このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

24. 世に棲む日日(その2) 松陰の誕生地編  


 吉田松陰は萩の生まれである。

 さきに杉家の罹災についてふれた。萩から松本村に移ったと書いた。しかしすぐいまの屋敷に入ったのではなく、もっと東のほうの山の中に小屋をたて、一時罹災者として暮らしていた時期がある。そのもっとも悲惨なころにお滝は嫁した。
 その山住いのころの杉家の敷地あとがまだ残っている。松陰の墓からほんのわずか離れたところで、その二間しかない狭さはどう考えてもここに大家族がすんでいたとは物理的に考えることができぬほどのものである。舅が健在なころである。姑にいたっては中風で寝たきりであり、夫の妹までが病いで寝ていた。ここで民治も松陰もうまれた。
 
 

< 松陰誕生地 >
 松陰の生家は既に無いが、誕生地は保存されている。東萩駅からレンタサイクルで松下村塾を過ぎ、5分程の距離である。かなりの急坂で登りきることが出来ず、途中で自転車を下りて、押して登った。体力の衰えを感じる瞬間だ。
 坂の上の誕生地には、銅像が立っている。松陰の脇の人物は、金子重輔。後に重要な場面で登場します。

吉田松陰先生像
山口県萩市
山陰本線東萩駅 自転車15分

吉田松陰誕生地
この右上に銅像が立っている。



< 玉木文之進 >

松陰の師、玉木文之進の家は、松陰誕生地から坂を下ったところにある。
 
 その玉木文之進が、松陰のふたり目の教師であった。最初の教師は父の杉百合之助であることはさきにのべたが、その父から初等教育の前期をうけ、父の末弟のこの玉木先生からは初等教育後期、および中等教育といった内容のものをさずけられた。あるいは高等教育までおよんだといえるかもしれない。
 玉木先生は藩士である。しかし無役で(のち役についた)、いつも家にいる。時間がふんだんにあるため、
 「松下村塾」
という家塾をひらいた。松下とは村名の松本からとっているから、要するに松本村学校というふうな命名であり、それ以外の哲学的な意味などはない。村学校だから百姓の子も魚屋の子も通学しえた。げんに、そういう子も通学していた。村塾の建物は、とくべつにはない。文之進の実家の杉家である。つまり、松陰の家であった。
 玉木文之進が松下村塾をひらいたのは天保十三年だから、松陰の十二歳のときである。そののち役職についたために閉じざるをえなかった。その間、中断し、松陰が二十五歳のとき藩命により自宅で禁錮されてからこの村塾を再興したかたちになった。つまり松陰はこの塾の創設者でなく相続者であった。ちなみに、文之進のときも松陰のときも、塾生に対していっさい無報酬である。

玉木文之進宅



 

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