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20. 竜馬がゆく(その12) 大政奉還編  



 竜馬は、大政奉還という策を思いつく。
 
 (妙案はないか)
 竜馬は、暗い石畳の道を足駄でたたきつつ、西にむかって歩いた。
 一案はある。
 その案は、後藤が「頼む」といってきたとき、とっさにひらめいた案だが、はたして実現できるかどうか、という点で、竜馬はとつこうつと考えつづけてきている。
 「大政奉還」
 という手だった。
 将軍に、政権を放してしまえ、と持ちかける手である。
 驚天動地の奇手というべきであった。
 もし将軍慶喜が、家康いらい十五代三百年の政権を投げ出し、
 「朝廷へかえし奉る。」
 という挙に出れば、薩長の流血革命派はふりあげた刃のやりどころにこまるであろう。
 そのあいだに一挙に京都に天皇中心の新政府を樹立してしまう。その政府は、賢侯と志士と公卿の合議制にする。
 (はたして政権を慶喜はなげだすかどうか)
 この一瞬、幕府は消滅し、徳川家は単に一諸侯の列にさがるのである。そういう自己否定の道を、慶喜はとれるかどうか。
 (人間、自分で自分の革命をおこすというのは不可能にちかいものだ。将軍がみずから将軍でなくなってしまうことを、自分でやるかどうか)
 人情、おそらくそうではあるまい。
 たとえ慶喜が個人としてそういう心境になったとしても、慶喜をとりまく幕府官僚がそれをゆるさないであろう。
 (しかし)
 と、竜馬は繰りかえしおもった。
 日本を革命の戦火からすくうのはその一手しかないのである。
 さらには、家康以来の徳川家の家名を日本の後代にのこす手もそれ以外にないし、また土佐の老公山内容堂の板挟みの苦しさを一挙に解決する手も、これしかない。
 奇術的な手ではある。
 技術として困難ではある。しかし右の三つの難問を一挙に解決できる手は、これしかないではないか。

 その日がきた。
 慶応三年十月十三日である。
 昼の太鼓がきこえてほどなく、二条城の城門に裃姿の武士がぞくぞくと入りはじめた。慶喜から招集をうけている四十藩の代表者で、大藩のばあいは同役二人が招待されているため、総数は六、七十人になるであろう。
 会場は、城内大広間の二ノ間である。二時前、一同着座した。
 二時すぎ、上段の間をすこしさがったあたりに、幕府の首席老中の板倉静勝があらわれ沈痛な表情で着座した。従えている吏僚は、大目付の戸川伊豆守、目付の設楽岩次郎である。
 慶喜は、出ない。

(中略)

 将軍の「お言葉」が回覧されている。広間はなんとなくざわめいているが、みな藩の重役で殿中作法が身についているため、みだりに声をあげる者がいない。
 このため後藤象二郎は、
 (はたして吉か凶か)
 と身を揉みたくなるようないらだちを覚えているが、書類が回覧されてくるまで、わからない。やがてそれがまわってきた。
 後藤は拝礼し、手にとった。
 (あっ)
 と叫びたくなるほどに喜悦した。
 政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽し・・・・・・。
 という旨の一行が目に入ったのである。
 「帯刀殿」
 と、となりの薩摩小松帯刀にささやいた。小松はうなずいた。
 後藤もうなずいた。ついに成功した。後藤は、ひざをつかんだ。こうとなれば立案者の竜馬に一刻も早くしらせたかったが、中座をするわけにはいかない。

 竜馬は、ひらいた。
 黙然と首を垂れて手紙に見入っている。顔が、あがらない。
 (なにごとぞ)
 と、一同は膝の上の後藤の文章をのぞきこむと、なんと大政奉還の実現がありありと報じられているではないか。
 みな、声をうしなった。首領の竜馬が、依然として言葉を発せず、顔を伏せたままで凝然とすわっているからである。
 やがて、その竜馬が顔を伏せてないていることを一同は知った。むりもないであろうとみな思った。この一事の成就のために、竜馬は骨身をけずるような苦心をしてきたことを一同は知っている。
 が、竜馬の感動はべつのことだった。やがて竜馬は体を横倒しにし、畳をたたき、かつ起きあがって、彼等が想像していたこととはまったく別なことを言った。

 竜馬がこのとき呟いた言葉とその光景は、そのまわりにいた中島作太郎、陸奥陽之助らの生涯忘れえぬ記憶になった。かれらはそれをのちに人に語り、やがてこのときの竜馬の口語が、古格な文語になって語り継がれた。このためこの場合、竜馬の呟きを文語として書くほうが、いっそうに自然であろう。

 大樹公(将軍)、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん。

 と声をふるわせつついった。竜馬は自分の体内に動く感激のために、ついには姿勢をささえていられぬ様子であった。
 この男のこのときの感動ほど複雑で、しかも単純なものはなかったといっていい。

< 二条城 >
 京都旅行の定番とも言うべき二条城。徳川家康が1603年に京都の宿所として造営したものだそうだ。僕が最初に行ったのは1985年4月、中学3年の修学旅行である。このときは他からも修学旅行の中高生が大挙して押し寄せたために満員となってしまい、入場を断られた。そのために庭を散策しただけで帰るというまるで無意味な時間を過ごすはめになった。念願かなって二条城の中に入ることが出来たのは社会人になってからの1995年1月15日、阪神大震災の二日前のことである。
 入口からすぐのところ、鶯張りの廊下がある。最初はそうと気づかずに、「やたらにギシギシとするなぁ。」などと思ってしまったのは、社会人としてお恥ずかしい限りである。
 順路に沿って歩いていくと、大政奉還が行われた広間に出る。ここが竜馬が命を賭けた大政奉還の舞台となった場所か、という感動に浸り、その場に立ち尽くした記憶がある。内部は撮影厳禁なので、ここにご紹介できないのは残念だ。

二条城
地下鉄東西線二条城前駅
京都府京都市




 

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