伐編
幕府と長州藩の間に戦争が始まっていた。竜馬は社中の軍艦に乗って、長州藩を助けに行く。
そこへ、オテントサマ号に搭乗して下関に帰ってきた高杉晋作が、がらりと襖をひらいたのである。
のろのろと座敷を歩き、
「なあ、坂本さんよ。」
と、あいさつもせずにいった。
「願いあげたい儀があります。」
そういって、竜馬の前にぴたりとすわった。顔がやや長すぎるために眼鼻が間伸びしてみえる。
「戦さをやって賜っせ」
高杉は下関地区での海陸軍総督という命令を受けている。もっともこの方面の陸軍は山県狂介(有朋)が指揮しているから、実際は海軍専門の司令官といっていい。
「いま、大仕事を考えている。ところがわしの身は一つであります。協けて賜っせえ。」
であります、は長州方言だ。
「どんな大仕事でありますか」
と、竜馬は高杉の口まねをした。
「海を越えて幕軍の本拠である小倉城を奪いとることであります。」
「ほほう。」
竜馬はさすが高杉だと思った。小倉は小笠原十七万石の城下で、この藩は代々九州探題の役目を兼ね、一朝事あるときは九州の諸大名を指揮することになっている。
現にいまがそうだ。開戦まで広島に駐在していた幕府の筆頭老中小笠原長行は幕艦富士山丸に乗って小倉城に入った。
長州攻撃の本営になったといっていい。それだけに沿岸の防備は強大で、二百や三百の長兵でとれる城ではない。
しかも渡海作戦である。
「坂本さんに、わが艦隊の半分をまかせるゆえ、幕府海軍を制圧してもらえんだろうか。あとの半分はわしがひきいる。」
と、高杉はいった。
「例の大大砲に弾をこめろ。」
「なぜあいつをつかう。」
と覚兵衛がきくと、
「この霧だ。こっちの影はあまりみえぬ。砲声だけは聞こえる。あの巨砲をぶっぱなせば音は海峡の山々にとどろきわたって敵の敵の荒肝をひしぐことになるだろう。
帆船の庚申丸は置きすててきた。こっちは一隻である。
そのユニオン号が、まるで小さな猟犬のような精悍な姿で敵の艦隊に近づいてゆく。
霧で、敵の旗までみえない。
幕艦は、日の丸の旗をかかげているにちがいない。小倉艦も肥後艦も、それぞれの藩旗のほかに、「政府海軍」としての標識である日の丸をかかげているはずであった。
「大きな艦はどれだ。」
「右はしです。」
「そいつに近づけ。」
そのとおり、覚兵衛は操鑑し、やがて射撃開始の命令をくだした。
砲手長が、号令した。
とたんに竜馬らが「あいつ」といっている大大砲が轟発し、艦体がぶるぶるとふるえ、発射煙がもうもうと甲板を蔽った。
「あたった。」
竜馬は、さすがに興奮した。
大轟音のこだまが、本州と九州の山々からもどってきて、海峡はひとしきり異様な音響のなかにつつまれた。
「もっと撃て、つぎは中、左だ。」
つぎつぎと撃った。
敵艦は狼狽し、たちまち討ちかえしてきたが、ユニオン号の運動が機敏なためにそれを霧の中でとらえることができない。
ついに逃げ出した。
「こっちも逃げるのだ。」
竜馬は、もとの門司の海岸にいそぎ戻ることを命じた。
門司の海岸にもどると、陸地は上陸軍と小倉藩兵とのあいだに激戦が展開されている。
陸上の霧はほとんど霽れ、艦橋から望遠鏡でみると、極彩色の絵巻をみるように戦闘の模様をみることができた。
(これは。)
と竜馬がおもったのは、長州部隊のすさまじすぎるほどの働きぶりであった。
「覚兵衛どん、みろ。」
と、望遠鏡を貸した。
長州人は、たった五百人の兵で上陸しているのである。奇兵隊が主力だから、もともとの武士ではないのだ。町人、百姓の子弟である。
