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21. 竜馬がゆく(その13) 船中八策&新政府案編  



 竜馬は、討幕後の姿も描いていた。
 
< 船中八策 >
 「八策ある。」
 と、竜馬はいった。
 海援隊文官の長岡謙吉が、大きな紙をひろげて毛筆筆記の支度をした。
 「言うぜ。」
 竜馬は長岡に合図し、やがて船窓を見た。
 「第一策。天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべき事」
 この一条は、竜馬が歴史にむかって書いた最大の文字というべきであろう。
 ・・・・・・・・・・・・
 「第二策。上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべき事」
 この一項は、新日本を民主政体にすることを断乎として規定したものといっていい。余談ながら維新政府はなお革命直後の独裁政体のままつづき、明治二十三年になってようやく貴族院、衆議院より成る帝国議会が開院されている。
 「第三策。有材の公卿・諸侯、および天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官を除くべき事」
 「第四策。外国の交際、広く公議を採り、新たに至当の規約を立つべき事」
 「第五策。古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事」
 「第六策。海軍よろしく拡張すべき事」
 「第七策。御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事」
 「第八策。金銀物貨、よろしく外国と平均の法を設くべき事」

 後藤は、驚嘆した。
 「竜馬、おぬしはどこでその智恵がついた?」
 「智恵か」
 思想の意味である。
 竜馬は、苦笑した。後藤のような田舎家老にいっても、ここ数年来の竜馬の苦心は理解してもらえない。
 「いろいろさ。」

 ここで、竜馬の思想がいつ具体化されたか確認してみたい。「船中八策」は1867年6月、大政奉還を行うために竜馬が長崎から京都に乗り込む船の中で書かれたものだが、その実現には長い時間が掛かっている。竜馬の先見性を物語るものだ。八策の中に海軍の拡張が含まれているのが竜馬らしい。竜馬の外交についての思想は陸奥宗光に引き継がれる。陸奥宗光は後年外務大臣に就任し、不平等条約の改正に尽力した。
天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべき事政権獲得策1867年 大政奉還
上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべき事二院制議会1890年 第一回帝国議会
有材の公卿・諸侯、および天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官を除くべき事人材の活用1868年 太政官制
1885年 内閣制度
外国の交際、広く公議を採り、新たに至当の規約を立つべき事条約改正1899年 治外法権回復
1911年 関税自主権回復
古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事新たな法の制定1889年 大日本帝国憲法発布
海軍よろしく拡張すべき事海軍の拡張1872年 陸海軍省設置
御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事近衛兵の設置1891年 近衛師団設置
金銀物貨、よろしく外国と平均の法を設くべき事通貨・為替の安定1911年 関税自主権回復

 また、この船中八策は「五箇条のご誓文」の基となったとも言われている。五箇条のご誓文は1868年3月に発布された明治新政府の基本方針である。起草は由利公正、旧名を三岡八郎。竜馬が暗殺される直前に、福井まで会いにいった男である。

一、広く会議を興し、万機公論に決すべし
一、上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし
一、官武一途、庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
一、智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし





< 新政府案 >

 ここも、「竜馬がゆく」の有名なシーンだ。

 西郷は一覧し、それを小松、大久保にまわし、ぜんぶが一読したあと、ふたたびそれを手に取り、熟視した。
 (竜馬の名がない)
 西郷は、不審におもった。薩長連合から大政奉還にいたるまでの大仕事をやりとげた竜馬の名は、当然この「参議」のなかでの筆頭に位置すべきであろう。たとえ筆頭でなくても土佐藩から選出さるべき名であった。

(中略)

「坂本さァ」
と、西郷は猪首を竜馬にねじまげた。縁側にいた竜馬は、それに応じて西郷のほうへ上体を曲げた。
「え?」
という顔を竜馬はしている。西郷はいった。
「この表を拝見すると、当然土州から出る尊兄の名が見あたらんが、どぎゃンしもしたかの。」
「わしの名が?」
竜馬はいった。陸奥が竜馬の顔を観察すると、近視の目をひどくほそめている。意外なことをきくといった表情である。
「わしァ、出ませんぜ。」
と、いきなりいった。
「あれは、きらいでな。」
なにが、と西郷が問いかけると、竜馬は、
「窮屈な役人がさ」
といった。
「窮屈な役人にならずに、お前さァは何バしなはる。」
「左様さ」
竜馬はやおら身を起こした。このさきが、陸奥が終生わすれえぬせりふとなった。
「世界の海援隊でもやりましょうかな。」
 陸奥がのちのちまで人に語ったところによると、このときの竜馬こそ、西郷より二枚も三枚も大人物のように思われた、という。
 さすがの西郷も、これには二の句もなかった。
 

 司馬遼太郎は「あとがき」でこのようにコメントしている。

 竜馬の一言は維新風雲史上の白眉といえるであろう。単にその心境のさわやかさをいうのではない。筆者は、この一言をつねに念頭におきつつこの長い小説を書きすすめた。このあたりの消息が、竜馬が仕事をなしえた秘訣であったようにおもわれる。その点、西郷もかわらない。私心を去って自分をむなしくしておかなければ人は集まらない。人が集まることによって智恵と力が持ち寄られてくる。仕事をする人間というものの条件のひとつなのであろう。

 「世界の 海援隊 」、その言葉に惹かれて商社に入った人間は少なくないはずだ。もちろん、僕もその一人である。今回、自分でこの部分をタイプ打ちし、あらためて感動している次第だ。このシーンが実話かどうかは不明だが、このシーンが多くの人を魅了したのは確かである。
 ちなみに、このシーンの舞台も、薩長連合の成立と同じく、薩摩藩邸である。

薩摩藩邸跡の碑
京都市地下鉄烏丸線 今出川駅
京都府京都市



 

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