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22. 竜馬がゆく(その14) 竜馬の最期編  



 1867年11月15日、竜馬は中岡慎太郎とともに暗殺される。大政奉還のわずか一ヶ月後のことであった。
 
 数人の武士が、近江屋の軒下に立った。午後九時すぎであった。刺客である。この刺客達の名は維新後の取りしらべでほぼ判明するのだが、幕府の見廻組組頭佐々木唯三郎指揮の六人であった。

 竜馬は床ノ間の佩刀陸奥守吉行をとろうとし、すばやく背後へ身をひねった。
 この一動作を、刺客は見のがさない。竜馬の左手が刀の鞘をつかんだとき、さらに二ノ太刀を加えた。左肩さきから左背骨にかけて、骨を断つ斬撃を竜馬は受けた。
 が、この瞬間、この若者の生命がもっとも高揚した。竜馬は跳ねるように立ちあがった。同時に刀を鞘ぐるみのまま、左手でつかをにぎり、右手で鞘をつかみ、鞘を上へ払いとばそうとしたが、敵の三ノ太刀はさらにそれをゆるさない。
 もっともはげしく斬撃してきた。竜馬は刀を抜くゆとりもなく、鞘ぐるみでその三ノ太刀を受けた。火が散り、鉄が飛んだ。
 おどろくべきことであった。敵の斬撃のすさまじさは、竜馬がもつ陸奥守吉行の太刀打の部分から二十センチばかり鞘を割り、なかみの刀身を十センチばかり鐫ってけずったことであった。瞬間、半月形の鉄片が、飛んだ。敵のわざのすさまじさもさることながら、致命傷を受けつつも、なお鉄を鐫るまでの衝撃を受けえた竜馬の気迫は尋常ではない。
 鐫ったいきおいで敵の太刀は流れ、流れて竜馬の前額部をさらに深く薙ぎ斬った。
 竜馬は、ようやく崩れた。

 竜馬は突如、中岡をみて笑った。澄んだ、太虚のようにあかるい微笑が、中岡の網膜にひろがった。
 「慎ノ字、おれは脳をやられている。もう、いかぬ。」
 それが、竜馬の最後のことばになった。言いおわると最後の息をつき、倒れ、なんの未練もなげに、その霊は天にむかって駈けのぼった。
 天に意思がある。
 としか、この若者の場合、おもえない。
 天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。
 この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。
 しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。
 



< 近江屋跡 >
 近江屋跡は現在旅行代理店になっている。僕が行ったときは、パンフレットの後ろにひっそりと碑が立っていた。喫茶店にでもなっていれば中に入りたいところだが、旅行代理店ではさすがに入るのが憚られた。

坂本竜馬 中岡慎太郎 遭難之碑 
阪急京都線 河原町駅
京都府京都市

 酢屋から近江屋に住居を移した、とは言え、5分も歩けば着いてしまうような距離である。現在ではとても身を隠したとは言えないほどの近さだ。当時、人間の行動範囲はおそろしく狭かったのだろう。



< 霊山 >
 1867年11月18日、海援隊と陸援隊の合同葬として、竜馬・中岡慎太郎・藤吉の三名の葬儀が行われた。竜馬と慎太郎は今でもならんで霊山に眠っている。ここでは絵馬ではなく、白い石板に一言書いて奉納することができる。全国から来た竜馬ファンの熱い言葉は読み応えありだ。

左が竜馬の墓、右が慎太郎の墓だ。
京阪電鉄京阪四条駅
京都府京都市
向かいには二人の小さな銅像が立っている。


 また、霊山からすぐそばにある円山公園にも、竜馬と慎太郎の銅像が立っている。こちらはかなり大きめだ。

京阪電鉄京阪四条駅
京都府京都市



< おりょうの墓 >
 竜馬の死をおりょうは下関の伊藤邸で聞いた。わずか1年9ヶ月の短い結婚生活であった。

本陣伊藤宅跡
山口県下関市
山陽本線下関駅バス10分


 その後、おりょうは高知の竜馬生家で暮らすこととなるが、反りが合わなかったためか、一年半後には高知を去る。その後、放浪の末、横須賀で再婚した。明治39年に66歳で亡くなり、墓は横須賀市の信楽寺にある。

おりょうの墓
京浜急行京急大津駅
神奈川県横須賀市


 

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