それが、半洋式化された小倉藩の正規武士団を、寡兵をもって押しまくっているのだ。
敵の弾雨の中で散開し、遮蔽物を利用しつつ前へ前へと駈けてゆく。
押されて逃げるのは、代々譜代大名の家柄を誇ってきた小倉小笠原家の藩士である。
「長州が勝っちょりますな。」
「いや、長州が勝っちょるのじゃない。町人と百姓が侍に勝っちょるんじゃ。」
そのことに竜馬は身ぶるいするほどの感動をおぼえた。
たったいま、竜馬の眼前で、平民が、ながいあいだ支配階級であった武士を追い散らしているのである。
革命はきっと成る。
という意味の感動と自信が、竜馬の胸をひたしはじめた。
「天皇のもと万民一階級」
というのが、竜馬の革命理念であった。
「アメリカでは大統領が世襲ではない。」ということがかつての竜馬を仰天させ、
「その大統領が下女の暮らしを心配し、下女の暮らしを楽にさせぬ大統領は次の選挙で落とされる。」
という海外のはなしが、竜馬の心に徳川幕府顛覆の火を点ぜしめた。
そこは、土佐郷士である。
土佐郷士は、二百数十年、藩主山内家が遠州掛川からつれてきた上士階級に抑圧され、蔑視され、斬り捨て御免で殺されたりしてきた。
その郷士たちの血気のものは国をとびだし、倒幕運動に参加しつつある。天下一階級という平等への強烈なあこがれが、かれらのエネルギーであった。
その土佐郷士の先頭に立つのが、竜馬である。
平等と自由。
という言葉こそ竜馬は知らなかったが、その概念を強烈にもっていた。この点、おなじ革命集団でも、長州藩や薩摩藩とはちがっている。余談ながら、維新後、土佐人が自由民権運動をおこし、その牙城となり、薩長が作った藩閥政府と明治絶対体制に反抗してゆくのは、かれらの宿命というほかない。
天は、晴れた。
ユニオン号の土佐人たちは、順次望遠鏡をのぞきつつ、平民が支配階級を追ってゆく姿を、ありありと見た。
「あれが、おれのあたらしい日本の姿だ。」
と、竜馬は自分の理想を、実物をもってみなに教えた。竜馬の社中がかかげる理想が、単なる空想ではない証拠を眼前の風景は証拠だてつつある。
< 小倉城 >
小倉城は、上記の戦いのあと、8月1日に自ら火を放ち、焼け落ちてしまう。幕軍は撤退し、第二次長州征伐は失敗に終わる。幕府衰退の象徴とも言える事件である。
1898(明治31)年、大日本帝国陸軍の第十二師団司令部がこの土地に設置される。森鴎外は軍医部長として三年間勤務していた。住居も保存されている。
現在の城は1959年に再建されたものである。内部に第二次長州征伐の資料は展示されておらず、坂本竜馬や高杉晋作の名は館内にない。竜馬ファンにはやや期待はずれといったところか。
また、公園の敷地内に松本清張記念館が併設されている。その著作の多さとジャンルの幅広さには圧倒されてしまう。偶然、映画の「砂の器」がビデオで放映されていたので、つい見入ってしまった。捜査本部、親子の放浪、コンサートが入れ替わるラストシーンは必見。純粋に感動できる名作である。
小倉城
山陽新幹線・鹿児島本線 小倉駅
福岡県北九州市
小倉城を別のアングルから。
小雨が降っていたので暗い写真になってしまいました。
闘魂派 焼き鳥 飛露喜
小倉市街地でつい撮影してしまったもの。
伝説の猪木VSアリ戦を店の入口に展示するという店主の勇気に感動し、ここに掲載する次第である。ちなみに中には入らなかったので、焼き鳥がどのように闘魂なのかは不明。ご存知の方、ご一報をお願いします。
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