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18. 竜馬がゆく(その10) いろは丸事件編  



 亀山社中を海援隊に改編した竜馬は、蒸気船を手に入れる。
 
 蒸気船が手に入ったことで、海援隊は活況を呈した。
 「まったく、波のようなものだな」
 と、あまり詠嘆的なことをいわぬ竜馬が、このときばかりはしみじみといった。人の運命には波がある。ついこのあいだまで船もなく金もなく水夫まで解雇しようとしていた竜馬の結社が、いまは風帆船一隻、蒸気船一隻をもつ身になった。幕府や雄藩ならいざ知らず、民間で二隻の西洋船をもっているのは竜馬の海援隊しかないであろう。
 「瀬戸内海を圧するに足る。」
 と、竜馬はおもった。瀬戸内海の回船問屋はことごとく和船ばかりで、洋式船をもっている業者は一軒もないのだ。
 「いろは丸」
 と名づけた。
 「どういうわけです。」
 陸奥陽之助がきくと、竜馬は、
 「もののはじめ、という意味さ。」
 といった。いわでものことだが、手習いの初歩のことをいろはという。転じて、いろはからやりなおすというのは、第一歩から出直す、ということにも使った。竜馬は、この船によって海援隊事業の礎石を置こうとしたのだろう。

 「無茶じゃ」
 とわめきながら、いろは丸操舵手金兵衛は狂気のように舵を回転した。とにかく金兵衛は右前方に明光丸を見た(つまり明光丸の右舷燈を見た)ため、大いそぎで舵を左へ切ってのがれようとしたが、どう思ったのか明光丸は右に切り、いよいよ右旋してきた。まっしぐらに突っこんできたといっていい。
 いろは丸は、左へ回転中であったため、右舷の腹を相手方に曝す位置になった。その右腹へ、明光丸の船首が轟然とあたった。
 すさまじい衝突である。
 明光丸の船首がいろは丸にのしかかり、蒸気機関室を破り、煙突をすっとばし、中央のマストを根もとからたたき折った。
 (あっ)
 と、竜馬が刀を腰にぶちこんで船長室からとびだしたとたん、船は大きく傾斜し、海水が滝のように流れこんできた。

 まるで西洋の海賊船のキャプテンのような姿である。
 事実、竜馬はその意気ごみでいた。どうにもならぬような腹立ちである。せっかくの希望だったいろは丸を一瞬で沈められ(まだ完全には沈んでいない状態だが)、数万両にのぼる銃器その他の積み荷を海底に沈められようとしている。
 (なにもかもだめだ)
 とは竜馬は思わなかった。この男のふしぎさは、背骨が弾機(ばね)でできているらしい。絶望するよりも次へ跳躍するようが早かった。
 海賊に化した、というか、とにかくこうなった以上、大紀州藩を相手に大勝負をやるしかない。
 場合によれば武力に訴えるつもりだが、それまでは竜馬の得意の「万国公法」をもって押して押して、押しまくるつもりであった。
 この竜馬の船と紀州藩明光丸の衝突事件は、日本の近代海運史上、最初の事件であった。これ以前にはない。
 始末を国際法でつけようというのが、竜馬のこの悲境から跳躍したあらたな希望であった。紀州藩はむろんのこと、すべての日本人は万国公法などは知るまい。
 海事裁判という概念も知らないだろう。
 それを教え込み、説き伏せ、ねじふせ、その上で賠償金をとり、日本の海難事故に、
 「法」
 というものを打ち樹てようとするのが、この瞬間から燃えあがった竜馬のエネルギーであった。むろん紀州藩が、万国公法を無視してくるならば武力戦でもって正義を通す、という最悪の事態まで竜馬は覚悟している。

 「わが船は沈んだ。事後の始末について話しあいたい。」
 「この船は長崎にゆく。」
 大阪へゆこうとしていた竜馬の船とは逆方向である。高柳は竜馬らに長崎までの船上で協議すればよいではないかというつもりでそういったのである。
 「ご料簡がちがう。」
 竜馬はいった。海難事故は、事故現場のそばで解決するのが国際的常識である。「国際的常識」というものが好きな竜馬は、そういうことをよく知っていた。
 「この近くの港といえば備後の鞆(現在、福山市に編入)だ。そこまで舵をまげられよ。」
 「藩命がある。」
 高柳はいった。紀州藩は長崎であらたに汽船を購入することにきまっていたが、それについて商業上の紛争がおこっている。その解決のために明光丸は急行しているのだ。解決のための藩重役、御勘定奉行茂田一次郎以下、奥御祐筆山本弘太郎、御勝手組頭清水伴右衛門、御仕入頭速水秀十郎らが、搭乗している。
 船長高柳の心境としてはここは大いに気負いこまざるをえない。
 「鞆などに寄っていられぬ。」
 といった。たまたまこの甲板上にのぼってきた御勘定奉行茂田一次郎も、
 「高柳、論議は船上でしろ。船を出せ。」
 と背後からいった。
 竜馬は激怒した。いきなり剣のつかに手をかけ、
 「手前勝手なことばかり申されるな。万国公法というものがある。それを守らぬとあればこの船上で諸君を撫で斬りにして私も切腹するつもりだ。その覚悟で返答されよ。」
 と気色ばんだから、明光丸側もやむなく鞆へ船首をまげることになった。

 鞆は、古来瀬戸内海最大の商港のひとつとして栄えている。
 枡屋という回船問屋がある。たまたま海援隊簿籌官の長崎人小曽根英四郎がこの亭主清左衛門と懇意だったので、隊員三十四名はここを宿所とした。
 「船の仇を討つ。」
 と、竜馬は一同に宣言した。

 
< いろは丸展示館 >
 鞆浦は、広島県の福山駅からバスで30分ほどの距離である。バス停から10分ほど歩くと、いろは丸展示館がある。展示館は江戸時代に建てられた蔵を利用したもので、蔵自体も見物(みもの)である。館内の1階には海援隊の旗や、いろは丸海底再現パノラマ、水中から引き揚げられた積荷の石炭などが展示されている。
 2階は、竜馬が宿泊していた枡屋の2階が再現されている。竜馬像も展示されているが、これは京都タワーのものに匹敵するインパクトがあった。ハッキリと映っていないのが残念だが、観光客をにらみつけるその姿はどう見ても囚人だ。苦笑せざるを得ない一品である。
 また、この展示館には欠けているものが一つある。竜馬関連の場所には必ず有るはずものが、ここには無かった。それは武田鉄矢の写真である。館内には著名人のサインも多く展示されていたが、武田鉄矢のものは無かった。武田鉄矢はここを訪れたことがないのであろうか?

いろは丸展示館
山陽新幹線・山陽本線 福山駅
広島県福山市
展示館内の竜馬像
左手に持っているのは万国公法だ。

枡屋
2階の隠し部屋に竜馬は滞在していた。



< 鞆浦 >
 鞆浦は、奈良時代から港として栄えていたというから歴史ある場所だ。江戸時代からの常夜燈、雁木、波止場、焚場(修理場)、船番所の五つの港湾施設が残っているのは鞆浦だけらしい。瀬戸内海の貴重な都市遺跡である。
 確かに、古い街並を抜けて港に出ると、江戸時代にタイムスリップしたような感覚に浸れる。ぜひこのままの状態で保存しておいてほしいものだ。

鞆浦
右側にいろは丸記念館と常夜燈が見える。

常夜燈

風情有る街並
左の建物は、七卿落遺跡(太田家住宅)


 

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