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12. 竜馬がゆく(その4) 神戸海軍塾編  



勝海舟と出会った竜馬は、歴史の舞台に登場し始める。

 
 このところ、竜馬はひどくいそがしいのである。
 藩邸の下級武士をつかまえては、
 「おンし、海軍に入らんか。」
 とすすめてまわっているのだ。
 みな、驚く。
 「なんの海軍です。」
 おれの海軍じゃ、とはいいにくい。
 じつは、すでに勝海舟と約束して、兵庫の地(いまの神戸)に、いわば私立の海軍学校をつくろうとしていた。
 竜馬の構想では、いま京にあつまってさわいでいる勤王浪士、つまり「東山三十六峰の剣戟の響き」をたてることのみを能としている連中をあつめて、海軍を組織しようとしているのである。むろん浪人だけではなく、諸藩の血気の藩士をもあつめる。
 (国事ばかりを論じていて何になる)
 竜馬は、具体的なことが好きなたちの男であった。

 「神戸というのは、まったくさびしい漁村だった。」
 と昭和十年代まで長生きしたこの新谷道太郎翁は後年、語っている。
 神戸という地名は、慶応三年十二月七日の開港まで、ほとんど世に知られなかった。
 わずかに、平家物語などに出ている、
 「生田の森」
 の付近といえば、そうかと想像のつく程度の海辺で、普通はその西方の宿場の兵庫をもって代表される村名であった。
 村の中央を、山陽道が通っている。その街道の両側には百姓家がならび、浜には小さな漁師の家が点々と建っていた。
 戸数五百戸。
 土地は幕府領で、七百石である。
 この名もなき漁村に、勝は竜馬とともに、
 「神戸軍艦操練所」
 というものを建てようというのだ。

 こうしたなかで、ひとりの白面の貴公子然とした青年がまじっていた。
 「土佐藩士伊達小次郎」
 と、その青年は名乗った。
 竜馬はふきだした。
 「土佐藩には伊達姓などはないぞ。どうも藩名をかたっちゃ、こまる。」
 「いや、私は土佐藩士です。事情あってずっと土佐藩士だといって、いままで来ました。今後も土佐藩士だということにして頂きます。」
 (妙なやつがやってきたな)
 馬づらだが、彫りの深い端正な顔だ。両眼きらきらとかがやき、鼻すじが通り、どちらかといえば西洋人のような顔である。
 伊達といえば、仙台侯、宇和島侯がその姓である。先祖は伊達正宗より出ている。
 (そうそう、紀州藩の重臣で国学者として有名だった人に伊達自得という人がいたな)
 と思いだし、ふと気づくと、この若者も紀州なまりである。
 「君は、紀州人だな。」
 と竜馬がいうと、ああ、ばれたか、と青年は平然としている。その自得の子である、といった。とすれば名家の子である。もっともいまは流行の脱藩浪人だった。
 のちの陸奥宗光。

 
< 神戸海軍操練所跡 >
 神戸の三宮駅から京町筋を歩いていくと、京橋交差点に記念碑が立っている。工事の都合で一時期撤去されていたものの、近年場所を若干移動して、復活したとのこと。また、すぐそばの「みなと公園」内には、塾生の功績を称えた顕彰碑が立っており、勝、竜馬、陸奥の名も記されている。
 それにしても、神戸がわずか140年ほど前に500戸しか無かったというのは驚きである。よくあそこまで発展したものだ。
海軍操練所
山陽本線・阪急・阪神 元町駅
兵庫県神戸市

 
顕彰碑
山陽本線・阪急・阪神 元町駅
兵庫県神戸市


< 陸奥宗光 >
 後に不世出の外務大臣と呼ばれる陸奥宗光。日清戦争開戦直前に日英通商航海条約を結んで領事裁判権を廃止し、関税自主権を一部回復する。そして日清戦争後の講和会議に伊藤博文とともに全権として臨み、下関条約を締結する。下関条約では遼東半島・台湾の割譲などが承認されるが、三国干渉が入り、日露戦争へとつながっていくことになる。

左:伊藤博文 右:陸奥宗光
日清講和記念館
山口県下関市
山陽本線下関駅バス10分

 

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