このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

25. 世に棲む日日(その3) 平戸編  


 松陰は平戸に留学する。生まれて初めて長州藩の外に出た。

 この山田宇右衛門が、
 「遊歴のこと、容易なことではおゆるしがおりまい。いったい、どこへゆくつもりか」
 と、松陰にきいた。
 「肥前(長崎県)平戸へまいりたいとおもいますが」
 松陰がいうと、宇右衛門はひざをうって声をあげ、
 「こいつはぐうぜん、一致した。わしも平戸がよいとおもった。平戸へゆけ。ゆけば、おぬしの学問がひと皮むけるはずだ。」
 と、ひどく昂奮した。
 
 山田宇右衛門が
 「平戸、平戸」
 と、しきりにいう肥前平戸とは、わずか六万一千石の小藩にすぎない。そのおもな藩域である平戸島は、まわりが一六〇キロ、山がほとんどで海岸に断崖がせまり、人口は三万に足りない。しかしこの藩(松浦家)はむかしから学問のさかんなことで有名であり、多くの人材を出したが、いま松陰が考えつづけている平戸ゆきの目的は、かれの専門である山鹿流兵学の研究のためであった。

 話をはやく他へ転じたいとおもいながら、この稿における松陰はまだ九州に、とくに平戸に居つづけている。
 このこと、どうも筆者にとってやむをえない。なぜならば松陰にとって最初の外界への旅立ちである九州旅行は、この青年の生涯のものの考え方の一部をきめてしまったようにおもえるからである。
 このうつくしい城のある平戸島は、島そのものが書物の宝庫のように松陰にはおもえた。さまざまの書物を借りだしては読み、あるいは全部写したり、一部だけ写しとったりした。

 

< 平戸 >
  平戸は、1500年代に南蛮貿易の拠点として栄え、ザビエルも訪れている。1600年代初頭にはオランダとイギリスが商館を建設したが、1641年にオランダ商館が、長崎の出島に移転したことにより、繁栄も終わる。
 平戸島への玄関口は松浦鉄道の「たびら平戸口駅」である。日本最西端の駅というのは鉄道マニア間では初級知識となっているので、押さえておきたい。平戸市街へはたびら平戸口駅からバスで10分程度だったと記憶している。平戸市街は坂は多いが、歩いて観光するのに適した広さである。風情の有る街並が続くので、歩いていて実に面白かった。

日本最西端の駅碑
長崎県北松浦郡田平町
たびら平戸口駅
平戸城
長崎県平戸市

寺院と教会の風景オランダ塀

 平戸観光資料館には「ジャガタラ文」が展示されている。
 1612年、2代将軍徳川秀忠は幕領及び直属家臣にキリシタン信仰を禁じ、翌年に禁教令を発布。1614年にはキリシタンの国外追放を実施する。キリシタンの反乱として有名なのが、1637年の島原の乱である。また、隠れキリシタンの物語は、遠藤周作の「沈黙」(江戸時代)や「女の一生」(幕末)をぜひご一読いただきたい。
 キリシタンの国外追放時に、混血児も一緒に追放された。その混血児の中にお春という娘がいた。お春は、追放されたインドネシアのジャカルタから、オランダ人の船長に布を託した。律儀なオランダ人船長は、お春の友達にその布を手渡す。その布にはお春の文字が書かれていた。

日本こいしや、こいしや、かりそめにたちいでて、
又とかえらぬふるさととおもへば、心もこころならず、
なみだにむせび、めもくれ、
ゆめうつつともさらにわきまへず候へども、
ありのことにちゃづつみ一つしんじ上候、
あらにほんこいしや、こいしや、にほんこいしや、

こしょろ
うばさままいる



 

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