明保野亭というのは、清水産寧坂をのぼったところにある。竜馬がお田鶴さまと再会するくだりで、すでに登場した。
中岡慎太郎が、土佐へ挙兵準備のために帰る同志のために送別の宴を張ったのは、この家の二階である。
陽が落ちて半刻ばかりしたころ、三々五々同志があつまってきた。
「みな、無事にきたか。」
中岡は、最後の一人が顔を出したとき、ほっとした。夜陰の京の路上には、新選組をはじめ、幕府の見廻組、同別手組、会津藩兵、桑名藩兵が、隊伍をなして徘徊している。その目を避けつつここまでやってくるだけでも至難な情勢になっていた。
参会したなかで主だった者は、上士の谷守部、毛利恭助をはじめ、樋口武(真吉)、島村寿之助、池地退蔵、森新太郎らである。
議すべきことがおわったあと、膳がはこばれ、酒になった。
酒席をとりもっているのは、土州系の勤王志士のためにさまざまな働きをしてきた祗園の侠妓お蘭であった。
「起って舞う。」
といって立ちあがったのは、最年配の樋口武であった。土佐幡多郡中村の郷士で、剣は筑後柳川の大石進の高弟であり、学問は江戸の安積艮斎に学び、洋式砲術は信州の佐久間象山にまなんだという多芸な男である。詩が、もっとも得意であった。
このときも剣をぬいて自作の即興詩を吟じた。低く吟じ、ゆるやかに舞う。
送別す東山の下
情を含む杯酒の中
何ぞ唯期さん晩節を
先ず着せんとす祖鞭の功
この吟詠をきくうちに、多感な中岡はついに首を垂れ、肩をふるわせて泣きはじめた。満座はその中岡をみて声を呑み、粛然となった。
(ついに、ここまで来たか)
という感動が、中岡の胸を熱くしている。文久以来、多くの同志が屍となり、中岡は剣林弾雨のなかをくぐってようやく生きのび、念願の討幕挙兵の寸前にまでこぎつけた。
「諸君」
と、中岡はにわかに杯をあげた。
「よくぞここまで生きのびた。しかしこれからは互いの生はあるまい。われわれさえ命を捨てれば、かならず日本によい日がくる。」
泣きながらあげた杯を飲みほすと芸妓のお蘭が、
(座をほぐしたい)
と思ったのであろう。筆硯と紙をもってきて座敷の中央にすすみ、あざやかに菊一輪を書きあげた。
「菊を栄えしめよ。」
という意を絵にこめたのであろう。みなその絵の余白に、それぞれ即興の詩、歌、句を書きつけた。中岡はどう思ったのか亡友高杉晋作の遺作の五言絶句を書き、筆を置いた。
窓に、晧々たる月がある。 |